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第二章「ふたりの距離」

7.ふたりの距離

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「じゃあ、これから打ち込みと乱取りを夕方まで、開始っ!!」

 タケルとその兄慎太郎しんたろうは額に大粒の汗を流したまま、父の言葉に頷いた。


 柔道の名門一条家。
 祖父の、そのまた先の時代からの柔道一家で、タケルの父である一条重蔵じゅうぞうも学生時代に何度もチャンピオンに輝いた伝説の柔道家である。
 その息子である慎太郎とタケルも当然ながら父の厳しい指導のもと、物心つく前から柔道を叩き込まれていた。


「今、走り込み終わったばかりなのに、もう乱取りかよ……」

 小学生のタケル。
 同級生たちが虫取りやゲームで遊ぶ中、なぜひとりだけこんな大変な練習を毎日続けなければならないのかと理解できなかった。


「はあっ!!」

 バン!!

 兄の慎太郎は真面目な性格で、父親から言われた練習について一度も不満を漏らしたことはなかった。更に生粋の努力家。乱取りでも何度もタケルを投げ飛ばしていた。
 ただそんな兄もこの弟のタケルとは決して超えられぬ壁を感じていた。


「ふん!!」

 バーン!!

 タケルは天才だった。
 生まれながらにして、一条家の柔道センスを全てその小さな体に受け継いでいた。兄がどれだけ努力しようが、タケルがちょっと本気を出せば簡単に追い抜かれる。


(自分の弟ながら本当に恐ろしい。ただ……)

 小学生部門の県大会で優勝し、全国大会への切符を掴んだタケル。あまりにも周りと実力差があり過ぎるためすっかり慢心していた。
 柔道の練習も父がいない時は真面目にやらなくなり手を抜くようになる。そしてその日を迎える。


 ドン!!!

「痛っ!!」

 兄との練習最中、気を抜いて投げてしまったタケル。受け身を取れず床にたたきつけられた兄の慎太郎は腕を骨折した。
 その怪我が原因で慎太郎は大会に出場できなくなってしまった。タケルは緩慢な練習を父から厳しく叱咤される。そしてこの日より彼が一変した。


『もう柔道なんてやらない』

 日々の厳しい練習。父の叱咤。そして兄の怪我。
 まだ幼かったタケルの心を潰すには十分すぎるものであった。

 こうして一条家の期待であった『天才柔道少年』は表舞台から姿を消す。
 タケルはその後も中学、高校、そして大学になっても柔道と関わることを止め、何の取り柄もない非モテキャラとして生きるようになっていた。



 だが、天才はやはり天才である。


(綺麗……)

 優花は小学生の時、一度だけ見たことのあるタケルの美しい一本背負いを思い出した。大きな相手を軽々と投げ飛ばすタケル。柔道が強いと言うだけで女子からも人気のあったタケル。
 あの心ときめく『一条タケル』が再び目の前でその輝きを放つ。


 ドオン!!


「痛ってえええ!!!!」

 投げ飛ばされたボディービルの先輩は一体何が起こったか分からぬまま、体の痛みに声を上げる。


(これは正当防衛、正当防衛。私欲のために使っていないからセーフ!!)

 タケルは父重蔵に叩き込まれた『柔道の私欲の利用禁止』を思い出す。正当防衛や人助けの非常時なら特別にと父親も許可していた。


「くそっ、痛ってえな。許さねえぞ、お前!!」

 先に転ばされた男がボディービルの男に手を貸し立ち上がる。

「お前、いい加減に……」

 そう言ってタケルに対峙したふたり。しかしその後の言葉が口から出てこなかった。


(な、なんだ、こいつ。俺より小さいくせはずなのに……)


 ――なんでこんなに大きく見えるんだよ……

 ふたりは恐怖した。
 微動たりもせずにこちらを睨むタケルの目を見て、本能的に『敵わない』と認めてしまった。


「い、行くぞ……」

 ボディービルの男が連れにそう言って顔を青くして去って行った。



「タケルくーーん!!」

「わわっ!?」

 先輩たちが去って行った後、助けて貰った優花がタケルに抱き着く。


「お、おい、優花。やめろっ!!」

 恥ずかしさのあまりタケルは思わず逃げ出そうとする。優花がタケルの腕を掴んで言う。


「だってやっぱりタケル君はタケル君だってもん!!」

 タケルが『え?』と思って優花の顔を見つめる。


(あれ、水色じゃん……)

 さっきまで確かに黒色の目をしていた優花の目が『まじない状態』の水色に変わっている。

「やっぱりタケル君は私の憧れの人。ずっと好きだったんだよ!!」

 そう言ってぼうっとするタケルに抱きつく優花。


(今の優花にそう言われてもな……、言ってることもどこまで本当なのか分からないし……)

 水色優花では嬉しさも半減、まあそれでも嬉しいのだが。優花が甘えた顔でタケルに言う。


「ねえ、家まで送ってって……」

 まるで初めて恋を知った少女のような顔。綺麗な栗色の髪が風吹かれて舞い上がる。この状況、この顔で言われたら断ることなどできない。


「分かったよ。まだあいつらいるかも知れないしな」

「うん、ありがと!!」

 そう言って嬉しそうな顔をしながらタケルの腕に絡みつく優花。
 そして一歩二歩、歩いた後、優花がすすっとひとり前に行く。


「え? 優花……?」

 少し驚いたタケルが彼女の名前を呼ぶ。
 立ち止まる優花。そしてゆっくりとこちらを振り返って言う。


「なに……?」


(え? 黒色……)

 いつの間にかまた黒い瞳に戻っていた優花。
 タケルに呼び止められて少し不満そうな顔をしている。タケルが戸惑いながら尋ねる。


「あ、いや。家まで……、送ってく?」

 優花は少し頬を赤くして小さな声で答える。


「お、お願い、するわ……」

 そしてタケルの横まで歩いて来て下を向き小さく言った。


「あと、その、助けてくれて、ありがとう……」

 恥ずかしそうにそう言う黒目の優花を見て、タケルはこの距離ほどではないけど少しだけ彼女に近付けたのかなと思えた。
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