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13 トレペの妖精
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桜舞う、春。
世間を覆う多種多様な問題を打ち負かすかの如く咲き誇る桜の美しさも、今のエス氏にとっては、何の効き目もなかった。
というのも彼が、朝から非常に大きな問題を抱えていたからである。
その問題とは――我慢しきれなくなった自分が、どこか公共の場で“粗相”をしてしまうかもしれない、ということだった。
自動車部品の販売会社に勤めるサラリーマンのエス氏。
何故か今朝から、酷く腹の調子が悪かった。
中間管理職の課長、そして今年四十二歳になる彼だが、今日はつくづく自分の衰えを感じてしまっていた。これが十年前だったら、少しの間我慢していれば多少の腹痛くらいはいつの間にやら回復し、バリバリと働くことができたはずなのに――と。
ならば仕事は部下に任せ、今日は有休でもとれば良かったんじゃない――?
誰もがそう思うところであろう。
だが都合の悪いことに、今日はどうしてもエス氏自身が席を外せない、大事な客先との打ち合わせがあったのだ。しかも、その客先はわざわざこちらの会社にまで来てくれることになっている。
そうなればもう、根性で出社しなければならないのがサラリーマンという人種である。
まさに文字通り、床に這いつくばるような足取りで出社したエス氏だったが、どうにも仕事に集中できなかったのは言うまでもない。
「あーあ、ホント仕事になんないよ」
客との約束の時間まであと10分、という時刻に彼は地獄の4丁目にいた。
いや、地獄は大げさかもしれない――朝から4度目のトイレにいた。客先との待ち合わせまでの残り時間を考えれば、もうこの辺で身支度をし、個室から出なければならないだろう。
しかし、彼の腹部はそれを許さなかった。
ようやく事が済んだと足に力を入れ便座から立ち上がろうとするたびに、彼を地獄へと突き落とすのだ。
底なし沼のようにすべてを飲み込む便座下の恐ろしい“穴”を内包する、今は清らかな水で満たされた湖《みずうみ》を眺めながら、エス氏はため息をついた。
「はあ……。しかし、こんなに薬が効かないのも初めてだよ。何かに憑りつかれているとしか思えないな。もしかして……トイレの神様とか!? いや、神様は憑りつかないだろうから、きっとトイレの悪魔だ」
でも確かに今は、そうとしか思えないような状況なのだった。
便座に自分の尻を預けながら、仕方なくエス氏は昨日の自分の行動履歴をおさらいしてみた。何かよほど悪いものでも食べたのだろうか……。しかしどう考えてみても、地獄に落ちるほど悪質な食物を食べた記憶など存在しない。
もうこうなったら、やっぱり神か仏か――そのあたりに御すがりするしかないようだ。
「助けて神様、仏様! この私を“下痢地獄”から救い給え!!」
例え誰かがトイレにいても構わない、構うもんかとばかりに、エス氏は声を張り上げた。
通常の精神状態なら、そんなことは絶対にしないだろう。だがその叫びは彼にとっての非常事態宣言と言ってもいいくらいのものであり、それほど事態は切迫していたのである。
と、そのときだ。
男子トイレの中で、騒めきが起こった。
「森田主任! エス課長、ここにいるらしいッス」
――この声は宮本だな。
宮本は、エス氏の課に所属する二年目の男性社員だった。
なかなか見どころのある若者だが、まだ一人前の仕事もできないのに休暇の取得ばかりを主張するのが、玉に瑕な男だった。勿論、労働者たるもの有休を取るのは悪いことではない。そればかりか、最近は権利となりつつある。エス氏だってそれくらいの事はわかってはいる。わかってはいるのだが――なんとなく残念に感じるのだ。
「ここに課長がいるって?」
今度は、森田主任の声がした。
今年三十歳になる彼は、昨年結婚し、今人生ノリノリといった感じの部下だった。仕事もできる。ゆくゆくはこの課を彼に任せたい――。そんな思いを彼に寄せるエス氏が“俺はここだよ”と声をあげようとした、その矢先だった。
「ええ、多分。さっき、神様さまだか仏様だか、訳の分かんないこと叫んでたんで、ちょっと大丈夫かな、とは思うんスけど……」
