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15 三枚のお札(前編)
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日増しに強くなる、夏の陽射し。
夏休みになり、たくさんの宿題が出た僕としては早めに宿題を済ませたいところだけど、クーラーのない家の中は地獄さながらの暑さで、なかなか宿題が捗らない。
そんな、朝から茹だるような暑さの日のことだった。
近頃「ついに三十路になっちゃった」とぼやいてばかりの母さんが、もうとっくに仕事の始まる時間だというのに出かける様子もなく、自分の部屋で宿題をしていた僕をリビングに呼んだのだ。ここはちょっと街から離れた場所にある古くて小さな一軒家だから、リビングといってもやっと食卓がひとつ置けるくらいの大きさだった。当然、僕の目の前には少し派手目の化粧をした母さんの顔が間近にある。
「ねえ、エス。アンタ、もう五年生でしょ? なら、できるわよね」
「なにが?」
僕の名を呼び、唐突な話を始めた母さんにはそれしか返答できなかった。
波打った茶髪とばちばちの長い睫毛を揺らすように小首を傾げた母さんが、ゆっくりと口を動かす。
「だ、か、らぁ……、一人暮らしよ」
「一人暮らしぃ?」
夏の暑さとは関係ない感じの汗が、僕の背中を流れていった。
ウチには父さんなんて最初からいなかったし、母さんは毎日働きに出てる。だから身の回りのことはある程度はできる僕だけれど、すべてがすべて自分でやれっていうのは、無理に決まってるじゃないか――。
そんな言葉が口から出かかったとき、母さんが右手をひらひらとさせた。
その手は、僕なんかほとんど触ったこともない一万円札を三枚、掴んでいた。
「ここにアタシの全財産、三万円があるわ。これでなんとか生きてちょーだい。周りには助けてくれる大人もいるはずよ……きっと。じゃあ、そういうことだから後はよろしく」
「ちょ、ちょっと母さん! 何を言ってるのか全然分かんないんだけど!!」
しかし母さんは、実の息子の言葉など耳に入らなかった。
三枚のお札をテーブルの上に放り投げると、荷物の詰まった重たそうな旅行鞄を持ってそそくさと玄関から飛び出して行ってしまったのだ。
慌てて追いかけてみる。
すると、黒くてぺったんこな車が一台、玄関前で母さんを待ち構えていた。ここ最近家に来るようになった、母さんと同じ会社で“ドボクサギョウイン”をしている高木とかいう男のものだった。
母さんよりちょっとだけ若い、いつもダボダボなズボンを穿いている金髪ピアス男。
彼の車の助手席に乗り込んだ母さんは、窓ガラスを開けて、これ以上ないような笑顔を僕に向けて叫んだ。
「がんばってね、エス」
「ちーっす!」
別れのあいさつとしては、何ともあっけない言葉だった。
そして僕は――ひとりぼっちになった。
☆
どんなに衝撃的な一日でも夕闇は迫り、そして、必ず朝を迎えるものらしい。
とんでもなく長い夜を眠れずに過ごした僕は、リビングの椅子に腰掛けたままテーブルの上に残された三枚のお札を前に、ただただ、茫然としていた。
そんなときだった。玄関の呼び鈴が鳴ったのは。
――母さんが帰って来た!?
