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第16話 潜入捜査官(S)
しおりを挟む「それはつまり俺に……いえ、自分に犯罪組織の一員になれとおっしゃっているのですか?」
俺の問い返しに、簡素だが剛健な机に両肘を突きその上に顎を乗せるという姿勢で座っている五十がらみの屈強そうな男性……警視総監はなにも応えず。ただその獲物を狙う鷹のような鋭い視線を、じっとこちらに向け続けているだけだった。
「納得出来ませんね! 自分が警察官を志したのは、その犯罪組織によって両親と妹を無残に殺されたことが理由です。組織を完膚なきまでに叩き潰し、その構成員をボスや幹部らはもちろん下っ端のチンピラに至るまで一人残らず刑務所にぶちこむことだけがいまの自分の生きる目的であり最大唯一の望みだというのに……」
そんな俺に対し、よりによってその犯罪組織の一員になれとは……。いかにおれが警察官を拝命していまだ半年しか経っていないひよっこ巡査で相手が天下の警視総監だとしても、言っていいことと悪いことがある。
自分でもはっきりそれと分かるほど顔を赤くしている俺に対して総監は微動だにせず、ただすっと両目を眇めながら落ち着けと静かに呟くだけだった。
「私はなにも君に本気で犯罪組織の人間になれと言っているわけではない。潜入捜査官として可能な限り組織の奥深くまで入りこみ、組織内で地位と人望を高め人脈を広げることで情報を多く集めて、それを警察に伝える役目を君に任せたいと思っているのだ」
「そんなことは分かっています! つまり自分にS(スパイ)になれということですよね? ですがなんでよりにもよって自分なんですか!? 警察には自分なんかより優秀な人間は掃いて捨てるほどいるでしょう?」
「それは先程、君自身が言っていた通り、君が心の底から犯罪組織を憎み、その撲滅を心底願っているからだ」
「……」
「確かに、能力だけで言えば君より有能な人間は警察には大勢いる。だがSというのは孤独かつ苛烈な任務だ。なにしろ味方の援護もなく敵の真っ只中に放りこまれ、いつ正体がバレて消されるかも分からないという恐怖と重圧の中で過ごさなければならないのだからな」
単に優秀なだけの人間では、そのプレッシャーには恐らく耐え切れない。早く任務を終わらせてその緊張状態から抜け出そうとして功を焦り自滅するか、神経を磨耗させすぎて正気を保つことが出来なくなり廃人になるかのどちらかだろうと、総監は淡々と言葉を続ける。
「だが君のように悪を憎む強い心と信念を持ち、その目的のためなら自分の生命すら犠牲にすることを厭わない鋼の精神の持ち主なら話は別だ。君は確かに優秀な警察官ではないかもしれないが、犯罪組織を憎む気持ちは警察の中で誰よりも強い。君ならばいかなる苦難も困難も乗り越え、この過酷な任務を最後までやり遂げることが出来ると、私は信じているのだよ」
氷のように冷徹な表情で、しかし炎のごとき熱い口調で総監は瞬き一つすることなくまっすぐおれの目を見つめながら言ってくる。
その説得に心動かされたと言うわけではないが、結局俺は総監の言葉に首を縦に振った。
総監は、もちろん君には断る権利があると言ったが、それを真に受けるほど俺は世間知らずではない。
なにしろことは、この国最大の犯罪組織に現役警察官を送りこむという、半ばギャンブルのような一大プロジェクトなのだ。
犯罪組織に入りこむ以上、たとえSであっても……いやSであるからこそ、全く手を汚さないというわけにはいかない。密輸や強盗、傷害、放火、窃盗、詐欺、果ては殺人など、様々な悪行に手を染めなければならないだろう。それが出来なければ組織から信用されることはなく、それどころか最悪の場合は警察との関与を疑われ、拷問の末無残に殺されてしまうかもしれないのだから。
警視総監も口にこそ出さなかったが犯罪組織のSになれと命令した以上、必要とあらばそれらの犯罪行為も躊躇うなと明言したも同じなのである。
そんなことが万が一マスコミに露見したら、警視総監の首が一つ飛ぶだけではすまない。与党の有力政治家、官僚など何十人分、下手すれば何百人分もの辞表が必要になることだろう。
つまりもしも俺がこの命令を断ったなら、総監としては秘密が漏れるのを防ぐためになんだかんだ理由をつけて俺を免職にするか……そこまでいかなくてもどこかド田舎の駐在所に飛ばして、永久に飼い殺しにするくらいのことは当然考えていたに違いない。
