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10 インターホンは答える(後編)
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そんなツイてない一日も終わり、エス氏は翌朝を迎えた。
二日酔いでズキズキと痛む頭を抱えながら、なんとか出社のための身支度を終える。今日は金曜日、なんとか今日一日をやり過ごせば、明日は休みなのだ。ゆっくりと思う存分、寝ることができる。
ぐっすりと昼までベッドで過ごすイメージを頭の中で膨らましたエス氏が玄関へと向かうと、背後で「にゃあ」という声がした。
振り向けば、クンネがてくてくとこちらに近づいて来ていた。
その目は、何か訴えかけているかのように寂しげだった。毎朝恒例のお見送りであるし、こんな雰囲気には慣れているはずのエス氏なのだが、昨晩の事もあって、今日ばかりは猫を家にとり残すことに切なさを感じてしまう。
「すまんな、クンネ……。でも、今日は早く帰って来るからさ、許して」
にゃあ。
玄関マットの上で鳴いたクンネに、エス氏が笑顔を向ける。
後ろ髪を引かれつつ玄関の扉を閉め、勇気を振り絞って鍵を掛けた。
その夜。約束通り、エス氏はいつもより早めに帰宅した。
とはいっても、夜の八時だ。クンネはきっと待ちくたびれていることだろう。
「ごめん、クンネ! 今、ご飯あげるからちょっと待っててね――」
玄関の鍵を開けようとした、その瞬間――エス氏は、不意に昨晩のことが気になった。
表から見た感じ、自宅には何の異常もない。
勿論、窓の明かりなど点いていない。
「やっぱり昨日は、俺がどうかしてたと思うんだ。家の中に誰かがいるなんてこと、あるはずないし……。でも押してみたら、また誰かが出てきたりして」
いたずらっ子のような目つきをして、エス氏がインターホンのボタンを再び押した。
ピンポーン。
待つこと、数秒。何の返事もない。
――そりゃそうだよな、うん。
自分を納得させるように大きく頷いたエス氏が玄関扉の鍵穴に手持ちの鍵を差し込んだ、そのときだった。まさかの声が、インターホンから響いたのだ。
『はい?』
忘れもしない、昨日と同じ男の声だった。
まるでバジリスクに睨まれたかのように、体が強張って動かない。
――まさか本当に、家の中に誰かがいる?
そう思った瞬間、エス氏の体の呪縛が解けた。
髪の毛をがさがさと掻きむしり、インターホンに向かって詰問する。
「お前……昨日もいた奴だな。昨日は酔っ払っていてよく分かんなかったけど、やっぱりいたんだ!」
『はあ? 何を云ってるのか、よく分かんないんですけど』
「はあ? そっちこそ、よく分からんぞ。……とにかく、今からそっちに行くから覚悟しろよ。場合によっては警察に突き出してやる!」
『ホント、訳が分かりませんね。こっちこそ、警察呼びますよ』
「な、なんだとお!?」
――もう我慢ならぬ。
激しく音を立てて玄関ドアを開けると、鼻息も荒く、得体のしれない自宅内部へと猛然とダッシュする。
「コノヤロウ、俺の家に勝手に入り込んでいるのは誰だ!」
しかし、エス氏の威勢が良かったのはそこまでだった。
口をあんぐりと開けたまま、体を硬直させるエス氏。この日二回目の、硬直だった。
それも、そのはず――。
なにせ今、エス氏の目前にエス氏そっくりな人物が――いや、同一人物といっていいほど似通った人物が――リビングの中央に立ってこちらを見据えているのだから!
