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番外編
⑭翠の自我
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高校一年の秋頃だ。
「もう大学受験の準備を始めないとね」
と、母親が言い出した。当たり前のように翠は頷く。
「……はい」
翠にとって、母親の発言が世界の全てだ。大学受験の準備と言われたら、その通りにするのが当然の事だ。
だが、何故かは知らないが、母親がいちいち指示して来た事に嫌悪感を感じていた。
それは反抗期という名の、大人として自立する為の準備期間なのだが、翠は知らない。
知識として知っていたが、その嫌悪感こそが反抗期特有の感情である事に気付いていなかった。
高校は中学からの繰り上がりで、偶然にも翠は広夢と同じクラスだった。
広夢は美形男子に育った。西洋風の整った顔に、自然なマロン色のふんわりした髪、スラリと高い身長。女子にモテるのは当然の事、男子の友達も多い。
翠も育っていたが、身長だけがグングンと伸びたが、常に机の前から動かない生活を送っている為か、ガリガリに細い身体である。
一切自分の見た目にこだわらず、顔は思春期にありがちなニキビをおでこや頬に付けている上、大人しい性格はそのままなので、モテる筈がない。
昔のように人を見下すような態度をしなくなったので、以前より人付き合いに困る事はなくなった。
相変わらず友達のいない翠は、登下校で広夢を独占出来る事がなによりの自慢だった。
翠は広夢にだけなら素直に不安を打ち明けられる。クラスメイト等誰もいない下校時に、母親に言われた事を広夢に話した。
「……そろそろ大学の受験勉強しろってさ」
「早くね? つか、内部進学しないの?」
「国立大学行く為に中学受験したようなものだしなぁ」
「翠はその大学行きたいの?」
「お母さんが言うから、行かないと……」
「お前、将来やりたい事とかないわけ?」
「そういう広夢はどうなの?」
少しムッとした翠は問い返した。答えられないだろうと思っての事だったが、広夢はあっさりと答えた。
「俺、歯医者さんになりたいんだよね」
「は……歯医者?」
「そう。うちの親父、俺が小さい時まで歯科医だったんだけどさ、ある時交通事故で足怪我して、仕事続けられなくなったんだ。
それから母さんが仕事行って、親父の世話もしてさ。最近は親父も社会復帰したけど、デスクワークの仕事してる。
俺、歯科医の親父が好きだったんだ。だから俺がなる。親父みたいにカッコよくなりたいんだ」
そう語る広夢の目は輝いており、翠は初めて広夢が羨ましいと感じた。
「俺も、広夢みたいに夢を持ちたい……って思ったら変かな?」
「全然変じゃない! 良い事だよ! 翠は好きな事とかないの?」
「ないよ。高校上がって、外部から頭良い奴入ってきて、一位じゃなくなってさ、勉強以外の事が出来ない」
「好きな学問とかは?」
「どの教科も全く興味無い。正直、点数を取る為に勉強してるから、身に付いてる気がしない」
「そんなん勉強する意味ねぇよ」
「そう……だな」
高校に入ってから、外部から入学してきた優秀な生徒達が、翠を追い抜かしていた。
初めての中間試験から、試験の結果が出る度に何度も折檻され、全身傷だらけになった。
母親はご飯を作ってくれなくなって半年が経っていた。
どんなに努力しても勝てない相手はいるものであり、翠自身勉強に身が入っていなかった。
既に一位を取るのは諦めており、家族からの虐待は「仕方ない事」と受け入れていた。
そんな時だった。母親が「もう一位にならなくていいから、せめてトップの国立大に入りなさい」と言ってきたのだ。
「翠さぁ、高校出たら家出なよ。何かあったら僕が愚痴くらい聞くし」
と、広夢は翠の肩を叩いて慰めた。
「ありがと」
広夢と別れて、次に向かうのは予備校だ。それまで塾に通っていたのだが、本格的な大学受験向けの予備校に通えと母親に言われ、今日は授業見学をしに行くのだ。
