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四章
十話 狂気の脅迫
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翠は翌日もラブピーチにやってきた。
昼間は少し暇そうにしている受付に声を掛ける。フリーターで殆ど毎日受付にいる高橋だ。
「あれ、翠さん? 今日来る予定ありましたっけ?」
「いえ、約束はしてないんですが。伊吹さんいます?」
「はい、ちょっと呼びますね。ここで待っててください」
いつもなら待合所で待たされるのだが、高橋は席を立つと裏へと行ってしまった。
少しして受付にある出入口から伊吹が出てきて、翠を見ると嬉しそうな笑顔を向けた。愛されている実感が湧くのはこういう時だ。
「あぁ、翠。どうしたの?」
「伊吹さん。すみません急に来てしまって。忙しかったですか?」
「まぁな。今勤務中でさ」
「勤務ですか?」
「うん。最近、店長から店長業務を教わりながら仕事してるんだ。たまにフロント業務と清掃業務もしたり。夏休みで時間あるしな」
翠は不満に感じながらも、それは顔には出さずに驚いてみせた。
確かに伊吹は翠に何も言う事なく、いきなり何かを始めたり終わらせる事があったが。
せめて伊吹の生活に何か変化があれば言って欲しいのだが、上手くいかないのが人間関係というものだ。
「なんだって急に……」
「ちょっと色々あってな。俺も大学卒業したらこのホテル業一本にするわけだし。何も出来ないわけにはいかないんだ。
言ったろ、夢があるって。乱パ終わって丁度いい機会だったしな」
「エッチ出来なくても大丈夫なんですか?」
「ははっ。俺そんなにビッチに見えるか? 瑞希程ヤリマンじゃねぇよ。命令されておあずけ食らってると思えば数日くらいしなくても問題ねぇし」
「それ、絶対瑞希さんに命令されたの想像してますよね?」
「そんな事ないって。いつか、そういう命令を翠もしてくれるだろ? 楽しみにしてる」
「は、はい」
信頼してくれているのが分かる伊吹の態度に、翠は安堵したように微笑んだ。
(やっぱり伊吹さんが好きだな)
「仕事、終わるのいつですか?」
「明日の早朝から予定があってさ、早く寝ないといけないから十時に上がる予定。
何か用事でもあるのか?」
「ちょっと、相談したい事がありまして」
「うん、いいよ。その話って長くなるやつ?」
「伊吹さん次第ですね」
「分かった。じゃあまた二十二時に来てくれる? 仕事終わった後なら無制限だろ?」
「伊吹さん、疲れませんか?」
「疲れるだろうけど、翠の顔見たら元気出ると思う。もし、明日用事とかなければ泊まっていっても構わないし」
「ありがとうございます」
伊吹が嬉しそうな顔で手を振った。翠も笑顔で返して手を振り、ホテルを出た。
瑞希の言葉が脳裏を過る。
『君には……うん、ちょっと人間らしさみたいなのがなかったのかな。
物分かりのいい年下後輩キャラって感じを見せてたけど、本当は違うんでしょ?』
思い出すと自然と歯ぎしりをした。
伊吹は何の疑いもなしに翠の表面上の作り上げた性格を見ているのだろう。
以前、黒い部分を見せてしまった事もあったが、どうにか取り繕ってきた。
(伊吹さんはどこまで俺を受け入れてくれるだろうか)
瑞希のように、翠の本性を知っている上で翠を嫌いながらも、今まで通り付き合おうとはしないだろう。
それなら翠自身の本性は隠しながら、要求を通してもらうしかない。
伊吹に愛されている自覚はある。きっと伊吹なら分かってもらえるだろうと、そんな信頼とは呼べない浅はかな期待があった。
二十一時五十分頃。翠は再びラブピーチへと戻った。
受付は別の人に変わっていた。何度か会った事はあるが、あまり会話の出来るタイプではない。
頭を下げて前を通ると、彼も頭を下げる。