どちらにしろそうなったら、憎き組織を壊滅させるという俺の目標は永遠に達成することは出来ない。否が応でも総監の命令に従うしかないのだ。
それによく考えてみるまでもなく、この命令は俺にとってもそう悪い話ではない。Sというのは組織を潰すための中核ではないにせよ、少なくともその尖兵ではあるのだから。本来であれば、俺のようなさほど有能ではない警察官が組織の壊滅作戦にわずかでも関われることはないのである。それに参加させてもらえると言うのならば、願ったり叶ったりだろう。
俺がSになると言うと総監は満足したような笑みを浮かべた。続いてもし無事に組織の壊滅に成功したとしても、警察が犯罪組織にSを送りこんだなどと公にするわけにはいかないから、表向き俺の手柄を称えることは出来ない。だが昇進や昇給など、なんらかの形で功績には必ず報いると約束してくれた。
まあ総監の本音としては、成功すればもうけもの。失敗しても名もない一警察官が犠牲になるだけで済むのだから安いものだといった気分なのではないだろうか。
その後。俺は総監の指示で軽い整形を行ない顔を変えると、警察が用意したニセの戸籍によって現実には存在しない人物に成りすました。それから一通りSとしての訓練を行なった後で、裏の伝手を使って犯罪組織の一員として、その内部に入りこむことに成功したのである。
それからの数年間は、想像していた以上に過酷な日々だった。
Sとして、組織壊滅につながるほどの重大な情報を警察に伝えるためには、それを知ることが出来るほどの高い地位に就かなくてはならない。
そして俺のように頭も良くなく、これと言った特技も無い人間が労力を惜しんで出世など出来るわけがない。これは裏の世界も表の世界と同じことである。
なので俺は組織の人間として、やれることは全て行なった。詐欺恐喝窃盗に暴行などはもちろんのこと。麻薬に拳銃、金塊宝石などの密輸。免許証や保険証など身分証の偽造。ハッキングによる政府官庁や大企業のコンピューターへの侵入とデータの破壊。エトセトラ、エトセトラ……。
万が一の時の用心のため、俺は組織に入ってからずっと警察への接触を断っているし、向こうからこちらに連絡してくることも緊急時以外はない。
なのでもしこれらの犯罪行為が警察に見つかれば、当然俺も普通に逮捕されるし。犯罪組織にSとして潜入しておきながら警察に捕まるような間抜けを、警視総監が自らの立場を危うくしてまでかばってくれるわけがない。
そのためそうなったら俺は永久に警察官に戻れず、組織を壊滅させるという生涯の目標を達成することも出来ず、前科ものとして細々として生きていくしかないのだ。幸いにもいまのところ、警察に尻尾を捕まれるようなヘマは犯していないが。
殺人も犯した。とは言え、その大半は対立する組織幹部の暗殺や組織内での抗争によるものだったから、人を殺したと言ってもさほど罪悪感は覚えなかった。
もっとも、後味の悪い殺人もいくつかはあったが。
たとえば組織の被害にあった人たちを救済し、組織撲滅のため力を尽くしてきた人権派の弁護士を殺害した後は、心が痛んで相当嫌な気分になったし。
組織を抜けようとした裏切り者への制裁と見せしめのため、その男の妻と娘を彼の目の前で散々なぶった後に生命を奪い、その後彼自身も殺すことになった時はしばらくの間水さえも喉を通らなかった。
また、俺と同じく警察のSとして組織に派遣されてきた男を処刑したこともある。
俺以外にもSがいるとは聞かされていなかったが、まあいても不思議はないだろう。それに万が一正体がバレた時に、横のつながりをたどって他のSの正体も判明してしまうなどということになっては困るから、Sに他のSの存在を教えないというのも理に叶ってはいる。
にも関わらず、何故俺が自分以外のSの存在を知ったかと言うと、こいつがまた信じられないほど馬鹿だったからである。この男、時々遠方まで足を伸ばして小さな個人経営の飲み屋に通っていたのだが。よりによってそこで同僚の警察官と会って、直接組織の情報を流していたのだ。
その飲み屋は組織が縄張りとしているエリアからは外れた場所にあるので大丈夫だと思ったのかもしれないが、だとしたら考えが甘すぎる。
組織の構成員がわざわざ組織の勢力範囲外の店に頻繁に足を運び、そこで毎回特定の人物と会ってなどいたら、怪しんでくれと言っているようなものではないか。
案の定。彼を怪しんだ幹部の命令により、俺は彼の素行調査を行ない、その結果彼もまた俺と同じ警察から派遣されたSであると判明した次第だ。
