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7 パスタかスパゲッティ―か、それが問題だ
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今年40歳を迎えるサラリーマンのエス氏は、昼間の過酷な仕事と更に辛い残業を終え、帰宅の途上にあった。
都会の職場から、電車で1時間と少し。
電車の窓を覗けば、出発時にはあれほどビルの照明で眩しかった景色が今では背の低い街並みとなっており、そこから発する明かりも疎らだった。
だが、エス氏の自宅はここからまだ三駅ほど先にある。
昨年建てたばかりの、真四角の形をした小さなマイホームだった。
――今日の夜九時からのドラマ、あいつ、録画してくれたかな。
ふとそんなことが気になったエス氏が、胸ポケットから取り出したスマホの画面を見遣る。今日の昼休み、専業主婦で彼の妻である里佐子にそういったお願いのLINEをしておいたのだ。毎回楽しみに見ているドラマだが、今日は残業になる予定だったことを失念し、ついつい出勤前の予約を忘れてしまったのだ。
そんなに好きなドラマなら「毎回予約」モードにして毎週自動的に録画するように設定しておけばいいのに、エス氏はそれをしなかった。何となく、ハードディスクに未チェックの番組がごちゃごちゃと溜まっていくのが好きではなかったからだ。
どっちにしろ、妻とのLINEには未だ妻の既読はついておらず、当然ながらエス氏に対する返事も無い。番組が録画されている可能性は低かった。
「……あ、そう。まあ、一回ぐらい見逃したって大したことないわな」
腕時計は既に夜の九時半を回っていた。帰宅した頃には、とっくにドラマは終わっていることが容易に推測できる。
はああ……。
思わず、彼の渇いた唇から深い溜息が漏れた。
それから約二十分後、ドラマ放送が終了した丁度その頃だった。
ようやく最寄り駅に到着したエス氏は、まるでトンネルのように暗い夜道を掻き分けて、歩いて八分ほどの自宅に向かって歩みを始めていたのである。
★
「ただいま」
玄関の扉を開け、靴をスリッパに履き替える。
廊下を抜けてリビングにたどり着くと、そこにはソファーの上に寝そべったエス氏の妻の姿があった。
――結婚して10年。
エス氏より2歳年下の彼女は、そんな運動不足の生活がたたって人生二度目の「成長期」を迎えていた。もちろん横方向に、である。
だがエス氏にとって、そんな程度の容姿の変化で彼女への愛が変化することはなかった。
家事だってそれなりにこなしているし、毎日の会話もそれなりにある。彼女が行う贅沢といえば、学生時代の友達とやや高級なランチをたまにするぐらいなものだ。だがそんなプチ贅沢も、一日中家にいることの鬱憤を晴らすための事だと考えれば大したこととも思えない。そんな訳で、エス氏は彼女に対して不満を特には感じていなかった。
ただ一点を除いては――。
「ん? 帰ってたの」
視線をテレビに向けたまま、里佐子がエス氏に出迎えの言葉を発する。
見れば、里佐子の大好きな番組――お笑いタレントたちがそれぞれの経験したバカ話を云い合うバラエティ――が、テレビ画面に映し出されていた。里佐子が画面に夢中になるのも無理はない。
「ああ、今帰った」
「お疲れさまぁ。晩御飯、テーブルの上に乗ってるからチンして食べてね」
「うん……わかった」
エス氏が、ネクタイを解きながらダイニングテーブルに近づく。
そこには既に冷えてはいるものの、彼の大好きな回鍋肉がてんこ盛りとなって乗った皿が、上から透明なラップを掛けられて置かれていた。
(こういうところが、憎めないんだよな)
寝室で灰色のスウェットという部屋着に着替えたエス氏。
レンジで温めた回鍋肉とキンキンに冷えたビールをせっせと口に運びながら、まるで板に貼り付いたかまぼこのようにソファーで横になってテレビに釘付け状態の妻に対し、声を掛けた。
「あのさあ、昼にLINEしたんだけど見てくれた? 夜九時のドラマを録画して欲しいっていう用件だったんだけど」
「え、LINE?」
里佐子が慌ててスマホを取り出して確認する。
「ああ、そっかあ……。今日の昼、ちょっとした場所で友達とイタリアンのランチしてたのよ。だから、あなたからのLINEに気付けなかったみたい。ごめんなさい」
「……ふうん、そうだったのか」
その悪気の無い無邪気な表情の彼女に対し、エス氏はそれ以上何も云えなかった。まあ、一回ぐらいのドラマの見逃しなど大したことは無い。だがそれとは違って、今の彼女の発言にはどうしても聞き流せない事柄がひとつだけあった。
それこそがまさに、エス氏が里佐子に対して長年抱えてきた唯一の不満。
そして、これこそがまさに彼にとってのパンドラの箱となる訳だが――。
