愛する家庭を守るため 病んだ妻が決断したのは「夫を娘にする」事だった

高崎三吉

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運命の質問

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 ミチコの待っていた所長室に入ったナオミは、白い研究服を誇らしげにまといつつ嬉しげに頭を下げた。
 その姿は彼女が子供の頃に大事にしていた「女科学者の人形」にもよく似ていた。

「ママ。改めてよろしくお願いします」
「ちゃんと所長と呼びなさい」

 『実の娘』を研究所に入れるとなれば、情実人事だの何だの言われるのは目に見えていた。
 もちろんナオミが科学を愛する優秀な研究者である事は、誰の目にも明らかだったので正面からそれを言う相手はいなかったが、ミチコも陰口をちらほら耳にしている。

「あなたが正式な職員になるのは四月からだけど、そうなったらこの所内で『ママ』なんて呼んだらダメよ」
「分かりました。所長」

 ナオミがハキハキ返答したところで、ミチコは時計をチラと見る。

(ケイとの打ち合わせ通りの時間になったわ)

 ここで所長室のカーテンが開いた。

「この窓から改めて研究所を見なさい。ここが自分の職場だと認識するためにね」
「はい」

 ミチコのただならぬ様子に僅かな違和感を抱きつつ、ナオミは外の光景を見る。
 本来なら何でも無い事の筈である。
 だが見下ろした瞬間、ナオミは脳天から背骨を通って稲妻が走ったかのような衝撃を受けた。

「あ?! ああ?!」

 心の奥底から猛烈な興奮と性欲、そして何より深い愛情がわき上がる――ただしそれは初めてではなく『二度目』の経験だった。

「どうしたの? ナオミ?」

 あからさまに動揺するナオミに対し、ミチコは計画通りに事が進んでホッとしたという顔だった。だがナオミはそんなママの不自然な態度に気を回す余裕すらなかった。

「ママ! あ、あの人は?! 誰? 誰なの?!」

 つい先ほど「所長」と呼ぶと言ったばかりでありながら、震える指でナオミは下を歩いている一人の青年を指差していた。
 その青年は見たところナオミと同年配。
 真新しい研究員の服を逞しい体にまとい、そしてどこか見た事のある容貌だった。

「あなたは会うのは初めてだったわね。ケイ副所長さんの息子のユウキ君よ。あなたとは別の大学だったけど、これからはあなたと一緒に働くのよ」
「ユウキ君……わ、分かったわ! ありがとう!」
「ちょっとどこに行くの?」

 慌てて駆け出そうとしたナオミをミチコは止める。

「ごめん! 急いでいるの!」

 どう見てもワケの分からない行動の筈だが、ミチコは落ち着いた、しかしどこか覚悟を込めて問いかける。

「ナオミ……改めて聞いていいかしら?」
「な? なに? ママ?」

 ユウキの元に急いで駆けつけようとしつつも「大好きなママ」の真剣な表情にナオミは困惑する。
 普通に考えれば初対面、と言うよりガラス越しで声もかわしていない男性を遠目に見て、これだけ動揺する娘の様子は明らかにおかしい。
 だがミチコの言葉は思いもかけぬものだった。

「あなたは私と科学を愛しているわね?」
「も、もちろんよ! そんな事ならあとで幾らでも答えてあげるから邪魔しないで!」」

 何を当たり前の事を、と言わんばかりにナオミは焦って答える。
 ユウキとはこれから同じ職場で働くのだから、幾らでも機会はあるはずだが、ナオミにはそんな当然の事すら考える余裕はなく、一秒でも早く駆けつけたかったのだ。
 二〇年にも渡り、恋い焦がれてきた相手にようやく「運命の出会い」をしたのであるから、ある意味で当然ではある。
 そして「その運命を仕込んだ相手」は複雑な心境と共に次の言葉を発する。

「それではナオミ……ユウキ君と私、そして科学の中で何が一番大事?」
「え?!」

 ナオミはまるで想定外だった質問に不意を打たれた。

「今はそんな事を――」
「ダメよ! 答えて!」

 ミチコは有無を言わさぬ「母の気迫」でナオミを押しとどめる。

「もう一度聞くわ。ユウキ君と私、そして科学、この中であなたにとって何が一番大切かしら? 一つだけ選ぶとしたらどれを選ぶ? いまこの場で、あなたの正直な気持ちを答えなさい」
「……」

 しばしの沈黙の後、ナオミは申し訳なさそうに頭を下げる。

「ごめんなさい……」
「どういう意味かしら?」

 これは質問ではなく、確認だった。

「私は……私はあの人が科学よりも、そしてママよりも大切です!」

 馬鹿げた事を言っているとナオミ自身も思う。
 ナオミはこの二〇年の間ずっとママも科学も大好きだった。
 ママは自分の理想像であったし、科学に人生を捧げるのを当たり前に考えていた。
 しかし全てを越えて、出会ったばかりのユウキを愛する気持ちは揺るぎないものだった。
 そしてそれを聞いてミチコは小さく頷く。

「それでいいわよ。さあ。お行きなさい」
「ありがとう!ママ!」

 ミチコは満足そうに、だがほんの僅か惜しむ様子を見せつつ娘を解放する。
 それを聞いたナオミは振り向きもせずに駆け出していった。
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