期待に胸を膨らませて、玄関へと走る。
けれどその期待は、すぐに穴の開いた風船のようにしゅるしゅると萎んでしまった。扉を開けた僕の目前に立っていたのが、母さんではなく、お隣の家の皆川のおばさんだったからだ。
家の様子が気になるらしい皆川さんは、奥を覗こうと頻りに背伸びした。
「あら、エス君。お母さん、いらっしゃる?」
「いえ……いません」
「やっぱりそうだったのね……。香織さん、出てっちゃったんでしょ?」
香織というのは僕の母さんの名前だ。
「やっぱりって……どういうこと?」
「だって昨日、゛あの男“の車に乗って出かけたまま帰って来なかったもの」
――このおばさん、暇なのかな。
隣の家をずっと眺めていたと思うとちょっと怖い気もするけど、それならそれで話は早い。飛んで火に入る夏の虫とばかりに、僕は皆川さんに助けを求めた。
「おばさん、助けて! 実は僕、母さんにあとは一人で生きてけって言われたんだ」
「何ですって? とんでもない親ね……。それなら後は、おばさんに任せなさい!」
鼻息も荒く、多分五十歳くらいの皆川さんは靴を脱いで廊下をずかずかと歩き、家の奥へと進んでいった。
身長は百五十センチの僕と同じくらい。
赤い半袖シャツと地味な灰色のスカートを履いた皆川さんは、いわゆる普通のおばさんだ。その頼りがいのある大きな背中を見た僕は、ようやくほっとした心持ちになった。
おばさんの後を追い、リビングへと向かう。
するとおばさんは、まるで僕を待ち兼ねたかのように、普段は母さんが座る椅子にどっかと腰を下ろしていた。家のあちこちに鋭い視線を巡らせ、テーブルの上の三枚のお札を確認した途端に、目を輝かせた。
「エス君、このお金は?」
「母さんが、あとはこれで暮らせって……」
「ふうん……そう」
おばさんは三枚の一万円札から一枚を掴み取ると、「これでアタシが何か買って来るから、それでしばらくしのぎなさい。そうしている間に、香織さんの気が変わって帰ってくるかもしれないから……」と言って、どこかに行ってしまったのだった。
再び訪れた静けさに押し潰されそうになる。
が、現実に戻れば、もしかしたら皆川さんは一万円を持ち逃げしただけなのかも知れないのだ。気持ちが更に深く沈んだ。
だが、おばさんはそんな人ではなかった。
しばらくして、抱えきれないほどの食料品を持って帰って来てくれたのだ。しかも、カレーの材料まで用意して、僕だけなら数日間食べられそうな量のカレーを、鍋一杯に作ってくれもした。
「これで少しの間は暮らせるでしょう。また、様子を見に来るわね」
僕の両サイドの瞳から、涙がこぼれ落ちた。
――母さんには捨てられたけど、世の中、まだまだ捨てたもんじゃない。
いずれ母さんも帰って来る、はずだ。
そう信じることにした僕は、しばらく一人で過ごしてみることに決めたのだった。
夏休みになり、たくさんの宿題が出た僕としては早めに宿題を済ませたいところだけど、クーラーのない家の中は地獄さながらの暑さで、なかなか宿題が捗らない。
そんな、朝から茹だるような暑さの日のことだった。
近頃「ついに三十路になっちゃった」とぼやいてばかりの母さんが、もうとっくに仕事の始まる時間だというのに出かける様子もなく、自分の部屋で宿題をしていた僕をリビングに呼んだのだ。ここはちょっと街から離れた場所にある古くて小さな一軒家だから、リビングといってもやっと食卓がひとつ置けるくらいの大きさだった。当然、僕の目の前には少し派手目の化粧をした母さんの顔が間近にある。
「ねえ、エス。アンタ、もう五年生でしょ? なら、できるわよね」
「なにが?」
僕の名を呼び、唐突な話を始めた母さんにはそれしか返答できなかった。
波打った茶髪とばちばちの長い睫毛を揺らすように小首を傾げた母さんが、ゆっくりと口を動かす。
「だ、か、らぁ……、一人暮らしよ」
「一人暮らしぃ?」
夏の暑さとは関係ない感じの汗が、僕の背中を流れていった。
ウチには父さんなんて最初からいなかったし、母さんは毎日働きに出てる。だから身の回りのことはある程度はできる僕だけれど、すべてがすべて自分でやれっていうのは、無理に決まってるじゃないか――。
そんな言葉が口から出かかったとき、母さんが右手をひらひらとさせた。
その手は、僕なんかほとんど触ったこともない一万円札を三枚、掴んでいた。
「ここにアタシの全財産、三万円があるわ。これでなんとか生きてちょーだい。周りには助けてくれる大人もいるはずよ……きっと。じゃあ、そういうことだから後はよろしく」
「ちょ、ちょっと母さん! 何を言ってるのか全然分かんないんだけど!!」
しかし母さんは、実の息子の言葉など耳に入らなかった。
三枚のお札をテーブルの上に放り投げると、荷物の詰まった重たそうな旅行鞄を持ってそそくさと玄関から飛び出して行ってしまったのだ。
慌てて追いかけてみる。
すると、黒くてぺったんこな車が一台、玄関前で母さんを待ち構えていた。ここ最近家に来るようになった、母さんと同じ会社で“ドボクサギョウイン”をしている高木とかいう男のものだった。
母さんよりちょっとだけ若い、いつもダボダボなズボンを穿いている金髪ピアス男。
彼の車の助手席に乗り込んだ母さんは、窓ガラスを開けて、これ以上ないような笑顔を僕に向けて叫んだ。
「がんばってね、エス」
「ちーっす!」
別れのあいさつとしては、何ともあっけない言葉だった。
そして僕は――ひとりぼっちになった。
☆
どんなに衝撃的な一日でも夕闇は迫り、そして、必ず朝を迎えるものらしい。
とんでもなく長い夜を眠れずに過ごした僕は、リビングの椅子に腰掛けたままテーブルの上に残された三枚のお札を前に、ただただ、茫然としていた。
そんなときだった。玄関の呼び鈴が鳴ったのは。
――母さんが帰って来た!?
