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Saito>>>>Sei Side 3
③「接触」☆
しおりを挟む――あ、これヤバイかも。
直感的にそう焦りを感じたのは、マッサージが始まってすぐだ。
帰宅後にシャワーを浴びて、暑いからハーフパンツを履いたことを後悔した。
中学の頃はよく部活終わりや風呂上がりにこうしてマッサージをしてもらっていた。でもだんだん筋肉をほぐされる気持ちよさとそうではない気持ちよさがあることに気づいて、二つが分離し、後者の方が強くなっていくのが怖くなって、ある時もうマッサージはいいと断ったのだった。
あの頃の成は不思議そうにしていたけれど、それ以来、すると言うことはなかったのに、月日が経って忘れてしまったのだろうか。正直、俺はあの頃の記憶が遠くになり過ぎて、油断していた。成の手が自分の体に触るとどうなるのか。
そんなこと何も気づかない男がアキレス腱の横の窪みに親指を立てながら無邪気に言う。
「ねえ、俺うまくなったと思わない? 整体とかリラクゼーションとかの解説動画を見まくって勉強しているんだよ」
なるほど、それでお披露目できる機会を狙っていたのか。
「う……ん、うまい、うまくなってる」
うつ伏せて頭の下に敷いた両腕の間から、何とか感想だけ答える。成の機嫌がよくなっていくのが背中越しの気配から伝わってくる。俺は二種類の快感の内、前者の方を必死で手繰り寄せて、その奥から立ち上ろうとする後者に抗う。疲れた脳が理性を放棄しようとする。成の手が|脹脛(ふくらはぎ)へと上がる。他愛ないことを話しかけてくる。
「ねえ、フェンシングって、一試合するとどのくらい疲れるの?」
「どう、かな……俺は相手の隙をつくる為によく動く戦法だけど」ああ、会話している方が気が紛れる。「紘都のフェイント技や紅太のカウンターみたいなのがうまかったらあんまり動かなくて済むし……中腰のスクワットで全力疾走する感じ」
「それは並大抵の体力じゃ明日も試合はできないな」
「体力と持久力は、自信があるから」
「筋力も瞬発力も、バネもだよ。彩人のファント、誰よりも速くて低くて伸びて、燕の飛行みたい。どうやったらあんなに低く攻め込んでも体勢が保てるの? 防がれて反撃を喰らっても難なく防ぎ返すし、すぐ二回目の攻撃に切り替えるし」成がホゥと恍惚の溜息を吐く。「天才だよね」
「褒め過ぎだろ」
これ以上俺を悦ばせないで欲しい。手の甲を額に押し付けてこらえる。成が軽く立てた指の関節で膝の裏のツボを押す。ふいの痛気持ち良さが弾けて、全身の感覚器官に散らばっていく。
「そういえば、今日の彩人のフルーレで、相手が仕掛けてきて彩人が下がって、それで相手がそのままアタックして来たのに合わせて同時にポイントランプが点いた場面があったんだけど」
「あったかもね」そういう場面はフェンシングではよくある。
「でもポイントは彩人に入っていた。攻撃権は相手だよね、何で?」
「成が言ってるのは三回戦の六点目だろ? あれなら、相手が撃ってきた剣を払って俺が有効権を奪ってから突き返してる。払われた相手の剣も俺に当たってランプが同時点灯したけど、ポイントは俺」
「払っていたの?」
「もちろん。最初に下がったのも中途半端に攻撃を仕掛けさせて体勢を崩す為だし、撃たせる位置も誘導してる」
「攻防が速すぎて全然見えなかったな。でも審判や会場の選手には見えているってことだよね?」
「当たり前だろ。紘都の攻防なんてもっと速いし」
成が感心している。俺は言う。
「まだまだ速く、力強くならないと。もっと鍛えて、練習して、全国でも圧勝できるくらいに」
「でも高校生になってもう一気に筋量が増えたよね。太ももの太さが、中学の時と違う」
ふいに成の両手が脹脛から離れ、俺の左の太ももの周径を掴んだ。
「!」
成の指先が鼠径部のわきをかすった。
体が跳ねそうになったのを、腹筋に力を入れて何とかこらえた。
「……それ、ヤメロ」
平常心を必死に保ち、太ももに巻かれた成の手を払う。成は何も気づかず、「うん」と手を離す。
「じゃ、次は足のストレッチをするから仰向けになって」
何でもない調子で言う成に、すぐに応えられない。
無理だ。理性のかけらを握り締めていたのに、今の一撃で全部吹っ飛んだ。
今、上を向いたら全部バレる。
というか、下を向いているのもキツい。体と床に挟まれて行き場を失いながらも上を目指そうとし始めた部分が、痛い。耳と頬が一気に熱くなって、どんな色になっているのか知るのが怖い。成を払った手で、自分の頭を隠すように抱える。
「彩人?」
早く、と成が片手を俺の腰に置く。Tシャツ越しなのに、指の一本一本の形までを、鮮明に感じ取ってしまう。
「ストレッ……チは、いい」
何とかそれだけ言う。「そう?」と成は大して気にも留めず承諾する。腰から手が離れる。ほっと俺が息を吐いた次の瞬間、代わりに掌より広範囲の重みが腰の上に降ってきた。
「じゃ、次は肩と背中のマッサージね」
成が俺の上に跨っていた。
息が止まるかと思った。
とっさにきつく目を瞑る。真っ暗になった視界に奴の顔が浮かび上がる。さっきキッチンで眉を下げていたエプロン姿とか、制服姿に腕章を嵌めた総合体育館での姿とか、中学の時とか、小学校の時とか、――保育園の時の、あの豪雨の日に手を繋いでくれた、小さな姿とか。