そのままエレベーターに乗って七階へと向かった。鍵は受付で解錠するタイプのホテルだ。
翠が入った時点で解錠されているので、そのまま部屋に入って伊吹を待った。
ボディーバッグをソファーに置き、その隣に座ってじっとしていると、二十二時を十分過ぎた頃に伊吹が入ってきた。
「翠、待たせてごめんな!」
「いいんです。勝手に早く来たのは俺なんですから。お疲れ様です」
翠は立ち上がって伊吹の前に行くと、伊吹は飛び込むように翠に抱き着いてきた。
「あぁ、仕事終わりに翠に会えるのほんと癒し。いつか同棲しような」
「その時、瑞希さんはどうするんです?」
「瑞希? アイツ、夜中はずっと仕事してるし、昼間も仕事か客とデートしてるし、休みの日もSM漬けだし。一緒に住む事はないだろうな。
話って、もしかして瑞希の事か?」
伊吹は顔を顰めた。その理由は翠には分からない事なので、予定通り話す事にする。
「えぇまぁ」
「長くなりそうだし座ろうか」
「はい」
伊吹は部屋に備え付けの冷蔵庫からペットボトルのお茶を二つ出して、それぞれの前に置く。
伊吹はペットボトルの蓋を開いて、ゴクゴクと三分の一を一気に消費した後に翠に話しかけた。
「で? 瑞希がなんだって? いじめられたか?」
「いえ。あの、この前、瑞希さんが誘拐された時、俺が帰った後瑞希さんに何かお仕置きされたんですか?」
「え……まぁ、ちょっとな。
あの誘拐事件って結局俺のせいで引き起こった事でさ、瑞希は巻き込まれただけだったんだ。
それで瑞希が怒ってさ」
「それ、何か契約書とか関係ある事なんですか?」
瑞希は確かに聞いてきた。「契約書って聞いて何が思い浮かぶ?」と。
「言えない。悪いけど」
「瑞希さんと二人だけで共有ですか? 俺にも教えて下さい」
「悪い。これだけは言えない。いつか話せる時が来たら話す。だからそれまで待っていて欲しい」
瑞希と同じ答えだ。二人だけの隠し事に我慢がならない。
怒りのゲージがゆっくりと、浴槽に湯を張るように徐々に上がっていく。
「話せない理由は?」
「お前には関係のない事だからだ」
「関係ないなら話せますよね?」
「外部に漏れる訳にはいかないの。なんだよ、やけにしつこいな。
もしかして、瑞希にもそうやって迫ったか?」
瑞希と喧嘩をしたのは昨日だ。もう瑞希から伊吹に情報が流れているのか? と、疑心暗鬼になる。
(俺の知らないところで通じ合いやがって……)
「知ってたんですか? 俺と瑞希さんの事」
「ん? 知ってたって何が……?」
すくっと立ち上がる。伊吹が困惑の表情を翠に向けている。
そんなにも瑞希を信頼しているのか、そう思うだけで気が狂いそうだ。
(俺だけ除け者にして。伊吹さんは全部知ってて、瑞希さんと口裏合わせて隠そうとしてるのかよ!?)
伊吹の手首を掴んだ。
「翠、何を……?」
無理矢理立たせて近くのベッドに突き飛ばす。
「うわっ」
伊吹が起き上がろうとしている間にボディバッグから、七メートルの麻縄を手に取り、纏めてある縄を解いた。
逃げようとした伊吹を押さえ付けて手首を縄で縛った。
余った縄でベッドヘッドのライトの首部分に巻き付ける。
「翠、何、何してんの!? なぁ!」
翠は答えない。ライトに巻き付けてもまだ縄が余っている。その縄で伊吹の首を絞めた。
「伊吹さん。俺、怒ってるんですよ」
「分かった。分かったから。す……ストップ」
初めて聞いた。伊吹はセーフワードを絶対に言わないから困ると瑞希が話していたのを思い出す。
「話して下さい。そうすれば苦しまずに済みますよ。あぁ、伊吹さんは苦しい方が好きでしたっけ?」
首の後ろから回した縄を喉仏の上で交差させ、少しずつ絞める力を加えていく。
このまま伊吹を瑞希に近付かせずに済むのなら殺してもいい。無意識にそう考えてしまう程、翠の頭に血が上っていた。
中途半端な覚悟だ。突拍子もなく、感情のままの行動である。
