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第6話 夢の中の故郷(Tear Drop)

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 どんより灰色にくぐもった空に、青藍せいらんが少しずつ顔を見せ始める季節になった。白一色だった山肌も次第に茶や緑にと彩られていき、冷たく新鮮な雪け水が小川のせせらぎに乗って流れている。

 そんな山あいの小さな村に住むあたしはたきぎ拾いのために、山のふもとに広がる森の中を歩いていた。

 あたしは村の慈救院じきゅういんに住む、十五歳の女の子だ。ここアドラバ共和国は東南アジア南部に位置する小国で、政府軍とゲリラとの間で長く内乱が続いている。戦乱で親を失った子供も数多く、そんな子供たちを集めて世話をするため設立されたのが慈救院である。あたしも十歳の時に両親を亡くしてこの慈救院に預けられて以来、幼い子供たちの面倒を見たり雑用をこなしたりしながら、暮らしていた。

「ふぅ。ちょっとくたびれちゃったなあ」

 かなり長い時間森の中を歩き続けていたために足が痛くなってしまい、あたしは小さくため息をこぼした。ちょっとたきぎ拾いに夢中になりすぎたらしい。どこかに休めそうな所はないかなと思って周囲を見回してみると、うまい具合に近くに小川を見つけることが出来た。

 あそこで休もうと思いながらゆっくり足を進めると、なにやら歌声のようなものが耳に入ってきたので、あたしは首をかしげた。どうやら外国の歌のようだけれど、この辺りに外国人などは住んでいないはずなのに。

「誰だろう?」

 好奇心にかられ、あたしは木の影から声のするほうを覗きこんでみる。すると一人の少年が川のふちにと腰掛けながら、鼻歌のようなものを静かに口ずさんでいる様子を見てとることが出来たのだった。

「……トオル?」

 その横顔を見て、あたしは小さく顔をしかめた。

 トオルという異国ふうの名前を持つこの少年は一か月ほど前にどこからか突然この村にやってきて、あたしたちと一緒に慈救院じきゅういんで暮らすことになったのだ。年齢はたしかあたしと同じ十五歳だったと思う。

 仕事はきちんとやるし、悪人というわけでもないと思うのだけれど。滅多に喋ることもなくいつもむっつりした不機嫌そうな顔つきをしているため、慈救院での評判はあまりよろしくない。あたしもなんとなく不気味な奴だと思って、なるべく近寄らないようにしていた。

「へえ。ただの根暗な陰気男だとばかり思ってたけど、案外歌は上手じゃん。声も結構きれいだし」

 歌詞は分からなかったけど、どことなく心休まるものが感じられる歌だった。あの少年がこんな優しい歌をうたえるなんてと意外に思いながら、あたしは近くの木の幹に身を任せてそっと目を閉じ、そのまま時間の経つのも忘れて彼の歌声に耳を傾け続けていた。



「トオル。あの歌、また聴かせてよ」

 森の奥で思いがけずトオルの歌を聴いてから三日後。慈救院じきゅういん裏庭の掃除をしている時にたまたま二人きりになったので、あたしは思いきって彼にそう声をかけてみた。

「……歌?」

 突然話しかけられて、トオルは少し戸惑ったようだけれど、あたしは構わず話を続ける。

「この前、森の奥にある川で歌ってたじゃない。歌詞は外国語みたいだったから意味は分からなかったけど、結構上手かったわよ」
「ああ。……聴いてたのか」

 トオルは恥ずかしがるように顔を赤らめ、どこか奇妙な発音とアクセントで言った。

「ねえ、いい機会だから訊くけど。あんた、ここに来る前にはどこにいたの? 東部? それとも西部のほう?」
「どっちでもないよ。実は俺、この国の生まれじゃないんだ」
「え? あんた外国人だったの?」

 驚いて尋ね返したあたしに、トオルはそうじゃないと首を横に振る。

「俺の両親は二人ともアドラバの人間だ。だけどこの国では生活が苦しいからって観光ビザで外国へ行って、そのままビザの期限が切れてもその国で働き続けていたんだ。いわゆる不法滞在者ってやつさ。両親はその国で出会って結婚して、俺が生まれたんだよ」
「へえ。で、その国って、どこのこと?」

 あたしの問いにトオルはアジアの片隅にあるという小さな島国の名前を教えてくれたけれど、それはあたしには聞き覚えのない国名だった。あたしがそう言うとトオルは、国連やNGOなんかを通じてアドラバにも結構援助をしている国なんだけどなと言って、苦笑いを浮かべる。

「だけど去年、両親が事故で亡くなって。それで俺たち一家が不法滞在者だったってことが警察と入管にバレちまって、俺はアドラバに強制送還されることになったんだ」
「……生まれたのは、その国なのに?」
「ああ。だけど両親が不法滞在者だから、おれの出生届けは出されなかった。だから書類上、俺は生まれていないことになっている。生まれていないんだから当然、その国の国籍も持っていない」

 トオルはヒョイと肩をすくめて言った。

「俺はそれまでアドラバのことなんて全然知らなかったし言葉も喋れなかった。そんな国にいまさら戻っても、親戚も友人もいないし住む所もない。だからどうか、このままこの国に住み続けさせてほしいって懸命に頼んだよ。結局駄目だったけどね」

 そうしてトオルはアドラバに送られることになった。幸い民間ボランティア組織の援助があって、そこでトオルはアドラバの言葉を教えてもらい、さらにこの慈救院じきゅういんで暮らせるように手続きをしてもらったのだと言う。