「そ、そうか……それは心配だな」
お前ら、会話がすべて筒抜けだよー―そんな思いの中、いつの間にか自分が怪しい人間と化していることに気づいて、声をあげられなくなった。
すると、間髪を入れずに主任の声が閉鎖空間にこだました。
「エス課長、ここにいらっしゃるんですか?」
「ああ、ごめん……いるよ。朝からどうにも腹の調子が悪くてな」
「お苦しみのところ申し訳ないのですが、既にだいぶ前からお客様がお待ちです」
「な、何!? もう来社されてたのか……。すまんが、もう少しお待ちくださいとお伝えしてくれ」
「了解です。では、先に私と宮本とで、お相手しておりますから」
「うん、頼む」
壁の乱反射によるエコー掛かった会話が途絶え、静寂が男子トイレを支配した。
――いつまでも、こうしてはいられない。
暫く踏ん張った末に、ここは意地でも“事”を切り上げなければなるまいとトレペに手をやったそのときだった。エス氏は、トレペの残りが3センチ程度しかないことに気づいたのである。予備のトレペも見つからない。
だがそれは自業自得なのだった。
なにせ朝から4回も同じ個室に閉じ籠り、そのたびに大量のトレペを使用したのは、誰あろう、彼自身なのだから。
――よし、この3センチで拭き切るぞ。
そう決意したエス氏の前の景色が、急に曇った。まるで霧でも出たかのようだ。なんだかいい匂いもする。ここはトイレなのに――。
「あたしはトイレットペーパーの妖精、ペトパ。この残り3センチのトレペに宿る、美しき妖精よ――」
個室内にたちこめていた霧が晴れ、出現した光景にエス氏は自分の目を疑った。
今まさに芯からひっぺがそうとしているそのトレペのすぐ上に、体長15センチほどの、リカちゃん人形みたいな小さな女の子が空中に浮いていたのだ。ピンク色のワンピースに金色の髪、爪楊枝くらいの小さなバトンを持っている。残りたった3センチのトレペに宿っている妖精とは思えないほど、可愛らしい笑顔を振りまいていた。
しかし、そんな笑顔に怯んで怖気づくようなエス氏ではない。
「あのう……。ええーっと、すみませんが妖精さん、急ぎここを出たいのでそこをどいていただけませんか?」
「ごめんなさい、ムリ。ここをどいてあなたがこの紙を使えば、あたし、この世から消え去ってしまんだもの。だいたい、あたしをここに呼んだのはあなたでしょ?」
「えっ、呼んでませんけど……」
「でもさっき、神様とか叫んでませんでした?」
「妖精を呼んだ覚えはないよ。神様、仏様って言ったはずだし」
「細かいこと言う、おじさんね……。みんな同じようなものでしょ。あ、それより、あなたにとって重要なお知らせが。あたしは、それをお伝えに来たの」
「なんですか」
「そのウォシュレット、壊れてますよ。っていうかそれ、エスさんが使いすぎたせいだけど」
「な、なんなだってぇ!?」
「ね? 妖精も意外とお役に立つでしょ?」
だとしたら、かなりのピンチだ。
ウォシュレット処理後なら、テクニック次第で3センチでもイケる可能性はある。だが、それなしにシングルロールの3センチで拭き切ることは、まさに神のみに許された所業――神技といえるのではあるまいか。
「君、妖精なんだろ。もう少しこの紙の量を増やしてくれよ」
「絶対、ムリ。だいたい、自分の数や量を増やす神様とかいないでしょ」
「確かにいないけどさ……。じゃあ、俺はどうしたらいい?」
妖精は、バトンを胸に抱きかかえると、小さな右手をその顎に当てて首を傾げた。何やら、思案中の様子。
「“手”――ね。それで拭くしかないわ」
「て? て、って、この手のこと?」
エス氏は便座に坐したまま、両手のひらを妖精の前に差し出した。
「そうよ、その手よ。当たり前じゃない。あたしの手をあなたに貸すとでも?」
「いや、そういう訳じゃないけど……。でも、やだなあ……」
一瞬、熱を帯びたエス氏の視線が、残り3センチの紙へと注がれた。その目は、どう見ても残り僅かのトレペを使用したい、と言っている。
すぐに臨戦態勢に入った、妖精。
バトンを構えると、エス氏にそれを突き付けたのだ。
「絶対に、だめだからね。この紙は使わせない!」
「……」
念のためにウォシュレットのスイッチを押してみたエス氏だったが、妖精の言う通り、果たしてウォシュレットは動かなかった。伸びてくるはずの散水用ノーズも伸びず、水も出てこない。ただ電動モーターが空回りしているような音だけが、個室に響いていた。