期待に胸を膨らませて、玄関へと走る。
けれどその期待は、すぐに穴の開いた風船のようにしゅるしゅると萎んでしまった。扉を開けた僕の目前に立っていたのが、母さんではなく、お隣の家の皆川のおばさんだったからだ。
家の様子が気になるらしい皆川さんは、奥を覗こうと頻りに背伸びした。
「あら、エス君。お母さん、いらっしゃる?」
「いえ……いません」
「やっぱりそうだったのね……。香織さん、出てっちゃったんでしょ?」
香織というのは僕の母さんの名前だ。
「やっぱりって……どういうこと?」
「だって昨日、゛あの男“の車に乗って出かけたまま帰って来なかったもの」
――このおばさん、暇なのかな。
隣の家をずっと眺めていたと思うとちょっと怖い気もするけど、それならそれで話は早い。飛んで火に入る夏の虫とばかりに、僕は皆川さんに助けを求めた。
「おばさん、助けて! 実は僕、母さんにあとは一人で生きてけって言われたんだ」
「何ですって? とんでもない親ね……。それなら後は、おばさんに任せなさい!」
鼻息も荒く、多分五十歳くらいの皆川さんは靴を脱いで廊下をずかずかと歩き、家の奥へと進んでいった。
身長は百五十センチの僕と同じくらい。
赤い半袖シャツと地味な灰色のスカートを履いた皆川さんは、いわゆる普通のおばさんだ。その頼りがいのある大きな背中を見た僕は、ようやくほっとした心持ちになった。
おばさんの後を追い、リビングへと向かう。
するとおばさんは、まるで僕を待ち兼ねたかのように、普段は母さんが座る椅子にどっかと腰を下ろしていた。家のあちこちに鋭い視線を巡らせ、テーブルの上の三枚のお札を確認した途端に、目を輝かせた。
「エス君、このお金は?」
「母さんが、あとはこれで暮らせって……」
「ふうん……そう」
おばさんは三枚の一万円札から一枚を掴み取ると、「これでアタシが何か買って来るから、それでしばらくしのぎなさい。そうしている間に、香織さんの気が変わって帰ってくるかもしれないから……」と言って、どこかに行ってしまったのだった。
再び訪れた静けさに押し潰されそうになる。
が、現実に戻れば、もしかしたら皆川さんは一万円を持ち逃げしただけなのかも知れないのだ。気持ちが更に深く沈んだ。
だが、おばさんはそんな人ではなかった。
しばらくして、抱えきれないほどの食料品を持って帰って来てくれたのだ。しかも、カレーの材料まで用意して、僕だけなら数日間食べられそうな量のカレーを、鍋一杯に作ってくれもした。
「これで少しの間は暮らせるでしょう。また、様子を見に来るわね」
僕の両サイドの瞳から、涙がこぼれ落ちた。
――母さんには捨てられたけど、世の中、まだまだ捨てたもんじゃない。
いずれ母さんも帰って来る、はずだ。
そう信じることにした僕は、しばらく一人で過ごしてみることに決めたのだった。
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