もし本当に殺してしまったら……その後の想像も出来ないままに首を絞めた。
「や……やめ……」
伊吹の腰に跨っているのですぐに気付く。伊吹の男性器は大きくなっており、上に向いている。
(こんな時でもドMなんだな。可愛い、俺の伊吹さん)
「……あ、かはっ……た、たす……け……ストッ……」
伊吹の目に涙が溜まった。ヒューとか細い呼吸音。セーフワードも言えないようだ。
このまま何も情報を得られずに死なれても困る。少し縄を緩めて脅した。
「伊吹さん。このまま死ぬか、話すか選んで下さい」
「ゲホッ……うっ……」
卑怯な事をしている自覚は心の奥底のどこかでは分かっていた。
きっと伊吹は睨んだ顔を向けるのだろう。だが、翠はこのまま恋人関係を続けなければ殺すと脅そうと短絡的に考えた。
だが、伊吹は予想に反して翠に優しい笑顔を向けてきたのだ。
いつもの様に、翠を愛しているという目で。
「し……死ん……でも……言わ、ない。……おれ……翠……信じて……る……よ。殺さ……ない……で、くれる……って」
ハッと、自分が何をしでかしているのかに気付いた翠は手を離した。
縄が緩み、伊吹はゲホゲホと咳き込んだ。すぐに縄を解き、伊吹を抱き締めた。
「すっ、すみません! 俺、なんて事……! すみません、すみません」
「よしよし。大丈夫。大丈夫だよ。自分でもびっくりしてるんだろ? 俺も驚いたけど、大丈夫だ。大丈夫」
伊吹は翠を強く抱き締め、頭を撫でてくる。優しくしてもらうのはお門違いだ。
今、伊吹を殺そうとしたのに。何故伊吹はこんな自分を受け入れてくれるだろうか。
「何か悩みがあるんだろ? 話してみ」
「こんな事、伊吹さんに求めるのは違うって分かってるんですが、瑞希さんより俺を好きになって欲しいって思ってしまうんです」
「うん。瑞希にも似たような事言われた。ごめん、二人には負担をかけてる」
「伊吹さんはどっちが好きなんですか?」
「好きの理由と方向性が違う。単純に恋愛なら翠の方が上。俺は瑞希に恋愛感情はないから。
でも、家族としては瑞希のが上。家族以上に大事だから」
申し訳なさそうに伊吹は答えた。
「つまり、瑞希さんとは結婚したいけど、俺とは遊んでいたい、みたいな感じですか?」
「どう取ってもらっても構わないよ。けど、翠を愛しいと思う気持ちは否定しないで欲しい。
これはドM発言じゃなくてね、翠は俺に何したっていいんだ。俺の自由を尊重してくれれば、なんだって」
「自由を無視したら?」
「翠への信頼関係は終わる。俺が安易に翠に身体を許す事はなくなると思って。だから、こういう事もこれで最後にして欲しい。
さすがに殺そうとしてくる人とは付き合いたいと思えねぇ」
「分かりました」
「辛い思いをさせてるお詫びに、翠の要望を一つ聞いてあげようか。何かある?」
「なんでも聞いてくれます?」
「無理な内容じゃなければ」
「瑞希さんを拉致して来てくれませんか?」
伊吹の顔色が変わった。自分の耳を疑ったらしい。顔を少し近付けてくる。
「え?」
「俺、いつもあの人に嫌な思いさせられてばっかりなんですよ。俺で遊んで楽しんで……。あの人を屈服させたい。
拉致して、縛って、あの人が嫌がる事をしてやりたいんです。
伊吹さん、共犯になって下さい」
その瞬間、パシンッと伊吹の手が翠の頬を叩いた。伊吹は悲しそうな目をしており、勢いよく叩いた手にも力は入っていなかった。
「伊吹……さん?」
「瑞希がどんな思いで、お前の味方したと……」
味方? その意味が分からないと困惑する。
今まで優しかった伊吹の顔は、怒りに震えていた。その中に垣間見えた哀しみの表情に、自分の発言を後悔した。
だが、もう撤回は出来ない。言ってしまった事をなかった事には出来ない。
「そんな要望は聞けない。翠は少しブラックなところあるって分かってたけど、さすがにそれは……酷い。
ちょっと頭冷やしたい。出ていって。俺が良いって言うまでここに来ないで。連絡もするな」
