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怪しい江戸者
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目指す齊藤家は、思ったより近くにあった。
場所を訊いた途端、和人の女がひび割れした指を使ってちょいちょいと一軒の家を指し示し、教えてくれたのだ。だが、その女は眉毛の無い目で男を睨むと懐疑を含んだ口振りでこう言った。
「あんさん、ここいらで齊藤の家の場所を知らぬとは……。どこから来なすった」
「伊勢の国だ。伊勢神宮の修行者で、御師なのだ」
「へえ……あんさんが、ねえ」
伊勢神宮の御師といえば、諸国を歩いて神宮の御札を配ったり伊勢参りの人々を案内したり、伊勢に着けば宿泊などの世話をしたりする人間をいった。
当時の人々の憧れである伊勢から気が遠くなるくらい遠いこの場所では、敬われて当然のところだが、この蝦夷地までにはそのご威光が届かないのか、はたまたこの女がよく知らないだけなのか、その顔には敬意の欠片も感じられない。
御師というのは、旅を続けるために男が吐いた嘘である。
とはいえ、ますます疑いの目を向ける女に嫌気がさしたその男は、礼を言うとすぐにその場を立ち去ることにした。
「御免」
程無く齊藤家に着くと、なかなかに大きな玄関に立って声を張り上げる。
奥から怪訝そうに出てきたのは、女中らしきどちらかといえば歳若の女だった。
「どちらさんで?」
「こちらの主、佐八郎殿に今晩一晩の逗留をお許しいただいた――」
「ああ、ああ、主より聞いております。ささ、どうぞおあがりください」
「……失礼致す」
旅装の男が奥の部屋に通された。
その晩、風呂と北方の海の幸を馳走され、早めに床に就く。これからの長旅を考えれば、こんなに柔らかい布団で眠れることは、男にとって大変貴重な時間なのだ。
布団の温もりと有難さを感じながら、男は眠った。
――次の日。
温かな朝餉をいただいた後、齊藤家を出立する。
朝餉を終えたときには、思わず手を合わせてお辞儀した。米の取れないこの蝦夷地での米の有難さが沁みる、そんな食事だったのだ。
商家の玄関を抜けると、空は快晴だった。吹く風も、鼻をくすぐる程度の心地よさ。
前日の砂塵を大いに巻き上げた強い風など、夢幻の如しだ。
あまりの天気の良さに、湊のすぐ先にある弁天島のところまで足を延ばすことにする。
季節はちょうど、山桜の咲き誇る季節なのだ。
穏やかな春の陽に誘われた民が、そこで弁当など広げて花見を決め込んでいた。楽し気な宴の様子に、その健脚も止まる。
「思ったより、蝦夷も平安ではないか。オロシャ(ロシア)人たちの侵攻の話など、根も葉もない噂に過ぎぬのか」
男は暫くその様子を眺め、その後、北に向けて出立した。
まず目指すは、江差から4里ほどの熊石という名の集落だ。所謂この地が和人地の北端であり、真の蝦夷地である「西蝦夷地」への玄関口である。
歩くのは、やはり海沿いの砂地だ。
白い砂浜を一歩一歩踏みしめながら、進んでゆく。
と、活気溢れる鯡場を幾つか通り過ぎ、幅が一町ほどはありそうな川――アッサブ川――に男が差し掛かったときだった。
大きく湾曲した川に挟まれた場所にある柳崎と呼ばれる小さな集落の近くの河川敷で、たくさんの人だかりがあったのだ。この集落はどうやら檜材の集積地らしく、そこかしこの川縁に丸太状の大木の山が積まれているのが見えた。
「どうした。何があった?」
元来好奇心の強いこの男が、近くにいた筋骨隆々な人足らしき男に尋ねる。
あまり聞いたことのない言葉の調子で尋ねられた人足は、一度胡散臭そうに旅の男を見た後、面倒くさそうに口を開いた。
「ああん? おめえ、見慣れねえ顔だな……。まあいいや、教えてやろう。頭から血を流した仏さまが今朝、川辺で見つかったのよ」
「仏さまだって――!? 死骸ということだな?」
「まあ、そういうことよ。あんだけ威勢の良かった留吉も、ああなったら哀れなもんだぜ」
「ほお……威勢が良かったのか」
旅の男が、菅笠を頭から外して人だかりの先を見た。
確かに、人がひとり、川辺で筵を被された形で倒れているのが見える。
すると訊きもしないのに、人足は得意げに話しだした。
「おお、そうよ。ありゃあぜってえ、『恨み』だな。留吉の野郎、元は内地のヤクザ者らしく、表向きは一応、檜の材木を運ぶ人夫の元締めってことになってるがな、裏では阿漕な金貸しをしてたって噂よ。」
「阿漕な金貸し……か」
「おうよ。そんでもって、あいつから金を借りた者が金を返せずに人買いに売られたり、近くの浜に身を投げて死んじまった、なんてことは数知れずってところだな」
「ふむう……そうなのか」
そのとき旅の男の目に映ったのは、川の畔で、松前藩の捕吏らしい二人の役人に問い詰められる、若いアイヌだった。
武士でいえばそろそろ元服という年頃の男児。
まだ髭も生えておらず、腕や足の筋肉も発達途上な大人一歩手前のアイヌといった感じだ。と、ここで旅装の男が気付く。
(あれはもしや――昨日会った、若者?)
