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21 憧れのねんきん生活(前編)
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目が覚めるとそこは、いつもの寝室だった。
今日で、六十五歳。
カフカの「変身」とまではいかないけれど、まるで生まれ変わったかのようなすがすがしい気持ちがした。というのも、今日、「ねんきん」が届くことになっているからだ。
寝室のカーテンを軽やかに開ける。
目に飛び込んで来たのは、新しい人生の門出を祝福するかのようにきらびやかな朝の陽の光だった。眩しさに耐えきれずに、思わず目をつぶる。
すると、瞼の裏のスクリーンによみがえったのは遠い記憶――ひとりの女性の姿だった。二十代の頃に自分のすべてを捧げて愛した、ひとつ年上の美佐子さん。小柄で、えくぼの可愛い女性だ。
自分は、あれ以来独身で過ごすことになってしまったが、彼女は幸せな結婚生活を送れたのだろうか……。
まだまだ彼女の姿を見ていたい気持ちもあったが、いつまでもノスタルジーに浸っていられない。ダイニングに移動して、一人分の朝食を準備する。
久しぶりにのんびりとした朝ごはんを終え、ソファーで朝のワイドショーテレビを見ていたときだった。ようやく、玄関のインターホンが鳴ったのである。
そう……ようやく、だ。
――来た、来た!
きっと、ねんきんに違いない。
ソファーから跳び上がった僕は、踊るようにインターホンへと向かった。
「ねんきん宅配便です」
荷物を受け取り、配達員が玄関ドアを閉じたのと、ほぼ同時。
我が国のねんきんを統括する「ねんきん機構」から届いた小包を小脇に抱えた僕は、リビングルームへと小走りで向かった。それから、ダイニングテーブルの上で小包を取り巻くフィルムをベリベリ破ると、ドキドキ高鳴る胸の鼓動とともに、段ボール箱の中身の取り出し作業に取り掛かったのである。
最初に手に取ったのは、一枚のA4サイズの紙だった。
「六十五歳のお誕生日おめでとうございます」という、お決まりの文句が最初に並んだお祝い状だったが、それに続く「人生百年時代が到来……」云々という文言は、まどろっこしいので読むのはやめた。
今の僕は、とにかく「ねんきん」にしか興味はないのである。
「やっと、ねんきん生活者になれたよ……夢のようだ」
感慨深く息を吐き、次に取り出したのは透明なクッション材に包まれた白いプラスチック製の小箱。
パチリという軽い音とともに、蓋のストッパーを外す。
すると中から現れたのは、森林浴の時に嗅いだようなにおいに包まれた「ねんきん手帳」の小冊子と、「粘菌飼育セット」だった。
そう――ねんきんとは、粘菌のことなのである。
森や林の湿った場所に生息する単細胞生物で、植物でも動物でもない。見た目はカビやキノコに似ている時期があるものの、全く別のイキモノである。生物学者たちはこの生物を「ホコリ」などというとても失礼な名前で呼んでいるが、とんでもない。「変形体」と呼ばれるステージでは、大きなアメーバのような形になってまるで動物のように動き回り、餌であるバクテリアを食べて生活する。
数年前、少子高齢化などが原因で従来の「年金システム」が破綻してしまったこの国は、不思議な能力を持つことが近年発見された「粘菌」に、そのシステムを託すことになった。
善良なる「いち国民」としては、ただのダジャレではない――と信じたい。
『厳選なる抽選の結果、あなたに選ばれた「ねんきん」は ワタナワケホコリ です』
世界に何種類の粘菌が存在しているのかは知らない。
だが、僕に支給された粘菌は、どうやらそういった名前の種類であるらしいのだ。ここは、国を信じることとしよう。
透明なガラス製の平皿――シャーレの底に敷かれてたウエットシートのようなものの上に、オレンジ色の小さなキノコ、もしくは足の生えたイクラのようなものがびっしりと生えている。
――これからの僕の人生を共に生きるパートナーだ。大切に育てよう。
同封されていた「ねんきん手帳」を手に取った僕は、その最初のページに書かれた、「取扱説明書」なるものに視線を移した。
『ねんきんの活用で 老後を薔薇色の生活に!
