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Sei>>>>Saito Side 3

  ①「10年分の願いをこめて」☆

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[成➤➤➤彩人  side ③]



 彩人が戻って来た。
 一週間前の日曜日と同じ。
 堂谷家なのに、俺が待って、彩人が帰って来る構図。

 でも今回は、廊下ではなく、俺は彩人の部屋の中で待った。
 玄関扉が閉じて、鍵が掛けられ、靴を脱ぐ音の後、廊下をこちらへ進む足音がする。
 小さくキィと蝶番が鳴って、開いた戸の向こうに、彩人の姿が現れた。
 
 気まずそうに、下を向いている。
 風呂上がりに着ていた白地のTシャツはそのままだが、下だけ黒のスキニーパンツに履き替えている。
 セットしていない髪はボリュームこそないが、丸く形の良い後頭部と細い輪郭のおかげで、無造作だけどきちんと整って見える。前髪が、伏した目のすぐ上までかかっていて、伸びたなと気づく。切ってやらないと。

 中学の頃、部活と試験勉強に追われた彩人が、散髪に行く暇がないと嘆いた。俺はすぐに美容師のレクチャー系動画と美容学校の参考書をかき集め、巧い前髪の切り方を覚えた。その内に慣れてくると、彩人がもっととせがんで、横髪とか、後ろ髪にも範囲を広げた。手習いついでにバリカンでツーブロックにする技術も身に着けた。美容師にできることは同じ人間の俺も、学んで練習すればできた。

 今は、彩人の小さくて細い輪郭と、耳先も顎先も鼻先も形よく尖った顔の造作と、軽い癖っ毛の髪質に一番合った髪型を、俺が選んで時々切っている。
 その髪の先が、少しだけ濡れている。

「駅から走ってきてくれた?」

 俺が聞くと、彩人は頷いた。それからそっと室内に入って来る。
 正面のベッドに腰掛けている俺の前まで来て、部活で監督か先輩からの小言を聞く時のように、後ろ手にして、直立不動になる。
 呼吸は乱れていないから、家の前で整えてから入って来たらしい。
 髪が汗に濡れるくらい急いで走ってくれたのだと知って、俺は嬉しくなる。
 こういう嬉しさを、これまで彩人は何度与えてきてくれただろう。

「さっきは、言われるままに本当に帰ってごめん」

 俺が言うと、彩人は少しだけビクリと体を固めた。
 それからぎりぎり俺に見つかる位の差で、眉根を寄せた。
 やはり蒸し返すのだなと言わんばかりだ。

 俺は彩人の顔を見つめる。

 前髪にほとんど隠れた眉は、緩いアーチ型を描いている。
 その下の、二重にも三重にも見える目は、子犬みたいな杏型をしている。
 今は伏せられた、長くてカールした睫毛は、目の下に影をつくる。
 ほとんど頬骨の存在を感じさせないすっとした頬には、左の真ん中あたりにほくろがある。
 鼻筋は高く通って、控えめな小鼻へ続く。
 薄くて広い口元は、上唇が尖り気味で。
 その全部の骨格が細くて、しなやかで、角がない。
 それらは子どもの時から極間近で見て来た、変わらぬ彩人の造形。

 でも輪郭や額の骨格に、喉元の堅い突起に、Tシャツの下の隠れた胸板の厚みに、あの頃とは違う彩人の変化を知る。

「ずっと俺のことを好きでいてくれたこと、ありがとう。気づかなくてお前を傷つけることをしたことがあったら、ごめん」

 俺のことばに、はっきりと彩人が眉を顰めた。
 絞るように返されたことばは、語頭が掠れていた。

「……せ、いが俺にしたことで傷ついたことなんて、一個もないよ」

 そう言うということは、今も、傷ついてはいないと言ってくれるのか。
 それは優しさなのか強がりなのか、それとも真実なのか。どれにしても俺は数時間前のトレーニングルームでの一件の後、帰るべきではなかったと悔いていた。