「わ、分かったよ」
それは、エス氏が遂に心を決めた瞬間だった。
震える右手で一度握りこぶしを作ると、それを手刀の形に変え、天に向かって突き上げた。
「はあぁああぁ!!」
トイレにこだまする、エス氏の雄たけび。
ほか数人のトイレにいた男たちが恐れをなし、声も無くそこから逃げて行く。エス氏の洗い呼吸音だけが、閉鎖空間に残った。
「お、俺は遂にやったぞ。これで君も満足かぁ!」
目を血走らせたエス氏が、その手を妖精の目前に突き出した。
トレペの妖精でありながら“それ”を忌み嫌うようにエス氏の汚れた手をひょいと避けた妖精が、怒りのあまり顔を真っ赤にする。
「ちょっとぉ、そんな手をあたしに近づけるなんて……! あんたなんかこうしてやる!」
トレペの妖精が、バトンを勢い良く上下に振った。
現れたのは、再びの白い霧。
もわもわとした霧が晴れると、そこには妖精の姿もなければ、少しだけ残ったトレペも芯ごとそこから消え去っていた。
『フン……トイレの水が流れないようにしてやったわ。あたしに汚い手を向けた報いを受けるがいい!』
トイレの天井から降り注いだ、妖精の尖った声。
それは見えない刃となって、エス氏の心を無残にも突き破った。
――どうしたらいいんだ。
残った左手で「水洗」のレバーを押してみる。だが案の定、うんともすんともいわなかった。困り果てたエス氏がただただ項垂れてしまっていた、そのときだ。
エス氏の牙城――トイレ個室の扉を、こんこんと叩く者がいた。
「入ってまぁす――」
「エス課長……。お客様、待ち切れずにお帰りになってしまいましたよ。できるだけ、お引き留めはしたのですが――」
「そうか、すまなかったな。でも、まだ腹の調子が悪くて……。申し訳ないけど、しばらく俺の事は放っておいてくれないか」
「……わかりました。では、失礼します」
やや呆れ気味に声を発した森田主任が、トイレから去っていった。
――このまま、俺もトイレに流されてしまいたい。
だが水も流せず、手も尻も拭けず。
足元に降ろされたスラックスも引き上げられず、座ったままの姿勢で途方に暮れるばかりのエス氏なのだった。
世間を覆う多種多様な問題を打ち負かすかの如く咲き誇る桜の美しさも、今のエス氏にとっては、何の効き目もなかった。
というのも彼が、朝から非常に大きな問題を抱えていたからである。
その問題とは――我慢しきれなくなった自分が、どこか公共の場で“粗相”をしてしまうかもしれない、ということだった。
自動車部品の販売会社に勤めるサラリーマンのエス氏。
何故か今朝から、酷く腹の調子が悪かった。
中間管理職の課長、そして今年四十二歳になる彼だが、今日はつくづく自分の衰えを感じてしまっていた。これが十年前だったら、少しの間我慢していれば多少の腹痛くらいはいつの間にやら回復し、バリバリと働くことができたはずなのに――と。
ならば仕事は部下に任せ、今日は有休でもとれば良かったんじゃない――?
誰もがそう思うところであろう。
だが都合の悪いことに、今日はどうしてもエス氏自身が席を外せない、大事な客先との打ち合わせがあったのだ。しかも、その客先はわざわざこちらの会社にまで来てくれることになっている。
そうなればもう、根性で出社しなければならないのがサラリーマンという人種である。
まさに文字通り、床に這いつくばるような足取りで出社したエス氏だったが、どうにも仕事に集中できなかったのは言うまでもない。
「あーあ、ホント仕事になんないよ」
客との約束の時間まであと10分、という時刻に彼は地獄の4丁目にいた。
いや、地獄は大げさかもしれない――朝から4度目のトイレにいた。客先との待ち合わせまでの残り時間を考えれば、もうこの辺で身支度をし、個室から出なければならないだろう。
しかし、彼の腹部はそれを許さなかった。
ようやく事が済んだと足に力を入れ便座から立ち上がろうとするたびに、彼を地獄へと突き落とすのだ。
底なし沼のようにすべてを飲み込む便座下の恐ろしい“穴”を内包する、今は清らかな水で満たされた湖《みずうみ》を眺めながら、エス氏はため息をついた。
