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二章
十七話 ルール違反を犯して
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翌朝、瑞希が起きると既に加藤は家を出た後だった。テーブルには朝食のサンドウィッチが用意されており、鍵と一万円札まで置かれていた。
「やれやれ。今日はここに戻らないっていうのに」
瑞希は朝食を有難くいただき、自分の服に着替えて、一万円札は放置し、荷物と部屋の鍵だけ持って部屋を出た。鍵はマンションのエントランスにあるポストに放り込んだ。
その旨を加藤にメールで送ってから、その場を後にした。
その後向かった先は、ラブピーチ近くの駅の隣駅から十分程歩いた場所にあるマンションだ。
周囲は雑居ビルが立ち並び、古くて暗い雰囲気だ。瑞希が入っていったマンションの二階の一室に、ゲイ向けのSM風俗店の事務所がある。
客からの電話でキャストがホテルや自宅に向かう、いわゆるデリヘルだ。
瑞希はその店が始まってから在籍している古参で、一番人気のキャストである。
「おはようございまぁっす」
満面の笑顔に明るい声で事務所に入ると、運営をしている三人の男達がパソコンに向けていた顔を上げて、瑞希に向けた。
三人とも三十代の若い男だが、ガタイが良い。背も高く、筋肉質な身体をしている。
「はよーっす」
「おはようございます、瑞希さん」
「おはようございます。あれ、瑞希さんって今日休みだよね?」
そう問いながら、席を立って瑞希に近寄ってきたのは、店長だ。ほぼ事務所に泊まっている。
「ちょっと、必要なものがあって取りに来ました」
瑞希は苦笑する。事務所の奥にあるスタッフ用のロッカーが並べられているが、そのロッカーの内一つは瑞希が使っている。
瑞希は財布から鍵を取り出し、ロッカーを開いた。中には主に着替えの服や、貴重品が入っている。
瑞希はカードケースを取り出し、運転免許証を手に取ると、またロッカーを閉めて鍵をかけた。
「これ取りに来ただけ」
「免許なんて持ってるんだ?」
「あっ! 僕が童顔だから免許持ってないって思ったんでしょ?」
「いやぁ~あはは。似合わないな~って。ちなみに、車に乗ってどこか行くの?」
「知人が退院するので、迎えに行ってきます」
瑞希は少し苦笑しながらそう言うと、事務所から出ていった。
近くでレンタカーを借りて、病院に向かう。
病院は患者数が多く、ベッドが埋まっている関係で伊吹の病室は個室だ。
病室に入ると、伊吹はベッドの背を上げて、身体を起こしていた。
「よっ、伊吹」
「げ、瑞希……」
伊吹は瑞希の姿を見ると、あからさまに嫌そうな顔をした。
「何しに来たんだよ? 乱パ参加者がプライベートで俺に近付いたら」
「……制裁のSMプレイでしょ? はいはい、分かってて来てるから。もうすぐ退院でしょ。だから早めに迎えに来たよ」
「店長は?」
「僕が迎えに行くって連絡しといた」
「それでアッサリ任せたのか!?」
伊吹は驚愕に目を見開いた。そしてすぐに眉間の皺が深くなる。
「まさか。断られたよ。当然だよね、店長って伊吹のボディガードみたいなものだし?」
「そうだよ」
「ラブピーチの中なら店長が守ってくれるからね。ダメって言われたから、勝手に来たんだよ。店長が来るのは午後だろうから、その前にね」
「そうか。なら退院次第、制裁は受けてもらう。乱パも出禁。ルール違反したんだから当然だよな?