 俺が彩人を、彩人と同じ意味で好きだと思ったことは、これまで一度もなかった。

 彼の才能に心酔していたし、本気で成功させてやりたいと願っていた。いつでも彩人のことを考えていたし、彼の全てを把握していたかった。一番近くで彩人の役に立てるのが本心から無上の喜びだった。それは使命というか、強迫観念に近かった。

 代わる者のない立ち位置が揺らぐかもしれないと知ったのが、先週の土曜日だ。
 彩人が「気になる人がいる」と言った。

 俺は動揺した。理由の大部分は彩人が隠し事をしたことと、自由意志の下、自由恋愛の道に一人で踏み出そうとしていたこと。でも理由の主要部分は、もっと小さくて些細だった。その相手はいずれ俺より優先され、大切にされるのだろうという予感。

 10年。

 俺は彩人の為になることをしてきた。それは翻せば、彩人が俺に求めて、乞うてきた時間だ。彩人が俺に頼み、俺にして欲しいと願って、指名してきたこと。俺を必要とし、俺じゃないと駄目だと選び続けてくれたということ。
 それはつまり、彩人が俺に、……自分では何も生み出せない、何の才能も持たない佐久間成という人間に、生きる役割と活力を、与え続けてくれていたということだ。
 それが終わったあと、俺には何が残っているのだろう。そう思った。

「これ」

 俺はベッドの傍らに置いた自分の鞄から、一冊のノートを取り出した。
 差し出した表紙に彩人が不審そうな表情かおをする。
 そこには『堂谷彩人について』と銘打たれている。

「彩人から気になる人がいるって聞いてから、お前はもうその話はするなって言ったけど、俺なりに考えていたんだ。もし今後、彩人に恋人ができるなら、じきに俺の役目はその人に移るんだろうな、って」

 俺はノートを開いて中を見せた。そこには彩人の好物から苦手な物から、選手としての特徴、戦歴、練習メニュー、友人関係から日常生活、過去から現在に至るまで全ての情報と、健やかな成長発達を支える為の注意点がまとめてある。

「……なにこれ」

 彩人が呟く。俺は答える。

「彩人にカノジョができたら渡そうと思った。これから彩人をよろしくね、って。でも君にできるのかな? って。例えば彩人の六月下旬の適正なエアコンの温度は28度で、風呂の湯温は39度で、風呂上りだけはエアコンを26度に下げておくんだからね、って」

 更に言う。

「風呂に入っている間にその日にベストな夕飯を作って並べておいて。湯上りの水分摂取は冷水少しと、後は常温。冬場と夏場では必要な水分量が違うから。あと、風呂の時間がいつもより極端に長い時は、一人でシテる・・・から、心配でも、見に行かないように」
「オイ、知ってたのかよ!」

 彩人が瞬間的に頬を染めて顔を上げた。
 やっとこちらを見てくれたのに、視線がぶつかると、はっと避けるようにまた下を向こうとする。それを止めるために、俺はその腕を掴んだ。

「知ってるよ。彩人のことなら、何でも知ってる」

 俺の手に引かれて、後ろに組んでいた彩人の手がほどける。正面にもってきた指の先が震えている。それを俺の手で包む。

「そう思っていたのに、知らないことがあった。俺の知らない彩人のことを、これから俺より知る人間ができるのかもしれない。そう想像したら、ちょっと受け入れられなかった。……いや、ちょっとじゃない。俺以上に彩人を知って、俺以外に彩人に何かを与える人間がいるなんて、あり得ない」

 繋いだ手をほどこうとはせず、振り絞るように彩人は言った。

「……カノジョなんてできないよ。俺が好きなのは、成だって、言ったじゃん」

 俺は繋いだ手に力を込めて、笑い返した。

「うん。そうだね。よかった」

 そう言ったとたん、彩人の目に悲憤の色が満ち、その表面をみるみる涙の幕が覆った。彩人は気づいて俺から隠そうと身を捩ったが、両手を俺に掴まれているから、うまくできない。