「何なんですか、アンタ……。ウチに勝手に入って来て騒ぎ立てるとは」
エス氏の目の前のエス氏は、そう云った。
ただ、普段のエス氏と少し違うのは、身に着けている服装だった。全体的に暗い色のシャツとパンツを身に纏っている。
暫し、二人のエス氏は睨み合った。
と、帰宅したエス氏が気付いた。クンネの姿が見えないことを。
「あれ、クンネがいないぞ……。お前、クンネをどこにやった?」
「クンネ……? ああ、猫のぬいぐるみのことか。そこにあるよ」
黒っぽい服装のエス氏が指差した先――そこはリビングの中の白いソファーだった。見れば、いつもクンネが好んで寝そべっている場所に、黒猫のぬいぐるみが仰向けに転がっている。
「お前……もしかしてクンネを……」
「俺は何もしてない。っていうか、ここは俺の家だ。お前こそ、さっきからふざけたことばかり云いやがって!」
二人は、取っ組み合いになった。
同じ背丈に同じ体重、同じ手の長さ――二人の喧嘩に優劣はつけがたい。
やがて二人はボクシングのクロスカウンターのように同時に頬を殴り合って、同時に気を失った。
☆
あれからどのくらいの時間が経ったのだろう。
そんな疑問を抱えつつ、酷く痛む側頭部を右手で押さえながらエス氏はリビングの床の上で目を覚ました。
窓のカーテンの隙間から朝陽が漏れている。
一晩を固い床の上で過ごしてしまったようだ。
――あれは、ただの夢だったのか? ならば、この頬の痛みは何だろう……。
そのときエス氏の横に黒猫のクンネが姿を現し、「にゃあ」と鳴いた。
ちょっと不思議そうな表情で、足に擦り寄るクンネの頭をゆっくりと撫でるエス氏に対し、クンネが甘えた声を出す。
どうやら、ご飯をねだっているようだ。
「……お腹が空いたんだね。今、ご飯をあげるよ」
台所へと移動し、戸棚からキャットフードの入った袋を取り出した、エス氏。そこから一食分のドライフードを器に移し、床に置く。
それを見て、一瞬がっかりとした顔を見せたクンネ。
けれど、背に腹は変えられるぬとばかりに勢いよく首を器に突っ込むと、美味しそうに咽喉を鳴らして食べた。
「美味しかったかい?」
白いヒゲを揺らしながら満足げな声で鳴くことで、クンネはエス氏の質問に答えた。
☆
数時間後、エス氏は会社にいた。
事務机で仕事をするエス氏に、同僚の事務職の女性が近づいてゆく。途端、彼女は驚いたように目を見開いた。
「まあ、エスさん! 顔に酷い痣がありますけど大丈夫ですか?」
「ああ、これか……。うん、ちょっとひりひりするけど大丈夫」
「なにかあったんですか?」
「いや……ちょっとね」
「とにかく、お大事にしてくださいね」
「ありがとう」
――まあ、この程度の傷、舐めとけば治るよ。
彼女が去るとすぐに、エス氏は右手でグーを作った。そして、それを舌でべろりと舐めると、その拳で頬をぐるぐると撫で回した。
そんな行動をエス氏がしたことを、気付いた社員は誰もいない。
一方、その頃のエス氏の自宅。
そこでは、黒猫のクンネが出窓の内側から外の景色を憂いのある瞳で眺めていた。
「にゃあ……」
窓ガラスに遮られ、誰にも届かないその声は切なく悲しげだった。
前足の爪をむき出しにしたクンネは、その足でふさふさした頭の毛をがさがさと掻きむしったのだった。
二日酔いでズキズキと痛む頭を抱えながら、なんとか出社のための身支度を終える。今日は金曜日、なんとか今日一日をやり過ごせば、明日は休みなのだ。ゆっくりと思う存分、寝ることができる。
ぐっすりと昼までベッドで過ごすイメージを頭の中で膨らましたエス氏が玄関へと向かうと、背後で「にゃあ」という声がした。
振り向けば、クンネがてくてくとこちらに近づいて来ていた。
その目は、何か訴えかけているかのように寂しげだった。毎朝恒例のお見送りであるし、こんな雰囲気には慣れているはずのエス氏なのだが、昨晩の事もあって、今日ばかりは猫を家にとり残すことに切なさを感じてしまう。
「すまんな、クンネ……。でも、今日は早く帰って来るからさ、許して」
にゃあ。
玄関マットの上で鳴いたクンネに、エス氏が笑顔を向ける。
後ろ髪を引かれつつ玄関の扉を閉め、勇気を振り絞って鍵を掛けた。
その夜。約束通り、エス氏はいつもより早めに帰宅した。
とはいっても、夜の八時だ。クンネはきっと待ちくたびれていることだろう。
「ごめん、クンネ! 今、ご飯あげるからちょっと待っててね――」
玄関の鍵を開けようとした、その瞬間――エス氏は、不意に昨晩のことが気になった。
表から見た感じ、自宅には何の異常もない。
勿論、窓の明かりなど点いていない。
「やっぱり昨日は、俺がどうかしてたと思うんだ。家の中に誰かがいるなんてこと、あるはずないし……。でも押してみたら、また誰かが出てきたりして」
いたずらっ子のような目つきをして、エス氏がインターホンのボタンを再び押した。
ピンポーン。
待つこと、数秒。何の返事もない。
――そりゃそうだよな、うん。
自分を納得させるように大きく頷いたエス氏が玄関扉の鍵穴に手持ちの鍵を差し込んだ、そのときだった。まさかの声が、インターホンから響いたのだ。
『はい?』
忘れもしない、昨日と同じ男の声だった。
まるでバジリスクに睨まれたかのように、体が強張って動かない。
――まさか本当に、家の中に誰かがいる?