瑞希だからって特別扱いはしない」
「それだと乱パイベント開く理由がなくなるね。いいの? 乱パの収益って、月の総売上の内二割くらい占めてるんじゃなかったっけ?」
「それくらい、どうにでもなるよ」
「翠君もだけどさ、伊吹もホント僕の事嫌いだよね。
昨日、伊吹が血を流して気絶してるって連絡きて、すぐ戻って大変だったのに。そんな僕にそんな態度って酷くない?」
「ごめ……」
「まぁ店長が応急処置して僕も翠君も何も出来なかったけどね。でもその後の病院について行ったし、心配してたんだから」
「そうだったんだ。悪かったよ」
「伊吹、命令。今ここで僕がしたルール違反、目ぇ瞑って。今後、乱パ参加者でも僕だけは伊吹のプライベートに干渉していいって事にしてよ」
「そ、それは……」
伊吹の顔色は一気に青くなる。
「伊吹はいい子だよね? 僕の命令全部聞いてくれるんでしょ? 悪い子になったの? 罰を受けてもらわないといけないかな?」
瑞希はまくし立てるように質問を重ねた。そうすれば、伊吹は思考停止して言う事を聞くだろうと考えたからだが──。
「いい加減にしてくれよ!!」
ピシャリと強く伊吹が怒鳴った。初めてだった、伊吹が瑞希に対して直接反抗するのは。
「ラブピーチ作る時、最初に約束しただろ。瑞希の為に乱パイベントやる代わりに、プライベートでは俺に関わらないって。
けど、ラブピーチの中でだけなら、俺は瑞希の命令を全部聞くし、仲良かった頃のまま接するって。
俺が瑞希を裏切ってから、もう俺達の関係は破綻してるっていうのにさ」
「だから伊吹は償うべきなんじゃないの? どうして僕だけが……。僕の人生返してよ、ホント……」
瑞希の目からポタッと一粒、涙が落ちた。瑞希自身、自覚していない涙。それを見た伊吹は動揺している。
瑞希は伊吹に近寄ると、伊吹の頭を包む様に優しく抱擁した。
辛くて、切なくて、やるせない。そんな感情の発散する場所がなくて、伊吹に縋っている。
そんな瑞希に、伊吹が苦々しい表情で慰めるような声で答えた。
「もう返せない。過去は変えられないんだ。分かってるだろ?」
「分かってるよ。分かってて伊吹に無茶を言ってきたんだ。
伊吹……僕ね、伊吹の事が好きなんだ。ずっと、ずっとね、好きだったんだよ……」
「瑞希……」
「あはは、好きな人に何やってんだろうね、僕は。ごめんね。もう君の前に現れないよ」
「瑞希?」
「最後に、制裁のSMプレイだけは勘弁してくれると嬉しいな。今後、伊吹に一切関わらないって約束するから……」
瑞希は涙を流しながらも、伊吹に笑顔を向けて手を離した。ようやく呪縛のような関係から解き放たれるのだと、少し気持ちが穏やかに落ち着いてくる。
病室を出ようと伊吹に背中を向けた──その時だった。
「知っての通り俺は瑞希の奴隷だ。それなのに、ご主人様が傷付いてる事に気付かなくてごめん。
でもさ、俺のご主人様なら、こんな時脅してでも言いなりにさせると思うんだけど?」
瑞希は立ち止まった。振り向くと、いつもラブピーチで見るような、仲の良い幼馴染みとしての目を向けている伊吹がいた。
期待と罪悪感が一気に押し寄せる。
「もう伊吹を翠君に返せなくなるかもしれないよ、それでもいいの?」
「やれやれ。今日はここに戻らないっていうのに」
瑞希は朝食を有難くいただき、自分の服に着替えて、一万円札は放置し、荷物と部屋の鍵だけ持って部屋を出た。鍵はマンションのエントランスにあるポストに放り込んだ。
その旨を加藤にメールで送ってから、その場を後にした。
その後向かった先は、ラブピーチ近くの駅の隣駅から十分程歩いた場所にあるマンションだ。
周囲は雑居ビルが立ち並び、古くて暗い雰囲気だ。瑞希が入っていったマンションの二階の一室に、ゲイ向けのSM風俗店の事務所がある。
客からの電話でキャストがホテルや自宅に向かう、いわゆるデリヘルだ。
瑞希はその店が始まってから在籍している古参で、一番人気のキャストである。
「おはようございまぁっす」
満面の笑顔に明るい声で事務所に入ると、運営をしている三人の男達がパソコンに向けていた顔を上げて、瑞希に向けた。
三人とも三十代の若い男だが、ガタイが良い。背も高く、筋肉質な身体をしている。
「はよーっす」
「おはようございます、瑞希さん」
「おはようございます。あれ、瑞希さんって今日休みだよね?」
そう問いながら、席を立って瑞希に近寄ってきたのは、店長だ。ほぼ事務所に泊まっている。
「ちょっと、必要なものがあって取りに来ました」
瑞希は苦笑する。事務所の奥にあるスタッフ用のロッカーが並べられているが、そのロッカーの内一つは瑞希が使っている。
瑞希は財布から鍵を取り出し、ロッカーを開いた。中には主に着替えの服や、貴重品が入っている。
瑞希はカードケースを取り出し、運転免許証を手に取ると、またロッカーを閉めて鍵をかけた。
「これ取りに来ただけ」
「免許なんて持ってるんだ?」
「あっ! 僕が童顔だから免許持ってないって思ったんでしょ?」
「いやぁ~あはは。似合わないな~って。ちなみに、車に乗ってどこか行くの?」
「知人が退院するので、迎えに行ってきます」
瑞希は少し苦笑しながらそう言うと、事務所から出ていった。
近くでレンタカーを借りて、病院に向かう。
病院は患者数が多く、ベッドが埋まっている関係で伊吹の病室は個室だ。
病室に入ると、伊吹はベッドの背を上げて、身体を起こしていた。
「よっ、伊吹」
「げ、瑞希……」
伊吹は瑞希の姿を見ると、あからさまに嫌そうな顔をした。
「何しに来たんだよ? 乱パ参加者がプライベートで俺に近付いたら」
「……制裁のSMプレイでしょ? はいはい、分かってて来てるから。もうすぐ退院でしょ。だから早めに迎えに来たよ」
「店長は?」
「僕が迎えに行くって連絡しといた」
「それでアッサリ任せたのか!?」
伊吹は驚愕に目を見開いた。そしてすぐに眉間の皺が深くなる。
「まさか。断られたよ。当然だよね、店長って伊吹のボディガードみたいなものだし?」
「そうだよ」
「ラブピーチの中なら店長が守ってくれるからね。ダメって言われたから、勝手に来たんだよ。店長が来るのは午後だろうから、その前にね」
「そうか。なら退院次第、制裁は受けてもらう。乱パも出禁。ルール違反したんだから当然だよな?