翠の目の前が真っ暗になったようだった。
足元がおぼつかず、フラフラと縄とバッグを持って部屋から出ていった。
昼間は少し暇そうにしている受付に声を掛ける。フリーターで殆ど毎日受付にいる高橋だ。
「あれ、翠さん? 今日来る予定ありましたっけ?」
「いえ、約束はしてないんですが。伊吹さんいます?」
「はい、ちょっと呼びますね。ここで待っててください」
いつもなら待合所で待たされるのだが、高橋は席を立つと裏へと行ってしまった。
少しして受付にある出入口から伊吹が出てきて、翠を見ると嬉しそうな笑顔を向けた。愛されている実感が湧くのはこういう時だ。
「あぁ、翠。どうしたの?」
「伊吹さん。すみません急に来てしまって。忙しかったですか?」
「まぁな。今勤務中でさ」
「勤務ですか?」
「うん。最近、店長から店長業務を教わりながら仕事してるんだ。たまにフロント業務と清掃業務もしたり。夏休みで時間あるしな」
翠は不満に感じながらも、それは顔には出さずに驚いてみせた。
確かに伊吹は翠に何も言う事なく、いきなり何かを始めたり終わらせる事があったが。
せめて伊吹の生活に何か変化があれば言って欲しいのだが、上手くいかないのが人間関係というものだ。
「なんだって急に……」
「ちょっと色々あってな。俺も大学卒業したらこのホテル業一本にするわけだし。何も出来ないわけにはいかないんだ。
言ったろ、夢があるって。乱パ終わって丁度いい機会だったしな」
「エッチ出来なくても大丈夫なんですか?」
「ははっ。俺そんなにビッチに見えるか? 瑞希程ヤリマンじゃねぇよ。命令されておあずけ食らってると思えば数日くらいしなくても問題ねぇし」
「それ、絶対瑞希さんに命令されたの想像してますよね?」
「そんな事ないって。いつか、そういう命令を翠もしてくれるだろ? 楽しみにしてる」
「は、はい」
信頼してくれているのが分かる伊吹の態度に、翠は安堵したように微笑んだ。
(やっぱり伊吹さんが好きだな)
「仕事、終わるのいつですか?」
「明日の早朝から予定があってさ、早く寝ないといけないから十時に上がる予定。
何か用事でもあるのか?」
「ちょっと、相談したい事がありまして」
「うん、いいよ。その話って長くなるやつ?」
「伊吹さん次第ですね」
「分かった。じゃあまた二十二時に来てくれる? 仕事終わった後なら無制限だろ?」
「伊吹さん、疲れませんか?」
「疲れるだろうけど、翠の顔見たら元気出ると思う。もし、明日用事とかなければ泊まっていっても構わないし」
「ありがとうございます」
伊吹が嬉しそうな顔で手を振った。翠も笑顔で返して手を振り、ホテルを出た。
瑞希の言葉が脳裏を過る。
『君には……うん、ちょっと人間らしさみたいなのがなかったのかな。
物分かりのいい年下後輩キャラって感じを見せてたけど、本当は違うんでしょ?』
思い出すと自然と歯ぎしりをした。
伊吹は何の疑いもなしに翠の表面上の作り上げた性格を見ているのだろう。
以前、黒い部分を見せてしまった事もあったが、どうにか取り繕ってきた。
(伊吹さんはどこまで俺を受け入れてくれるだろうか)
瑞希のように、翠の本性を知っている上で翠を嫌いながらも、今まで通り付き合おうとはしないだろう。
それなら翠自身の本性は隠しながら、要求を通してもらうしかない。
伊吹に愛されている自覚はある。きっと伊吹なら分かってもらえるだろうと、そんな信頼とは呼べない浅はかな期待があった。
二十一時五十分頃。翠は再びラブピーチへと戻った。
受付は別の人に変わっていた。何度か会った事はあるが、あまり会話の出来るタイプではない。
頭を下げて前を通ると、彼も頭を下げる。
そのままエレベーターに乗って七階へと向かった。鍵は受付で解錠するタイプのホテルだ。
翠が入った時点で解錠されているので、そのまま部屋に入って伊吹を待った。