母親の言う事は絶対だ。いや、母親だけではない。柳川家の中で、翠の立場が一番下で、家族に命令された事には逆らえないのだ。
それから予備校に通った。週に五日だ。授業料はバカにならない。それでも、両親は翠が国立大学に合格する為の出費は惜しまないという姿勢だ。
兄には見下され、予備校に通わなければ一人で勉強も出来ない奴だと笑われた。一方的な嘲笑を向けられるだけで、まともな会話はしていない。
翠は必死だった。兄に追いつかなければならない。両親の期待に応えなければならない。
追い詰められた時にいつも頭に浮かぶのは、小学生の時に転校してきた広夢が翠に言った一言だ。
『バカになった方が楽しいのに、残念だな』
自分の進路に納得がいかないまま高校二年になった梅雨が明けた夏の時期。
ある日急に予備校に向かおうとする翠の足は止まった。後十数歩進めば目的地だ。それなのに広夢の言葉が頭から離れない。
夢を持ち、目を輝かせる広夢が羨ましくてたまらなくなった。
勉強を頑張りながらも友達を作って楽しそうに青春を謳歌する広夢が妬ましい。
翠自身、何か夢を持ちたいと思っているのに、自分には何も無いのだという事を実感するだけだ。
翠は財布の中を開いた。母親に予備校の夏期講習の授業料を払う為に渡された十万円が入っている。
普段の授業料は口座振替なのだが、特別講習は直接支払いとなる。
今までろくにお小遣いももらえず、勉強をする事だけが存在理由のようだった。楽しいと思えた事はいつだって広夢が与えてくれた。
強い自我が芽生えた瞬間だった。
「そうだ! 自分探しの旅に出よう!」
翠は踵を返した。走って駅に向かう。理由もなく未来への希望を見出したような気がして、胸が高揚した。
未来を期待する事は心が踊る事であると初めて知った。
無性に楽しい気分になり、笑顔が浮かぶ。家族の事などどうでもいいと思える程、楽しい何かを見つけたい欲求が高まる。
電車に乗り、東京を目指した。何かに出会えると信じて──。
「もう大学受験の準備を始めないとね」
と、母親が言い出した。当たり前のように翠は頷く。
「……はい」
翠にとって、母親の発言が世界の全てだ。大学受験の準備と言われたら、その通りにするのが当然の事だ。
だが、何故かは知らないが、母親がいちいち指示して来た事に嫌悪感を感じていた。
それは反抗期という名の、大人として自立する為の準備期間なのだが、翠は知らない。
知識として知っていたが、その嫌悪感こそが反抗期特有の感情である事に気付いていなかった。
高校は中学からの繰り上がりで、偶然にも翠は広夢と同じクラスだった。
広夢は美形男子に育った。西洋風の整った顔に、自然なマロン色のふんわりした髪、スラリと高い身長。女子にモテるのは当然の事、男子の友達も多い。
翠も育っていたが、身長だけがグングンと伸びたが、常に机の前から動かない生活を送っている為か、ガリガリに細い身体である。
一切自分の見た目にこだわらず、顔は思春期にありがちなニキビをおでこや頬に付けている上、大人しい性格はそのままなので、モテる筈がない。
昔のように人を見下すような態度をしなくなったので、以前より人付き合いに困る事はなくなった。
相変わらず友達のいない翠は、登下校で広夢を独占出来る事がなによりの自慢だった。
翠は広夢にだけなら素直に不安を打ち明けられる。クラスメイト等誰もいない下校時に、母親に言われた事を広夢に話した。
「……そろそろ大学の受験勉強しろってさ」
「早くね? つか、内部進学しないの?」
「国立大学行く為に中学受験したようなものだしなぁ」
「翠はその大学行きたいの?」
「お母さんが言うから、行かないと……」
「お前、将来やりたい事とかないわけ?」
「そういう広夢はどうなの?」
少しムッとした翠は問い返した。答えられないだろうと思っての事だったが、広夢はあっさりと答えた。
「俺、歯医者さんになりたいんだよね」