「それで、言葉と発音が少し変なのね」

 あたしはやっと納得してうなずいた。

「前に歌っていたのは、その国の歌?」
「ああ。寂しかったり悲しかったりする時、時々こっそり歌ってたんだ。そうするとあの国で過ごしていた頃を思い出せるから」

 少し、はにかむようにトオルは言った。

「その国、あたしもいつか見てみたいな」
「俺だって帰りたいよ。……いつかは」
「じゃあその時は、一緒に行こうよ」

 あたしのその言葉にトオルは少し驚いたような表情を見せたけれど、やがてにっこり微笑みながら頷いた。こいつこんな顔も出来るのかと思い、あたしは頬が少し赤らむのを覚えた。

「ね。あの歌、あたしにも教えて」

 照れ隠しであたしが言うと、トオルはゆっくり三日前と同じ旋律をつむいだ。あたしも歌詞の意味は分からないながら、彼の後についてぎこちない歌声を舌の上に乗せる。

 心地好く頬を撫でる春の風と、小鳥たちのさえずる声を伴奏としながら。



 それからしばらくして、あたしは国立の病院で働けることが決まり、慈救院じきゅういんを出た。トオルも政府に徴兵ちょうへいされて、軍の一員としてゲリラ組織と戦うことになったと言う。



 そして、五年の時が過ぎた。あたしは正式に看護師の資格を取り、病人や傷病兵の看護のため、目が回るほど忙しい時を過ごしていた。そんな毎日だけど、時折あたしは思う。トオルはいまごろ、どうしているだろう。無事生きているだろうか。戦闘で怪我などしていないだろうか、と。

「あ~あ、参ったわねえ」

 今日も一仕事終えて休憩室で休んでいると先輩の看護師が部屋の中に入ってきて、ぶつぶつと文句を言うようにそう呟いた。どうしたんですかとあたしが尋ねると、彼女は嘆息しながらひょいと肩をすくめる。

「それがねえ。大怪我をした兵隊さんが運ばれてきたんだけどさ、言葉が全然通じなくて」
「……言葉が?」
医師せんせいが言うにはさ。この兵隊さん、以前はどこか外国に住んでいたみたいな感じなんだって。怪我がひどくて高熱が出ているせいで頭の中が子供の頃に戻っちゃって、それで大人になってから覚えたアドラバの言葉を忘れてしまったんじゃないかって言うのよ。困るわよねえ」

 ……まさか。

 不吉な予感を覚えて、あたしは立ち上がると先輩が怪訝けげんそうな顔をするのも構わず、病室へ走った。すると、果たして。身体中包帯でグルグル巻きにされ、ベッドの上で苦しそうなうめき声をあげているのは、最後に会った時よりも五年分成長したトオルだった。

「トオルッ! あたしだよ。あたし! 覚えているでしょう? しっかりして! ねえ、トオルってば!」

 唖然としている医師たちを押し退け、あたしは彼の手をにぎりしめると必死に言葉をかけ続けた。だが、その言葉はトオルには届いていないようだった。

 意識はかろうじてあるようだし、わずかながら声に反応している様子は見られるので、聞こえていないということはないと思う。しかしアドラバの言葉を忘れてしまっているトオルには、あたしの懸命の呼びかけも周囲のざわめきや雑音と同程度にしか認識されていないみたいなのだ。

 トオルが幼い頃を過ごしたという、故郷の言葉なら通じるかもしれないけれど。残念ながらあたしはトオルの国の言葉などは全く話せない。

 いや。待てよ。そういえば……。

 あたしはふとあることに思い至ると顔を上げ、トオルの手をしっかりにぎり直してから息を深く吸いこみ、彼の耳元で静かに一つの旋律を口ずさみ始めた。

 五年前、慈救院じきゅういんでトオルに教わったあの歌である。

 歌詞の意味は分からないままだけれど。トオルと離れ離れになった後も折を見ては一人で何度も歌っていたため、歌自体はいまでもよく覚えている。トオルの故郷の言葉でつむがれたこの歌ならば、きっと彼の心に届くはず。そう思いながらあたしは懸命に歌い続けた。

 何度も何度も繰り返し歌ううちに、トオルの表情からは次第に苦痛の色が薄くなっていっているようだった。もっともそれが懐かしい故郷の歌を聴いたからなのか、それとも単に彼の生命の炎が消えかかっているせいなのかは分からないけれど。

 と、次の瞬間。トオルの両の瞳が大きく見開かれ、その視線があたしのそれとしっかり絡み合った。

 トオルはすぐに目を閉じてしまったけれど。その表情はいままさに生死の境を漂っている最中の人間のものとは思えないほど安らかで楽しそうなものへと変わっていた。

 きっと夢の中でトオルは、故郷に帰っているのだろうとあたしは思った。幼い頃に過ごした平和で幸せだった国へと。

 ねえ、トオル……。

 あたしは彼の寝顔に向けて心の中で語りかけた。あなたがいま見ている夢の中にあたしはいる? あの日の約束通り、あなたはあなたの生まれた国にあたしを連れてきてくれているの? そして懐かしい故郷の景色を、あたしに見せてくれている?

 トオルはなにも応えてくれなかったけれど、あたしは彼の手をにぎりしめたままさらに歌を続けた。トオルが見ている夢の中で、彼と自分が共に在ることを願って。あたしの歌で、トオルが生きる力を取り戻してくれることを祈って……。



 そしてあたしは、病室の窓から差しこむ一筋の朝の光によって目を覚ました。どうやら一晩中歌い続けたせいで、疲れて眠ってしまっていたらしい。

 ベッドの上には、穏やかな笑顔を浮かべたトオルの姿があった。あたしは恐る恐る医師のほうへと振り返る。そんなあたしに彼はねぎらうような優しい表情を向けてから、一つの言葉だけを放つ。 

 その言葉を聞いたあたしの目からは、一粒の涙がこぼれ落ちた。







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