ボディーバッグをソファーに置き、その隣に座ってじっとしていると、二十二時を十分過ぎた頃に伊吹が入ってきた。
「翠、待たせてごめんな!」
「いいんです。勝手に早く来たのは俺なんですから。お疲れ様です」
翠は立ち上がって伊吹の前に行くと、伊吹は飛び込むように翠に抱き着いてきた。
「あぁ、仕事終わりに翠に会えるのほんと癒し。いつか同棲しような」
「その時、瑞希さんはどうするんです?」
「瑞希? アイツ、夜中はずっと仕事してるし、昼間も仕事か客とデートしてるし、休みの日もSM漬けだし。一緒に住む事はないだろうな。
話って、もしかして瑞希の事か?」
伊吹は顔を顰めた。その理由は翠には分からない事なので、予定通り話す事にする。
「えぇまぁ」
「長くなりそうだし座ろうか」
「はい」
伊吹は部屋に備え付けの冷蔵庫からペットボトルのお茶を二つ出して、それぞれの前に置く。
伊吹はペットボトルの蓋を開いて、ゴクゴクと三分の一を一気に消費した後に翠に話しかけた。
「で? 瑞希がなんだって? いじめられたか?」
「いえ。あの、この前、瑞希さんが誘拐された時、俺が帰った後瑞希さんに何かお仕置きされたんですか?」
「え……まぁ、ちょっとな。
あの誘拐事件って結局俺のせいで引き起こった事でさ、瑞希は巻き込まれただけだったんだ。
それで瑞希が怒ってさ」
「それ、何か契約書とか関係ある事なんですか?」
瑞希は確かに聞いてきた。「契約書って聞いて何が思い浮かぶ?」と。
「言えない。悪いけど」
「瑞希さんと二人だけで共有ですか? 俺にも教えて下さい」
「悪い。これだけは言えない。いつか話せる時が来たら話す。だからそれまで待っていて欲しい」
瑞希と同じ答えだ。二人だけの隠し事に我慢がならない。
怒りのゲージがゆっくりと、浴槽に湯を張るように徐々に上がっていく。
「話せない理由は?」
「お前には関係のない事だからだ」
「関係ないなら話せますよね?」
「外部に漏れる訳にはいかないの。なんだよ、やけにしつこいな。
もしかして、瑞希にもそうやって迫ったか?」
瑞希と喧嘩をしたのは昨日だ。もう瑞希から伊吹に情報が流れているのか? と、疑心暗鬼になる。
(俺の知らないところで通じ合いやがって……)
「知ってたんですか? 俺と瑞希さんの事」
「ん? 知ってたって何が……?」
すくっと立ち上がる。伊吹が困惑の表情を翠に向けている。
そんなにも瑞希を信頼しているのか、そう思うだけで気が狂いそうだ。
(俺だけ除け者にして。伊吹さんは全部知ってて、瑞希さんと口裏合わせて隠そうとしてるのかよ!?)
伊吹の手首を掴んだ。
「翠、何を……?」
無理矢理立たせて近くのベッドに突き飛ばす。
「うわっ」
伊吹が起き上がろうとしている間にボディバッグから、七メートルの麻縄を手に取り、纏めてある縄を解いた。
逃げようとした伊吹を押さえ付けて手首を縄で縛った。
余った縄でベッドヘッドのライトの首部分に巻き付ける。
「翠、何、何してんの!? なぁ!」
翠は答えない。ライトに巻き付けてもまだ縄が余っている。その縄で伊吹の首を絞めた。
「伊吹さん。俺、怒ってるんですよ」
「分かった。分かったから。す……ストップ」
初めて聞いた。伊吹はセーフワードを絶対に言わないから困ると瑞希が話していたのを思い出す。
「話して下さい。そうすれば苦しまずに済みますよ。あぁ、伊吹さんは苦しい方が好きでしたっけ?」
首の後ろから回した縄を喉仏の上で交差させ、少しずつ絞める力を加えていく。
このまま伊吹を瑞希に近付かせずに済むのなら殺してもいい。無意識にそう考えてしまう程、翠の頭に血が上っていた。
中途半端な覚悟だ。突拍子もなく、感情のままの行動である。
もし本当に殺してしまったら……その後の想像も出来ないままに首を絞めた。
「や……やめ……」
伊吹の腰に跨っているのですぐに気付く。伊吹の男性器は大きくなっており、上に向いている。