選べるのは4つのプラン。自分の老後にあったプランをひとつだけ選び、ねんきん機構へ申告してください。(選択後、一年以内は一度だけキャンセルして選びなおすことができます。それ以降の変更は受け付けられませんので、ご了承ください)
1 財産富裕プラン
2 ワクワク冒険プラン
3 熱烈恋愛プラン
4 粘菌生活プラン
なお、各プラン専用にご用意している粘菌の餌となるバクテリアは、二ケ月に一度、定期的にお送りいたします』
数年前に発見されたという粘菌の特殊能力――。
それは、まるで未来を透視できているかのような、卓越した「選択能力」なのだった。発見時は、これまでの進化生物学の根本をひっくり返されたかのような大騒ぎだったのを憶えている。何せ、我々のような何兆もの細胞を持つ「多細胞生物」が不可能な未来透視ともいえることを、このたったひとつしか細胞を持たない「単細胞生物」が軽々とこなしてしまうというのだから!
取扱説明書によれば、各プランに適した餌を与えていくうち、粘菌がそのプランに応じた「予知・予測」が得意になっていくというものらしい。
粘菌は飼育をしているとその形態を変える。そして、いくつかある形態のうちで自由に動き回ることができる「変形体」というステージに粘菌がなったとき、その特殊能力を発揮する。変形体となった粘菌の前にいくつかの選択肢を書いた文章の入った封筒を置くと、正しい選択肢である封筒に向かって粘菌が這っていく。
人間は、その選択肢のとおりにやっていけば、必ず人生が好転する――のだ。
迷わず僕は、「熱烈恋愛プラン」を選んだ。
巷ではほとんどの人が「財産富裕プラン」を選ぶと聞く。けれど、この歳まで独身として過ごした自分としては、それなりの貯えもあるし、商社の仕事をしてきたこともあって世界中を渡り歩いたので、冒険に関してはもうお腹いっぱいなのだ。
とすれば、僕の人生で唯一欠けてしまったもの――いや、たった一度しかなかったというべきか――「熱烈恋愛」を残りの人生を賭けて経験したくなるのは当然だろう?
熱烈恋愛用のピンク色した餌の入った小瓶を取り出した僕は、早速、粘菌の飼育を始めたのだった。
今日で、六十五歳。
カフカの「変身」とまではいかないけれど、まるで生まれ変わったかのようなすがすがしい気持ちがした。というのも、今日、「ねんきん」が届くことになっているからだ。
寝室のカーテンを軽やかに開ける。
目に飛び込んで来たのは、新しい人生の門出を祝福するかのようにきらびやかな朝の陽の光だった。眩しさに耐えきれずに、思わず目をつぶる。
すると、瞼の裏のスクリーンによみがえったのは遠い記憶――ひとりの女性の姿だった。二十代の頃に自分のすべてを捧げて愛した、ひとつ年上の美佐子さん。小柄で、えくぼの可愛い女性だ。
自分は、あれ以来独身で過ごすことになってしまったが、彼女は幸せな結婚生活を送れたのだろうか……。
まだまだ彼女の姿を見ていたい気持ちもあったが、いつまでもノスタルジーに浸っていられない。ダイニングに移動して、一人分の朝食を準備する。
久しぶりにのんびりとした朝ごはんを終え、ソファーで朝のワイドショーテレビを見ていたときだった。ようやく、玄関のインターホンが鳴ったのである。
そう……ようやく、だ。
――来た、来た!
