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番外編
②母親への贖罪
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彼女は愛情深い人で、良い事をしたら褒め、悪い事は本気で叱るまともな大人だ。
伊吹の父親は学校からの連絡を聞き流している為、瑞希の母親が代理をしていた。
伊吹が瑞希と悪さをすると、決まって彼女が伊吹の分も頭を下げていたのである。
何故、そんな彼女の息子である瑞希がこんな育ち方をしたのか、伊吹はいつも疑問であった。
瑞希の弟は誰にでも優しく、誠実で、優秀なのだが。
それでも、悪さをする瑞希だからこそ伊吹は惹かれたのだ。
その頃には伊吹は、女性は夫に殴られる事は普通ではないのだと理解していた。それは瑞希の両親を見て分かった事だ。
価値観が変わると、伊吹は内心で父親を軽蔑し、嫌悪するようになっていた。
そして、母親に会って謝りたいという気持ちが強くなった。
そんな伊吹の平穏な日常が壊れたのは、小学六年生に上がった頃だった。
学校から帰ってきて家に入った瞬間、伊吹は何か違和感を感じた。
「お父さん……?」
玄関に父親の靴があったのだ。平日の夕方頃にいる筈のない父親が帰ってきている。
何かあったのか。病気や事故など、考えられる可能性を思い浮かべてリビングへ行った。
「ただいま、父さん? 帰ってるの?」
「……」
父親は、電気も点けずに薄暗い部屋の中でソファーに座り、両手で顔を押さえるようにして項垂れていた。
「どうしたの?」
「……仕事がなくなった」
「へぇ。なんで?」
「お前に分かりやすく説明すると、うちの会社は親会社がアメリカなんだが、日本ではもう事業を展開しない事になった。日本に作った会社がなくなったんだ」
「ふーん?」
伊吹は首を傾げた。意味が分からないわけではないが、だからどうした? といった感じだ。
「俺の仕事がなくなったんだよ。今まで必死に積み上げてきた功績が全部消えたんだ」
「じゃあ……他のお仕事探さないとだね。ダメでもまた一から頑張る気持ちが大事って瑞希のおばさんが……」
「お前には分からない。ガキのお前なんかに」
「ごめんなさい」
父親は立ち上がり、伊吹の腕を掴んで寝室へ連れて行った。嫌な予感からサッと血の気が引いた。恐怖で身体が強ばる。
「お父さん、ごめんなさい。もう言わないから許してくださいっ! お父さん! ねぇ、お父さん!」
「うるさいっ!」
寝室に入り、ベッドの前に立たせると、父親は伊吹の頬を平手打ちした。
「お前なんかっ、アイツと出ていけば良かったのに……!」
ベッドに押し倒される。
昔は両親が一緒に使っていたダブルベッドだ。何故父親がそんな事をするのか、伊吹には分からない。
「お前、自分の顔が母親と似ているの分かってるか?」
「そう、なの?」
「今日からお前は、千夏子だ」
「俺は伊吹だよ」
「千夏子になれ。千夏子は俺を裏切らない。家事も完璧で、一切口答えはせず、俺の言う事だけを聞いて、俺がする事に反対しないんだ」
瑞希の家族に優しくされるまでの伊吹が知っている母親とはそういうものだった。
父親の言う事は絶対で、何を言われても、何をされても口答えは許されない。
家事も父親の指示通りにやらなければ殴られる。
父親の望むように出来なかったのだから罰を与えられるのは当然──それが伊吹の普通の家族像だった。それは父親が押し付けていた価値観だ。
「でも、俺はお母さんじゃないよ。男だし。息子だからお父さんと結婚出来ないし。俺はお母さんじゃないよ、伊吹だよ」
初めて父親に言い返した瞬間だった。
今までなら怒声と暴力が怖くて、父親に気に入られるよう、父親にとっての良い子を演じていた。
瑞希の両親の在り方を見てから、ずっと後悔していた。母親を守れなかった事。自分だけが助かろうと母親を犠牲にした事。
──父親に逆らわなかった事。
伊吹の掴む父親の手の力が強くなる。このまま握り潰されそうな程。だが、どんな痛みも耐えなければ。
痛みから逃げない事が母親への懺悔だ。
湧き上がる母親への贖罪の意識。伊吹にとって痛みは受け入れるものになっていた。
「お父さんはおかしい。お母さんは可哀想だったよ。ずっとお父さんと俺が苦しめてたんだ。