この時はさすがに、彼の正体を幹部へ告発すべきかどうか俺も悩んだ。だがもし俺がだんまりを決めこんでこの場は納めたとしても、迂闊な奴のことだ。どうせそのうちまたなんらかのボロを出すに決まっている。
そうなった時『何故お前は前回、奴の正体を見抜けなかったのだ』と幹部に責められるようなことになってはすこぶるまずい。単に無能判定されるだけならまだしも。最悪の場合、俺が故意に彼をかばったことがバレて、俺もまた警察のSであると気づかれてしまうかもしれないからだ。
なので俺は奴を切り捨てることにした。彼を警察のSであると断定し、幹部に報告したのである。その結果。幹部は俺に奴を拷問して、吐き出せるだけの情報を搾り出した後に殺せと命じてきて。もちろん俺は組織の人間として、忠実にその命令に従ったという次第だ。
組織での生活は、そんなことの繰り返しだった。よく人間性が壊れなかったと、自分で感心するくらいである。
だがそんな苦行に耐え続けた甲斐もあった。
他の構成員が誰もやりたがらないような汚い仕事や辛い仕事、苦しい仕事に危険な仕事などにも積極的に取り組んで、文句一つ言うことなく淡々とやり遂げていった、その姿勢と実績が評価されたのだろう。俺は組織の中で異例の出世を果たし、わずか数年でナンバー3の地位にまで成り上がっていったのだ。
ナンバー3と言っても、ナンバー1と2はすでに高齢で半ば以上引退しているも同然であり、その地位も名誉職のようなものになっていた。そのため、実質的に組織を牛耳っているのは俺ということになる。
不思議な気分である。組織を壊滅させるために組織に潜入した俺が誰よりも組織のために働き、その結果実質的なトップへと立つことになったのだから。
そんな俺のもとに、ある日一通のメールが届いた。
普通に見ればそれは、数多くいる愛人の一人が最近の不義理をやんわりと責めるような甘ったるい恨み言が延々と綴られているだけのものであるが。それは偽装で、実際は緊急時に警視総監から直々に送られてくる、暗号による通信文なのだ。
解読すると、内容はこうだ。
警察はようやく、組織を完全壊滅させるための準備を整え終えた。三日後に警察の総力を結集して組織に攻撃を仕掛け、物理的に崩壊させる。そのために、これまでの潜入捜査で俺が得た組織の内情や構成員たちの情報、幹部の名前や所持している武器の種類や数などを出来るだけ細かく正確に伝えよ、という指示。
さらにこれまでよくやってくれたという労いの言葉。ことの性質上俺の手柄を声高に宣伝することは出来ないが、全てが解決した後で以前からの約束通り警察への復帰と巡査部長への昇進、長期有給休暇と特別ボーナスの授与などを約束してくれるものだった。
それを読んでおれは思わず嗤い出してしまった。昇進? 有給休暇にボーナス? いまやこの国一番の巨大犯罪組織のトップに立っている俺が、そんなものを喜ぶと、警視総監は本気で思っているのだろうか?
そんなものはいらない。俺の目的は組織を壊滅させること、ただそれだけなのだから。それが達成されるなら、それ自体がなによりの報酬となる。他に欲しいものなどなにもない。
だが、ふと思うのだ。警視総監は俺が裏切るなどとは露ほども思っていないのか、暗号メールの中で組織攻撃作戦の内容をこれでもかとばかり詳しく説明している。俺の情報提供に加えてこの計画がその通りに行なわれれば、なるほど確かに組織は壊滅するだろう。
しかしもし俺が肝心の情報提供を拒んだら? あるいは敢えて嘘の情報を伝えたり、警察の襲撃があることを組織の構成員に伝えてひそかに迎撃の準備をするよう命令したりしたらどうなる?
言うまでもない。そうなったら大打撃を受けるのは警察のほうである。壊滅とまではいかなくともその力は大きく殺がれ、目に見えて弱体化することになるだろう。
そうなれば、もはや組織の天下は疑いなしだ。組織はすでにこの国の裏の世界を完全に統べているが、それだけにとどまらず表の世界さえも支配出来るかもしれない。
そしてそうなった時、名実共にその組織のナンバー1の座に君臨しているのは、間違いなくこの俺だ。つまりその気になれば俺は表と裏の両方で、この国の全てを手に入れることが出来るのである。
と、そこまで考えて俺はもう一度嗤った。
それで俺はどうするつもりなのかって? 当初の目的通り組織を壊滅させる? それとも警察を裏切り、組織の……ひいてはこの国のトップの座に就く?
そんなもの、決まっているじゃないか。
俺は……。
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