(こんな時でもドMなんだな。可愛い、俺の伊吹さん)
「……あ、かはっ……た、たす……け……ストッ……」
伊吹の目に涙が溜まった。ヒューとか細い呼吸音。セーフワードも言えないようだ。
このまま何も情報を得られずに死なれても困る。少し縄を緩めて脅した。
「伊吹さん。このまま死ぬか、話すか選んで下さい」
「ゲホッ……うっ……」
卑怯な事をしている自覚は心の奥底のどこかでは分かっていた。
きっと伊吹は睨んだ顔を向けるのだろう。だが、翠はこのまま恋人関係を続けなければ殺すと脅そうと短絡的に考えた。
だが、伊吹は予想に反して翠に優しい笑顔を向けてきたのだ。
いつもの様に、翠を愛しているという目で。
「し……死ん……でも……言わ、ない。……おれ……翠……信じて……る……よ。殺さ……ない……で、くれる……って」
ハッと、自分が何をしでかしているのかに気付いた翠は手を離した。
縄が緩み、伊吹はゲホゲホと咳き込んだ。すぐに縄を解き、伊吹を抱き締めた。
「すっ、すみません! 俺、なんて事……! すみません、すみません」
「よしよし。大丈夫。大丈夫だよ。自分でもびっくりしてるんだろ? 俺も驚いたけど、大丈夫だ。大丈夫」
伊吹は翠を強く抱き締め、頭を撫でてくる。優しくしてもらうのはお門違いだ。
今、伊吹を殺そうとしたのに。何故伊吹はこんな自分を受け入れてくれるだろうか。
「何か悩みがあるんだろ? 話してみ」
「こんな事、伊吹さんに求めるのは違うって分かってるんですが、瑞希さんより俺を好きになって欲しいって思ってしまうんです」
「うん。瑞希にも似たような事言われた。ごめん、二人には負担をかけてる」
「伊吹さんはどっちが好きなんですか?」
「好きの理由と方向性が違う。単純に恋愛なら翠の方が上。俺は瑞希に恋愛感情はないから。
でも、家族としては瑞希のが上。家族以上に大事だから」
申し訳なさそうに伊吹は答えた。
「つまり、瑞希さんとは結婚したいけど、俺とは遊んでいたい、みたいな感じですか?」
「どう取ってもらっても構わないよ。けど、翠を愛しいと思う気持ちは否定しないで欲しい。
これはドM発言じゃなくてね、翠は俺に何したっていいんだ。俺の自由を尊重してくれれば、なんだって」
「自由を無視したら?」
「翠への信頼関係は終わる。俺が安易に翠に身体を許す事はなくなると思って。だから、こういう事もこれで最後にして欲しい。
さすがに殺そうとしてくる人とは付き合いたいと思えねぇ」
「分かりました」
「辛い思いをさせてるお詫びに、翠の要望を一つ聞いてあげようか。何かある?」
「なんでも聞いてくれます?」
「無理な内容じゃなければ」
「瑞希さんを拉致して来てくれませんか?」
伊吹の顔色が変わった。自分の耳を疑ったらしい。顔を少し近付けてくる。
「え?」
「俺、いつもあの人に嫌な思いさせられてばっかりなんですよ。俺で遊んで楽しんで……。あの人を屈服させたい。
拉致して、縛って、あの人が嫌がる事をしてやりたいんです。
伊吹さん、共犯になって下さい」
その瞬間、パシンッと伊吹の手が翠の頬を叩いた。伊吹は悲しそうな目をしており、勢いよく叩いた手にも力は入っていなかった。
「伊吹……さん?」
「瑞希がどんな思いで、お前の味方したと……」
味方? その意味が分からないと困惑する。
今まで優しかった伊吹の顔は、怒りに震えていた。その中に垣間見えた哀しみの表情に、自分の発言を後悔した。
だが、もう撤回は出来ない。言ってしまった事をなかった事には出来ない。
「そんな要望は聞けない。翠は少しブラックなところあるって分かってたけど、さすがにそれは……酷い。
ちょっと頭冷やしたい。出ていって。俺が良いって言うまでここに来ないで。連絡もするな」
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