「はあ……。しかし、こんなに薬が効かないのも初めてだよ。何かに憑りつかれているとしか思えないな。もしかして……トイレの神様とか!? いや、神様は憑りつかないだろうから、きっとトイレの悪魔だ」
でも確かに今は、そうとしか思えないような状況なのだった。
便座に自分の尻を預けながら、仕方なくエス氏は昨日の自分の行動履歴をおさらいしてみた。何かよほど悪いものでも食べたのだろうか……。しかしどう考えてみても、地獄に落ちるほど悪質な食物を食べた記憶など存在しない。
もうこうなったら、やっぱり神か仏か――そのあたりに御すがりするしかないようだ。
「助けて神様、仏様! この私を“下痢地獄”から救い給え!!」
例え誰かがトイレにいても構わない、構うもんかとばかりに、エス氏は声を張り上げた。
通常の精神状態なら、そんなことは絶対にしないだろう。だがその叫びは彼にとっての非常事態宣言と言ってもいいくらいのものであり、それほど事態は切迫していたのである。
と、そのときだ。
男子トイレの中で、騒めきが起こった。
「森田主任! エス課長、ここにいるらしいッス」
――この声は宮本だな。
宮本は、エス氏の課に所属する二年目の男性社員だった。
なかなか見どころのある若者だが、まだ一人前の仕事もできないのに休暇の取得ばかりを主張するのが、玉に瑕な男だった。勿論、労働者たるもの有休を取るのは悪いことではない。そればかりか、最近は権利となりつつある。エス氏だってそれくらいの事はわかってはいる。わかってはいるのだが――なんとなく残念に感じるのだ。
「ここに課長がいるって?」
今度は、森田主任の声がした。
今年三十歳になる彼は、昨年結婚し、今人生ノリノリといった感じの部下だった。仕事もできる。ゆくゆくはこの課を彼に任せたい――。そんな思いを彼に寄せるエス氏が“俺はここだよ”と声をあげようとした、その矢先だった。
「ええ、多分。さっき、神様さまだか仏様だか、訳の分かんないこと叫んでたんで、ちょっと大丈夫かな、とは思うんスけど……」
「そ、そうか……それは心配だな」
お前ら、会話がすべて筒抜けだよー―そんな思いの中、いつの間にか自分が怪しい人間と化していることに気づいて、声をあげられなくなった。
すると、間髪を入れずに主任の声が閉鎖空間にこだました。
「エス課長、ここにいらっしゃるんですか?」
「ああ、ごめん……いるよ。朝からどうにも腹の調子が悪くてな」
「お苦しみのところ申し訳ないのですが、既にだいぶ前からお客様がお待ちです」
「な、何!? もう来社されてたのか……。すまんが、もう少しお待ちくださいとお伝えしてくれ」
「了解です。では、先に私と宮本とで、お相手しておりますから」
「うん、頼む」
壁の乱反射によるエコー掛かった会話が途絶え、静寂が男子トイレを支配した。
――いつまでも、こうしてはいられない。
暫く踏ん張った末に、ここは意地でも“事”を切り上げなければなるまいとトレペに手をやったそのときだった。エス氏は、トレペの残りが3センチ程度しかないことに気づいたのである。予備のトレペも見つからない。
だがそれは自業自得なのだった。
なにせ朝から4回も同じ個室に閉じ籠り、そのたびに大量のトレペを使用したのは、誰あろう、彼自身なのだから。
――よし、この3センチで拭き切るぞ。
そう決意したエス氏の前の景色が、急に曇った。まるで霧でも出たかのようだ。なんだかいい匂いもする。ここはトイレなのに――。
「あたしはトイレットペーパーの妖精、ペトパ。この残り3センチのトレペに宿る、美しき妖精よ――」
個室内にたちこめていた霧が晴れ、出現した光景にエス氏は自分の目を疑った。
今まさに芯からひっぺがそうとしているそのトレペのすぐ上に、体長15センチほどの、リカちゃん人形みたいな小さな女の子が空中に浮いていたのだ。ピンク色のワンピースに金色の髪、爪楊枝くらいの小さなバトンを持っている。残りたった3センチのトレペに宿っている妖精とは思えないほど、可愛らしい笑顔を振りまいていた。
しかし、そんな笑顔に怯んで怖気づくようなエス氏ではない。
「あのう……。ええーっと、すみませんが妖精さん、急ぎここを出たいのでそこをどいていただけませんか?」
「ごめんなさい、ムリ。ここをどいてあなたがこの紙を使えば、あたし、この世から消え去ってしまんだもの。だいたい、あたしをここに呼んだのはあなたでしょ?」
「えっ、呼んでませんけど……」