きっと、ねんきんに違いない。
ソファーから跳び上がった僕は、踊るようにインターホンへと向かった。
「ねんきん宅配便です」
荷物を受け取り、配達員が玄関ドアを閉じたのと、ほぼ同時。
我が国のねんきんを統括する「ねんきん機構」から届いた小包を小脇に抱えた僕は、リビングルームへと小走りで向かった。それから、ダイニングテーブルの上で小包を取り巻くフィルムをベリベリ破ると、ドキドキ高鳴る胸の鼓動とともに、段ボール箱の中身の取り出し作業に取り掛かったのである。
最初に手に取ったのは、一枚のA4サイズの紙だった。
「六十五歳のお誕生日おめでとうございます」という、お決まりの文句が最初に並んだお祝い状だったが、それに続く「人生百年時代が到来……」云々という文言は、まどろっこしいので読むのはやめた。
今の僕は、とにかく「ねんきん」にしか興味はないのである。
「やっと、ねんきん生活者になれたよ……夢のようだ」
感慨深く息を吐き、次に取り出したのは透明なクッション材に包まれた白いプラスチック製の小箱。
パチリという軽い音とともに、蓋のストッパーを外す。
すると中から現れたのは、森林浴の時に嗅いだようなにおいに包まれた「ねんきん手帳」の小冊子と、「粘菌飼育セット」だった。
そう――ねんきんとは、粘菌のことなのである。
森や林の湿った場所に生息する単細胞生物で、植物でも動物でもない。見た目はカビやキノコに似ている時期があるものの、全く別のイキモノである。生物学者たちはこの生物を「ホコリ」などというとても失礼な名前で呼んでいるが、とんでもない。「変形体」と呼ばれるステージでは、大きなアメーバのような形になってまるで動物のように動き回り、餌であるバクテリアを食べて生活する。
数年前、少子高齢化などが原因で従来の「年金システム」が破綻してしまったこの国は、不思議な能力を持つことが近年発見された「粘菌」に、そのシステムを託すことになった。
善良なる「いち国民」としては、ただのダジャレではない――と信じたい。
『厳選なる抽選の結果、あなたに選ばれた「ねんきん」は ワタナワケホコリ です』
世界に何種類の粘菌が存在しているのかは知らない。
だが、僕に支給された粘菌は、どうやらそういった名前の種類であるらしいのだ。ここは、国を信じることとしよう。
透明なガラス製の平皿――シャーレの底に敷かれてたウエットシートのようなものの上に、オレンジ色の小さなキノコ、もしくは足の生えたイクラのようなものがびっしりと生えている。
――これからの僕の人生を共に生きるパートナーだ。大切に育てよう。
同封されていた「ねんきん手帳」を手に取った僕は、その最初のページに書かれた、「取扱説明書」なるものに視線を移した。
『ねんきんの活用で 老後を薔薇色の生活に!
選べるのは4つのプラン。自分の老後にあったプランをひとつだけ選び、ねんきん機構へ申告してください。(選択後、一年以内は一度だけキャンセルして選びなおすことができます。それ以降の変更は受け付けられませんので、ご了承ください)
1 財産富裕プラン
2 ワクワク冒険プラン
3 熱烈恋愛プラン
4 粘菌生活プラン
なお、各プラン専用にご用意している粘菌の餌となるバクテリアは、二ケ月に一度、定期的にお送りいたします』
数年前に発見されたという粘菌の特殊能力――。
それは、まるで未来を透視できているかのような、卓越した「選択能力」なのだった。発見時は、これまでの進化生物学の根本をひっくり返されたかのような大騒ぎだったのを憶えている。何せ、我々のような何兆もの細胞を持つ「多細胞生物」が不可能な未来透視ともいえることを、このたったひとつしか細胞を持たない「単細胞生物」が軽々とこなしてしまうというのだから!
取扱説明書によれば、各プランに適した餌を与えていくうち、粘菌がそのプランに応じた「予知・予測」が得意になっていくというものらしい。
粘菌は飼育をしているとその形態を変える。そして、いくつかある形態のうちで自由に動き回ることができる「変形体」というステージに粘菌がなったとき、その特殊能力を発揮する。変形体となった粘菌の前にいくつかの選択肢を書いた文章の入った封筒を置くと、正しい選択肢である封筒に向かって粘菌が這っていく。
人間は、その選択肢のとおりにやっていけば、必ず人生が好転する――のだ。
迷わず僕は、「熱烈恋愛プラン」を選んだ。
巷ではほとんどの人が「財産富裕プラン」を選ぶと聞く。けれど、この歳まで独身として過ごした自分としては、それなりの貯えもあるし、商社の仕事をしてきたこともあって世界中を渡り歩いたので、冒険に関してはもうお腹いっぱいなのだ。
とすれば、僕の人生で唯一欠けてしまったもの――いや、たった一度しかなかったというべきか――「熱烈恋愛」を残りの人生を賭けて経験したくなるのは当然だろう?
熱烈恋愛用のピンク色した餌の入った小瓶を取り出した僕は、早速、粘菌の飼育を始めたのだった。
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