「何がよかったんだよ、そんなこと言ってもお前は……!」

 彩人の声が震えて滲む。怒ったみたいに語尾が尖るのを堪えたのか、恐れたのか、続きを言わず、代わりに息が荒くなる。
 彩人は『お前は』の次に何を言おうとしたのだろう。
 どんな弁明を加えても、今更取り繕っても、彩人の前に歴然と置かれているのは、俺が数時間前のトレーニングルームで彼の前から去ったという事実だけだ。

 どれだけ思い返しても、やはり俺はこれまでの人生で彩人を、彩人と同じ意味で好きだと考えたことは一度もなかった。

 あの時彩人に「帰って」と言われ、俺は自分の部屋に戻ってから、呆然とこれまでの日々を振り返っていた。
 その時、動揺と混乱は確かにあった。ついこの間まで彩人と恋愛との距離は遠く離れていると思っていた。なのに、それが俺の思い違いだったと判明したばかりか、その先の真実があって、しかも相手が俺なのか、と。

 俺自身はどうだったのだろう。ずっと昔に彩人と恋愛の距離が遠く離れていると独り合点して以来、二つを関連付けることはなくなった。彩人に関わらないことは何でも俺の中での優先順位は低かった。つまり、彩人が感心を示さない恋愛というのは、俺にとっても俎上に上げるべき理由がないつまらないものとなった。だって彩人に関係がないことなのだもの。そのまま、自分の中の『誰かに向けるべき特別な感情』という部分は、捨て置いて、人生のどこかに遺棄してきた。

 そうして月日だけがさらさらと経った。
 あまりに一緒にいる時間が長く、また当然すぎた。こうして目の前に突き付けられるまで、それは意識の表層に掬い上げられることもなく、目を留める必要もないものだった。

 でも今日初めて、それは彩人自身によって、具体的な意味を伴って突き付けられた。彩人がこの10年間、俺の前で見せてきた友情が愛情だったというなら、俺が彩人に抱いてきたこの強烈な独占欲と庇護欲は、何だと言うのだろうか?

 急激に理解した瞬間、こう思った。

 彩人を誰にも渡したくない。
 堂谷彩人に必要なことは俺がする。全部、これからも、俺がしたい。

 だから、と俺は続ける。

「お前が他の誰でもなく俺を好きだと言ってくれたから、“よかった”。お前が俺を選んでくれたから、俺はただの友だちや親友じゃできないことを、これからお前にしてやれる。そう思い至ったら、物凄く嬉しくて、わくわくした」

 それを言いたくて戻って来て欲しかったんだ、そう伝えた。
 彩人は疑い深い目で俺を見ていた。それから、怒ったように歯を食いしばった。その瞳は濡れているけれど、零れてはいない。

 彩人が俺と繋いだ手に力を篭めた。その手を、俺も握り返す。
 彩人はベッドに腰掛けて少し下にある俺の顔に、噛みつくみたいな勢いで、怒鳴るように言った。

「だったら俺がして欲しいことを、全部して! 俺が付き合って欲しいって言ったら、いいよって言って!」

 尖った上唇を震わせて、彩人が俺に・・強く要求する。
 その声は轟く雷鳴みたいに、俺の耳管から脊髄を駆け抜け、この背をぞくぞくと震わせる。
 頭の中に、何のゲーム画面なのか、これまでロックがかかっていたスキルパネルが全部解放されていくみたいな演出が横切る。

「うん。いいよ」

 俺の答えに、彩人の目が信じられないと言うように見開かれる。
 その目を見ながら、俺は、堂谷彩人にしてあげられることは何でもすると誓い続けた月日の結実に、感慨深さを抱いていた。

 これでもう、どこかの見ず知らずの鶏の肋や馬の骨にも劣る誰かに、彩人を掠め取られる心配は、ない。

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