心臓が、決勝戦のラストポイントの局面よりもっと激しく脈打って、破裂しそうだ。変な緊張と息苦しさで、体は熱いのに、手足の先だけ強張るみたいに冷たく感じる。
「――……もう、マジで無理だから」
俺の喉から、そんな掠れた声が出た。
言う。言わない。言えない。言いたい。
葛藤が猛スピードで頭の中を行き来する。
好き。溢れる。喉から零れる。飲み込まないとマズいことになる。
そうなるって分かっているのに、加速して止まらないモノがどこかから込み上げてくる。
駄目だ。絶対に駄目だ。昨日今日からじゃない、10年かけて築いてきたモノが全部なくなる。
分かっているのに。
それ以上に『今しかない』という衝動が邪魔して、俺の箍を外そうとする。
「彩人?」
成が上体を倒して、俺の耳元に唇を寄せて囁いた。耳たぶを掠めた吐息と、聞きなれた優しい声が、最後に残っていた俺の判断力を奪った。
「――成。好きだ」
静かな室内に、その言葉はぽつりと浮かんで、漂った気がした。
しばらくして、困惑したような、「え?」という声が聞こえた。
後悔の念が反射的に沸き上がるのを気合で振り払って、俺は拳を握り、腹を括った。言ってしまったのだ。もう誤魔化しも、後戻りもできない。
「聞いて。成」
俺は強く額をトレーニングマットに押し付けて大きく息を吸い、吐いてから、言った。
成からの返答はない。
「俺、気になるヤツがいるって言ったじゃん? それ、成なんだよ」
俺が話すのをやめると、部屋の中は無音になる。
うつ伏せた俺に成の表情はもちろん見えない。ただ腰の上の衣服を挟んで、成がゆっくり呼吸する揺れだけが伝わってくる。
「……俺?」
大分の間を空けてから、成の声が聞こえた。ぎゅっと目を瞑り、息を止めてから、俺は答える。
「うん。お前」
背中の上で改めて息を飲む気配がした。
またしばらく無音になる。
それから成がゆっくりと俺の上から降りた。
そのままどこかに行ってしまうのかと思ったが、成は俺の足元に座り直した。
「それ、冗談じゃなく言ってる……?」
「言ってるよ! この状況で冗談とか言うわけないって分かるだろ!」
状況打破と照れ隠しから大きな声を出した俺に、成が「……分からないだろ……」と困惑した声で呟いた。ごもっとも。恥ずかしさと見通しの暗さと期待と絶望とが入り混じって、全部が自己嫌悪になって戻ってくる。
成がまだここにいてくれることに有難さを感じる。
それがただただ成の優しさだということが、これだけ芳しい反応を返してもらえない現実から、突き付けられる。
淡く期待していたような前向きな返答は、もう、彼から出ることはないのだろう。
成は優しい。
俺は頭を抱えた手を後頭部の後ろで固く結んで、声を絞り出した。
「別に、応えて欲しいとか、返事を知りたいとか、そんなんじゃないから。言うつもりもなかったのに、今ちょっと、好きだって気持ちが抑えられなくなっただけ。聞いてくれてありがとう」
俺の精一杯の釈明に、成は何を考えているのか、黙っている。
「ちなみに好きなのは、保育園の頃からな」
付け足すと、成が一瞬息を詰めたのが伝わってきた。驚きと気まずさを混ぜた感じ。
それから何を言えばいいだろう。
無音が少し。
成が声を発した。
「――……俺は、どうしたらいい?」
成らしい反応だなぁと思った。フるでもキモイと拒否するでも、絶交でも無視でも、自分の感情第一で思うままに振舞えばいいのに、事ここに至っても、まずは俺の意見を尊重しようとしてくれる。
だからまた、そういうところが大好きになる。
「できるなら、俺はこれからもお前と今まで通り仲良くしたいと思ってる」
俺が言うことに、成は小さく、ウン、と相槌を打って聞いてくれる。
「好きだって言ったことで俺たちの仲が終わりってなるなら、俺は今言ったことを全部なかったことにしたいし、お前にもこの部屋でのことは忘れてもらいたい。それで明日になったら、普通に会って、普通に挨拶して、これまで通り普通に過ごしたいと思う。――そうしてもらえるなら、」
待っても成から「俺はこうしたい」という言葉は出ない。「それは違う」という訂正も。それが、俺を強制的に侘しくさせる。
ああ、これと似た気持ちをずっとずっと前に抱いていたことがあったなぁと、急に古い感覚が呼び起こされる。それは、成が引っ越してくるより前に、保育室で、一人で親の迎えを待っていた頃の――
脳裏に、先週の日曜日に、学校で会った紘都が言った科白が蘇る。
『言いたいことがあるなら相手から逃げて避けるより、ちゃんと向き合って話した方が良い』。
――そうだとしたら、俺はこんなことが言いたかったのだろうか?
「そうしてもらえるなら、今日は帰って、俺を一人にしてくれる? それでまた明日、何も知らないみたいに、いつも通り、おはようって言って」
祈るように伝えた俺のことばに、成は静かな声で「分かった」と言った。
そして、立ち上がり、静かに部屋を出て行った。
自分でそう願って口にしたことなのに。
成は全面的に俺の望みに従ってくれただけなのに。
押し付けたマットの上に、後悔と、これで良かったのだという諦めが混ざったため息が、落ちた。
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