男の両目が、かっと見開いた。
この騒ぎに、男が一気に興味を抱いた瞬間だった。
場所を訊いた途端、和人の女がひび割れした指を使ってちょいちょいと一軒の家を指し示し、教えてくれたのだ。だが、その女は眉毛の無い目で男を睨むと懐疑を含んだ口振りでこう言った。
「あんさん、ここいらで齊藤の家の場所を知らぬとは……。どこから来なすった」
「伊勢の国だ。伊勢神宮の修行者で、御師なのだ」
「へえ……あんさんが、ねえ」
伊勢神宮の御師といえば、諸国を歩いて神宮の御札を配ったり伊勢参りの人々を案内したり、伊勢に着けば宿泊などの世話をしたりする人間をいった。
当時の人々の憧れである伊勢から気が遠くなるくらい遠いこの場所では、敬われて当然のところだが、この蝦夷地までにはそのご威光が届かないのか、はたまたこの女がよく知らないだけなのか、その顔には敬意の欠片も感じられない。
御師というのは、旅を続けるために男が吐いた嘘である。
とはいえ、ますます疑いの目を向ける女に嫌気がさしたその男は、礼を言うとすぐにその場を立ち去ることにした。
「御免」
程無く齊藤家に着くと、なかなかに大きな玄関に立って声を張り上げる。
奥から怪訝そうに出てきたのは、女中らしきどちらかといえば歳若の女だった。
「どちらさんで?」
「こちらの主、佐八郎殿に今晩一晩の逗留をお許しいただいた――」
「ああ、ああ、主より聞いております。ささ、どうぞおあがりください」
「……失礼致す」
旅装の男が奥の部屋に通された。
その晩、風呂と北方の海の幸を馳走され、早めに床に就く。これからの長旅を考えれば、こんなに柔らかい布団で眠れることは、男にとって大変貴重な時間なのだ。
布団の温もりと有難さを感じながら、男は眠った。
――次の日。
温かな朝餉をいただいた後、齊藤家を出立する。
朝餉を終えたときには、思わず手を合わせてお辞儀した。米の取れないこの蝦夷地での米の有難さが沁みる、そんな食事だったのだ。
商家の玄関を抜けると、空は快晴だった。吹く風も、鼻をくすぐる程度の心地よさ。
前日の砂塵を大いに巻き上げた強い風など、夢幻の如しだ。
あまりの天気の良さに、湊のすぐ先にある弁天島のところまで足を延ばすことにする。
季節はちょうど、山桜の咲き誇る季節なのだ。
穏やかな春の陽に誘われた民が、そこで弁当など広げて花見を決め込んでいた。楽し気な宴の様子に、その健脚も止まる。
「思ったより、蝦夷も平安ではないか。オロシャ(ロシア)人たちの侵攻の話など、根も葉もない噂に過ぎぬのか」
男は暫くその様子を眺め、その後、北に向けて出立した。
まず目指すは、江差から4里ほどの熊石という名の集落だ。所謂この地が和人地の北端であり、真の蝦夷地である「西蝦夷地」への玄関口である。
歩くのは、やはり海沿いの砂地だ。
白い砂浜を一歩一歩踏みしめながら、進んでゆく。
と、活気溢れる鯡場を幾つか通り過ぎ、幅が一町ほどはありそうな川――アッサブ川――に男が差し掛かったときだった。
大きく湾曲した川に挟まれた場所にある柳崎と呼ばれる小さな集落の近くの河川敷で、たくさんの人だかりがあったのだ。この集落はどうやら檜材の集積地らしく、そこかしこの川縁に丸太状の大木の山が積まれているのが見えた。
「どうした。何があった?」
元来好奇心の強いこの男が、近くにいた筋骨隆々な人足らしき男に尋ねる。
あまり聞いたことのない言葉の調子で尋ねられた人足は、一度胡散臭そうに旅の男を見た後、面倒くさそうに口を開いた。
「ああん? おめえ、見慣れねえ顔だな……。まあいいや、教えてやろう。頭から血を流した仏さまが今朝、川辺で見つかったのよ」
「仏さまだって――!? 死骸ということだな?」
「まあ、そういうことよ。あんだけ威勢の良かった留吉も、ああなったら哀れなもんだぜ」
「ほお……威勢が良かったのか」
旅の男が、菅笠を頭から外して人だかりの先を見た。
確かに、人がひとり、川辺で筵を被された形で倒れているのが見える。
すると訊きもしないのに、人足は得意げに話しだした。
「おお、そうよ。ありゃあぜってえ、『恨み』だな。留吉の野郎、元は内地のヤクザ者らしく、表向きは一応、檜の材木を運ぶ人夫の元締めってことになってるがな、裏では阿漕な金貸しをしてたって噂よ。」
「阿漕な金貸し……か」
「おうよ。そんでもって、あいつから金を借りた者が金を返せずに人買いに売られたり、近くの浜に身を投げて死んじまった、なんてことは数知れずってところだな」
「ふむう……そうなのか」
そのとき旅の男の目に映ったのは、川の畔で、松前藩の捕吏らしい二人の役人に問い詰められる、若いアイヌだった。
武士でいえばそろそろ元服という年頃の男児。
まだ髭も生えておらず、腕や足の筋肉も発達途上な大人一歩手前のアイヌといった感じだ。と、ここで旅装の男が気付く。
(あれはもしや――昨日会った、若者?)
男の両目が、かっと見開いた。
この騒ぎに、男が一気に興味を抱いた瞬間だった。
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