瑞希だからって特別扱いはしない」
「それだと乱パイベント開く理由がなくなるね。いいの? 乱パの収益って、月の総売上の内二割くらい占めてるんじゃなかったっけ?」
「それくらい、どうにでもなるよ」
「翠君もだけどさ、伊吹もホント僕の事嫌いだよね。
昨日、伊吹が血を流して気絶してるって連絡きて、すぐ戻って大変だったのに。そんな僕にそんな態度って酷くない?」
「ごめ……」
「まぁ店長が応急処置して僕も翠君も何も出来なかったけどね。でもその後の病院について行ったし、心配してたんだから」
「そうだったんだ。悪かったよ」
「伊吹、命令。今ここで僕がしたルール違反、目ぇ瞑って。今後、乱パ参加者でも僕だけは伊吹のプライベートに干渉していいって事にしてよ」
「そ、それは……」
伊吹の顔色は一気に青くなる。
「伊吹はいい子だよね? 僕の命令全部聞いてくれるんでしょ? 悪い子になったの? 罰を受けてもらわないといけないかな?」
瑞希はまくし立てるように質問を重ねた。そうすれば、伊吹は思考停止して言う事を聞くだろうと考えたからだが──。
「いい加減にしてくれよ!!」
ピシャリと強く伊吹が怒鳴った。初めてだった、伊吹が瑞希に対して直接反抗するのは。
「ラブピーチ作る時、最初に約束しただろ。瑞希の為に乱パイベントやる代わりに、プライベートでは俺に関わらないって。
けど、ラブピーチの中でだけなら、俺は瑞希の命令を全部聞くし、仲良かった頃のまま接するって。
俺が瑞希を裏切ってから、もう俺達の関係は破綻してるっていうのにさ」
「だから伊吹は償うべきなんじゃないの? どうして僕だけが……。僕の人生返してよ、ホント……」
瑞希の目からポタッと一粒、涙が落ちた。瑞希自身、自覚していない涙。それを見た伊吹は動揺している。
瑞希は伊吹に近寄ると、伊吹の頭を包む様に優しく抱擁した。
辛くて、切なくて、やるせない。そんな感情の発散する場所がなくて、伊吹に縋っている。
そんな瑞希に、伊吹が苦々しい表情で慰めるような声で答えた。
「もう返せない。過去は変えられないんだ。分かってるだろ?」
「分かってるよ。分かってて伊吹に無茶を言ってきたんだ。
伊吹……僕ね、伊吹の事が好きなんだ。ずっと、ずっとね、好きだったんだよ……」
「瑞希……」
「あはは、好きな人に何やってんだろうね、僕は。ごめんね。もう君の前に現れないよ」
「瑞希?」
「最後に、制裁のSMプレイだけは勘弁してくれると嬉しいな。今後、伊吹に一切関わらないって約束するから……」
瑞希は涙を流しながらも、伊吹に笑顔を向けて手を離した。ようやく呪縛のような関係から解き放たれるのだと、少し気持ちが穏やかに落ち着いてくる。
病室を出ようと伊吹に背中を向けた──その時だった。
「知っての通り俺は瑞希の奴隷だ。それなのに、ご主人様が傷付いてる事に気付かなくてごめん。
でもさ、俺のご主人様なら、こんな時脅してでも言いなりにさせると思うんだけど?」
瑞希は立ち止まった。振り向くと、いつもラブピーチで見るような、仲の良い幼馴染みとしての目を向けている伊吹がいた。
期待と罪悪感が一気に押し寄せる。
「もう伊吹を翠君に返せなくなるかもしれないよ、それでもいいの?」
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