俺は、お父さんが大っ嫌いだ!」
父親がまた伊吹の頬を叩いた。今回は鋭く打ってきてパンッと音が響く。
伊吹が呆然としていると、父親は伊吹の服を脱がせていった。
「お前は俺が求める千夏子になるんだ。家事を完璧にして、俺が言う事だけを聞いて、いつも綺麗にして、夜は俺に全てを委ねる……そんな女に!」
伊吹の父親は学校からの連絡を聞き流している為、瑞希の母親が代理をしていた。
伊吹が瑞希と悪さをすると、決まって彼女が伊吹の分も頭を下げていたのである。
何故、そんな彼女の息子である瑞希がこんな育ち方をしたのか、伊吹はいつも疑問であった。
瑞希の弟は誰にでも優しく、誠実で、優秀なのだが。
それでも、悪さをする瑞希だからこそ伊吹は惹かれたのだ。
その頃には伊吹は、女性は夫に殴られる事は普通ではないのだと理解していた。それは瑞希の両親を見て分かった事だ。
価値観が変わると、伊吹は内心で父親を軽蔑し、嫌悪するようになっていた。
そして、母親に会って謝りたいという気持ちが強くなった。
そんな伊吹の平穏な日常が壊れたのは、小学六年生に上がった頃だった。
学校から帰ってきて家に入った瞬間、伊吹は何か違和感を感じた。
「お父さん……?」
玄関に父親の靴があったのだ。平日の夕方頃にいる筈のない父親が帰ってきている。
何かあったのか。病気や事故など、考えられる可能性を思い浮かべてリビングへ行った。
「ただいま、父さん? 帰ってるの?」
「……」
父親は、電気も点けずに薄暗い部屋の中でソファーに座り、両手で顔を押さえるようにして項垂れていた。
「どうしたの?」
「……仕事がなくなった」
「へぇ。なんで?」
「お前に分かりやすく説明すると、うちの会社は親会社がアメリカなんだが、日本ではもう事業を展開しない事になった。日本に作った会社がなくなったんだ」
「ふーん?」
伊吹は首を傾げた。意味が分からないわけではないが、だからどうした? といった感じだ。
「俺の仕事がなくなったんだよ。今まで必死に積み上げてきた功績が全部消えたんだ」
「じゃあ……他のお仕事探さないとだね。ダメでもまた一から頑張る気持ちが大事って瑞希のおばさんが……」
「お前には分からない。ガキのお前なんかに」
「ごめんなさい」
父親は立ち上がり、伊吹の腕を掴んで寝室へ連れて行った。嫌な予感からサッと血の気が引いた。恐怖で身体が強ばる。
「お父さん、ごめんなさい。もう言わないから許してくださいっ! お父さん! ねぇ、お父さん!」
「うるさいっ!」
寝室に入り、ベッドの前に立たせると、父親は伊吹の頬を平手打ちした。
「お前なんかっ、アイツと出ていけば良かったのに……!」
ベッドに押し倒される。
昔は両親が一緒に使っていたダブルベッドだ。何故父親がそんな事をするのか、伊吹には分からない。
「お前、自分の顔が母親と似ているの分かってるか?」
「そう、なの?」
「今日からお前は、千夏子だ」
「俺は伊吹だよ」
「千夏子になれ。千夏子は俺を裏切らない。家事も完璧で、一切口答えはせず、俺の言う事だけを聞いて、俺がする事に反対しないんだ」
瑞希の家族に優しくされるまでの伊吹が知っている母親とはそういうものだった。
父親の言う事は絶対で、何を言われても、何をされても口答えは許されない。
家事も父親の指示通りにやらなければ殴られる。
父親の望むように出来なかったのだから罰を与えられるのは当然──それが伊吹の普通の家族像だった。それは父親が押し付けていた価値観だ。
「でも、俺はお母さんじゃないよ。男だし。息子だからお父さんと結婚出来ないし。俺はお母さんじゃないよ、伊吹だよ」
初めて父親に言い返した瞬間だった。
今までなら怒声と暴力が怖くて、父親に気に入られるよう、父親にとっての良い子を演じていた。
瑞希の両親の在り方を見てから、ずっと後悔していた。母親を守れなかった事。自分だけが助かろうと母親を犠牲にした事。
──父親に逆らわなかった事。
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「お父さんはおかしい。お母さんは可哀想だったよ。ずっとお父さんと俺が苦しめてたんだ。
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