「でもさっき、神様とか叫んでませんでした?」
「妖精を呼んだ覚えはないよ。神様、仏様って言ったはずだし」
「細かいこと言う、おじさんね……。みんな同じようなものでしょ。あ、それより、あなたにとって重要なお知らせが。あたしは、それをお伝えに来たの」
「なんですか」
「そのウォシュレット、壊れてますよ。っていうかそれ、エスさんが使いすぎたせいだけど」
「な、なんなだってぇ!?」
「ね? 妖精も意外とお役に立つでしょ?」
だとしたら、かなりのピンチだ。
ウォシュレット処理後なら、テクニック次第で3センチでもイケる可能性はある。だが、それなしにシングルロールの3センチで拭き切ることは、まさに神のみに許された所業――神技といえるのではあるまいか。
「君、妖精なんだろ。もう少しこの紙の量を増やしてくれよ」
「絶対、ムリ。だいたい、自分の数や量を増やす神様とかいないでしょ」
「確かにいないけどさ……。じゃあ、俺はどうしたらいい?」
妖精は、バトンを胸に抱きかかえると、小さな右手をその顎に当てて首を傾げた。何やら、思案中の様子。
「“手”――ね。それで拭くしかないわ」
「て? て、って、この手のこと?」
エス氏は便座に坐したまま、両手のひらを妖精の前に差し出した。
「そうよ、その手よ。当たり前じゃない。あたしの手をあなたに貸すとでも?」
「いや、そういう訳じゃないけど……。でも、やだなあ……」
一瞬、熱を帯びたエス氏の視線が、残り3センチの紙へと注がれた。その目は、どう見ても残り僅かのトレペを使用したい、と言っている。
すぐに臨戦態勢に入った、妖精。
バトンを構えると、エス氏にそれを突き付けたのだ。
「絶対に、だめだからね。この紙は使わせない!」
「……」
念のためにウォシュレットのスイッチを押してみたエス氏だったが、妖精の言う通り、果たしてウォシュレットは動かなかった。伸びてくるはずの散水用ノーズも伸びず、水も出てこない。ただ電動モーターが空回りしているような音だけが、個室に響いていた。
「わ、分かったよ」
それは、エス氏が遂に心を決めた瞬間だった。
震える右手で一度握りこぶしを作ると、それを手刀の形に変え、天に向かって突き上げた。
「はあぁああぁ!!」
トイレにこだまする、エス氏の雄たけび。
ほか数人のトイレにいた男たちが恐れをなし、声も無くそこから逃げて行く。エス氏の洗い呼吸音だけが、閉鎖空間に残った。
「お、俺は遂にやったぞ。これで君も満足かぁ!」
目を血走らせたエス氏が、その手を妖精の目前に突き出した。
トレペの妖精でありながら“それ”を忌み嫌うようにエス氏の汚れた手をひょいと避けた妖精が、怒りのあまり顔を真っ赤にする。
「ちょっとぉ、そんな手をあたしに近づけるなんて……! あんたなんかこうしてやる!」
トレペの妖精が、バトンを勢い良く上下に振った。
現れたのは、再びの白い霧。
もわもわとした霧が晴れると、そこには妖精の姿もなければ、少しだけ残ったトレペも芯ごとそこから消え去っていた。
『フン……トイレの水が流れないようにしてやったわ。あたしに汚い手を向けた報いを受けるがいい!』
トイレの天井から降り注いだ、妖精の尖った声。
それは見えない刃となって、エス氏の心を無残にも突き破った。
――どうしたらいいんだ。
残った左手で「水洗」のレバーを押してみる。だが案の定、うんともすんともいわなかった。困り果てたエス氏がただただ項垂れてしまっていた、そのときだ。
エス氏の牙城――トイレ個室の扉を、こんこんと叩く者がいた。
「入ってまぁす――」
「エス課長……。お客様、待ち切れずにお帰りになってしまいましたよ。できるだけ、お引き留めはしたのですが――」
「そうか、すまなかったな。でも、まだ腹の調子が悪くて……。申し訳ないけど、しばらく俺の事は放っておいてくれないか」
「……わかりました。では、失礼します」
やや呆れ気味に声を発した森田主任が、トイレから去っていった。
――このまま、俺もトイレに流されてしまいたい。
だが水も流せず、手も尻も拭けず。
足元に降ろされたスラックスも引き上げられず、座ったままの姿勢で途方に暮れるばかりのエス氏なのだった。
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