そう思った瞬間、エス氏の体の呪縛が解けた。
髪の毛をがさがさと掻きむしり、インターホンに向かって詰問する。
「お前……昨日もいた奴だな。昨日は酔っ払っていてよく分かんなかったけど、やっぱりいたんだ!」
『はあ? 何を云ってるのか、よく分かんないんですけど』
「はあ? そっちこそ、よく分からんぞ。……とにかく、今からそっちに行くから覚悟しろよ。場合によっては警察に突き出してやる!」
『ホント、訳が分かりませんね。こっちこそ、警察呼びますよ』
「な、なんだとお!?」
――もう我慢ならぬ。
激しく音を立てて玄関ドアを開けると、鼻息も荒く、得体のしれない自宅内部へと猛然とダッシュする。
「コノヤロウ、俺の家に勝手に入り込んでいるのは誰だ!」
しかし、エス氏の威勢が良かったのはそこまでだった。
口をあんぐりと開けたまま、体を硬直させるエス氏。この日二回目の、硬直だった。
それも、そのはず――。
なにせ今、エス氏の目前にエス氏そっくりな人物が――いや、同一人物といっていいほど似通った人物が――リビングの中央に立ってこちらを見据えているのだから!
「何なんですか、アンタ……。ウチに勝手に入って来て騒ぎ立てるとは」
エス氏の目の前のエス氏は、そう云った。
ただ、普段のエス氏と少し違うのは、身に着けている服装だった。全体的に暗い色のシャツとパンツを身に纏っている。
暫し、二人のエス氏は睨み合った。
と、帰宅したエス氏が気付いた。クンネの姿が見えないことを。
「あれ、クンネがいないぞ……。お前、クンネをどこにやった?」
「クンネ……? ああ、猫のぬいぐるみのことか。そこにあるよ」
黒っぽい服装のエス氏が指差した先――そこはリビングの中の白いソファーだった。見れば、いつもクンネが好んで寝そべっている場所に、黒猫のぬいぐるみが仰向けに転がっている。
「お前……もしかしてクンネを……」
「俺は何もしてない。っていうか、ここは俺の家だ。お前こそ、さっきからふざけたことばかり云いやがって!」
二人は、取っ組み合いになった。
同じ背丈に同じ体重、同じ手の長さ――二人の喧嘩に優劣はつけがたい。
やがて二人はボクシングのクロスカウンターのように同時に頬を殴り合って、同時に気を失った。
☆
あれからどのくらいの時間が経ったのだろう。
そんな疑問を抱えつつ、酷く痛む側頭部を右手で押さえながらエス氏はリビングの床の上で目を覚ました。
窓のカーテンの隙間から朝陽が漏れている。
一晩を固い床の上で過ごしてしまったようだ。
――あれは、ただの夢だったのか? ならば、この頬の痛みは何だろう……。
そのときエス氏の横に黒猫のクンネが姿を現し、「にゃあ」と鳴いた。
ちょっと不思議そうな表情で、足に擦り寄るクンネの頭をゆっくりと撫でるエス氏に対し、クンネが甘えた声を出す。
どうやら、ご飯をねだっているようだ。
「……お腹が空いたんだね。今、ご飯をあげるよ」
台所へと移動し、戸棚からキャットフードの入った袋を取り出した、エス氏。そこから一食分のドライフードを器に移し、床に置く。
それを見て、一瞬がっかりとした顔を見せたクンネ。
けれど、背に腹は変えられるぬとばかりに勢いよく首を器に突っ込むと、美味しそうに咽喉を鳴らして食べた。
「美味しかったかい?」
白いヒゲを揺らしながら満足げな声で鳴くことで、クンネはエス氏の質問に答えた。
☆
数時間後、エス氏は会社にいた。
事務机で仕事をするエス氏に、同僚の事務職の女性が近づいてゆく。途端、彼女は驚いたように目を見開いた。
「まあ、エスさん! 顔に酷い痣がありますけど大丈夫ですか?」
「ああ、これか……。うん、ちょっとひりひりするけど大丈夫」
「なにかあったんですか?」
「いや……ちょっとね」
「とにかく、お大事にしてくださいね」
「ありがとう」
――まあ、この程度の傷、舐めとけば治るよ。
彼女が去るとすぐに、エス氏は右手でグーを作った。そして、それを舌でべろりと舐めると、その拳で頬をぐるぐると撫で回した。
そんな行動をエス氏がしたことを、気付いた社員は誰もいない。
一方、その頃のエス氏の自宅。
そこでは、黒猫のクンネが出窓の内側から外の景色を憂いのある瞳で眺めていた。
「にゃあ……」
窓ガラスに遮られ、誰にも届かないその声は切なく悲しげだった。
前足の爪をむき出しにしたクンネは、その足でふさふさした頭の毛をがさがさと掻きむしったのだった。
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