「は……歯医者?」
「そう。うちの親父、俺が小さい時まで歯科医だったんだけどさ、ある時交通事故で足怪我して、仕事続けられなくなったんだ。
それから母さんが仕事行って、親父の世話もしてさ。最近は親父も社会復帰したけど、デスクワークの仕事してる。
俺、歯科医の親父が好きだったんだ。だから俺がなる。親父みたいにカッコよくなりたいんだ」
そう語る広夢の目は輝いており、翠は初めて広夢が羨ましいと感じた。
「俺も、広夢みたいに夢を持ちたい……って思ったら変かな?」
「全然変じゃない! 良い事だよ! 翠は好きな事とかないの?」
「ないよ。高校上がって、外部から頭良い奴入ってきて、一位じゃなくなってさ、勉強以外の事が出来ない」
「好きな学問とかは?」
「どの教科も全く興味無い。正直、点数を取る為に勉強してるから、身に付いてる気がしない」
「そんなん勉強する意味ねぇよ」
「そう……だな」
高校に入ってから、外部から入学してきた優秀な生徒達が、翠を追い抜かしていた。
初めての中間試験から、試験の結果が出る度に何度も折檻され、全身傷だらけになった。
母親はご飯を作ってくれなくなって半年が経っていた。
どんなに努力しても勝てない相手はいるものであり、翠自身勉強に身が入っていなかった。
既に一位を取るのは諦めており、家族からの虐待は「仕方ない事」と受け入れていた。
そんな時だった。母親が「もう一位にならなくていいから、せめてトップの国立大に入りなさい」と言ってきたのだ。
「翠さぁ、高校出たら家出なよ。何かあったら僕が愚痴くらい聞くし」
と、広夢は翠の肩を叩いて慰めた。
「ありがと」
広夢と別れて、次に向かうのは予備校だ。それまで塾に通っていたのだが、本格的な大学受験向けの予備校に通えと母親に言われ、今日は授業見学をしに行くのだ。
母親の言う事は絶対だ。いや、母親だけではない。柳川家の中で、翠の立場が一番下で、家族に命令された事には逆らえないのだ。
それから予備校に通った。週に五日だ。授業料はバカにならない。それでも、両親は翠が国立大学に合格する為の出費は惜しまないという姿勢だ。
兄には見下され、予備校に通わなければ一人で勉強も出来ない奴だと笑われた。一方的な嘲笑を向けられるだけで、まともな会話はしていない。
翠は必死だった。兄に追いつかなければならない。両親の期待に応えなければならない。
追い詰められた時にいつも頭に浮かぶのは、小学生の時に転校してきた広夢が翠に言った一言だ。
『バカになった方が楽しいのに、残念だな』
自分の進路に納得がいかないまま高校二年になった梅雨が明けた夏の時期。
ある日急に予備校に向かおうとする翠の足は止まった。後十数歩進めば目的地だ。それなのに広夢の言葉が頭から離れない。
夢を持ち、目を輝かせる広夢が羨ましくてたまらなくなった。
勉強を頑張りながらも友達を作って楽しそうに青春を謳歌する広夢が妬ましい。
翠自身、何か夢を持ちたいと思っているのに、自分には何も無いのだという事を実感するだけだ。
翠は財布の中を開いた。母親に予備校の夏期講習の授業料を払う為に渡された十万円が入っている。
普段の授業料は口座振替なのだが、特別講習は直接支払いとなる。
今までろくにお小遣いももらえず、勉強をする事だけが存在理由のようだった。楽しいと思えた事はいつだって広夢が与えてくれた。
強い自我が芽生えた瞬間だった。
「そうだ! 自分探しの旅に出よう!」
翠は踵を返した。走って駅に向かう。理由もなく未来への希望を見出したような気がして、胸が高揚した。
未来を期待する事は心が踊る事であると初めて知った。
無性に楽しい気分になり、笑顔が浮かぶ。家族の事などどうでもいいと思える程、楽しい何かを見つけたい欲求が高まる。
電車に乗り、東京を目指した。何かに出会えると信じて──。
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