ついに彼は、意を決してその言葉を口に出した。
「で、そのイタリアンってさあ、もしかしてスパゲッティがメインの料理?」
「違うわ、パスタよ。鮭とアスパラのクリームパスタ」
「え? でもイタリアの細長い麺料理なんだろ? それってスパゲッティのことじゃん……。あのさ、前々から云おうと思ってたんだけど、日本では昔からそういうのをスパゲッティって云うんだよ。そんな気取ってパスタなんて云うのやめてくれないか?」
「何よその、『気取ってる』って……。店がパスタっていってるんだからパスタでいいじゃない」
「いやだ。そのしゃれた響き、好きじゃない。少なくとも俺の前ではスパゲッティと云ってくれ」
「はあ? 何云ってるのよ、パスタの何たるかも分かってないくせに!」
普段は何事にもおおらかで、エス氏と口論なんてしたことのない妻の里佐子だったが、何故かこの話題だけは違っていた。彼女にとっても、余程『パスタ』という言葉には思い入れがあるのだろう。
これまたいつもは温厚なエス氏も、ついついその言葉に棘が生えてしまう。
「分かってないとはどういうことだ!」
「だ・か・ら、パスタとスパゲッティの意味の違いよ。じゃあ、教えてあげるわ。パスタは、小麦粉を練って作るイタリアの麺類の総称。だから、スパゲッティはパスタの一種なの。因みに、スパゲッティは直径2mm程度の細長い麺のことを指すわ」
「ほう……。じゃあ、お前の食べたものはめっちゃ細かったか、滅茶苦茶太かったか、そんな麺だったのか?」
「……いえ、普通の太さよ」
「ほら見ろ! ということは、やっぱりお前が食ったのはスパゲッティだろ」
「面倒くさいなあ……だから、パスタは総称なんですって」
「うるさい! とにかく、俺の前ではパスタなんていう云い方はやめろ!」
「何よ、この分からず屋! アンタがこんなに強情な人だったなんて、知らなかったわ」
「こっちこそ、お前なんかと結婚するんじゃんかったぜ!」
その言葉を聞いた里佐子の表情が一変する。
がくりと肩を落とし、沈んだ表情でじっとフローリングの床を見つめる。
「……あなた、本気で云ってるの?」
「ああ、本気だ」
「そう……」
口から一旦出た言葉は、二度と元には戻らない。
エス氏は少し後悔はしたものの、スパゲッティの云い方については結婚以来ずっと心に秘めていただけに、簡単には引き下がれなかった。
その晩から、二人は別の部屋で寝ることになった。
会話もなく、家庭内別居の状態がそれから1ケ月間続いたのである。
★
その日、残業の無かったエス氏が会社から早めに戻ると、里佐子が珍しく彼を出迎えた。だが、食事の用意はない。
その代わり、テーブルの上には緑色の文字が印刷された『離婚届』が置かれていた。もちろんそこには、既に里佐子のサインと印鑑がある。
「あなた……別れましょう。それが、私がこの1ヶ月間考えた結果です」
「ちょ、ちょっと待って。確かに、ここ1ヶ月は会話がなかった。でも、それはいつもの喧嘩の延長みたいなものさ。もう一度じっくり話せばわかる」
「いえ、私はもう決めたのよ」
宥めても透かしても云うことを聞かない、里佐子。
渋々、エス氏は離婚届に判を押し、署名した。
「今からでも遅くはない。話せばわかるんじゃないか?」
「いえ、もう遅いの」
エス氏は、ここにきてやっと、自分のしでかしたことの大きさを痛感した。心に湧き上がる、後悔。この1ヶ月間、その関係修復に何も尽力しなかった自分に怒りを感じるほどだった。
「なあ、里佐子……。やっぱり俺たち――」
「最後に、一緒に晩御飯でも食べましょうか」
エス氏の言葉を遮るように、里佐子が柔和な笑顔を浮かべて提案した。
まるで、天使のよう。久しぶりに見る朗らかな彼女の笑顔に、流石のエス氏も頷く以外にはなかった。彼女の提案を受け入れたのだ。
もしかしたら、この離婚届も無かったことにできるかも――。
エス氏が、淡い期待を抱く。
「じゃあ、『パスタ』でも茹でるね」
「え、パスタだって? ああ、うん……」
里佐子が、キッチンに立つ。
最近見られなくなってしまった、二人が仲違いになる前には彼女がよく身に着けていた淡いピンク色のエプロンをエス氏は久しぶりに見た。
――もしかして今の言葉、俺を試したのかな?
エス氏は、危く吐き出しそうになった「それはスパゲッティだろ」という言葉を喉の奥で止めた自分を、自分で褒めたくなった。
そうして、彼女が作った「パスタ」が食卓に出される。
だが、皿に盛られたのは山盛りの白い麺だけだった。ミートソースやクリームソースなど、味付け材料が見当たらない。
――???
疑問を口に出そうとするも、里佐子は平然とした表情でエス氏を見遣る。
そして、氷のように冷たい瞳でこう云い放った。
「あなた。はーい、アーンして」
「ん? あ、ありがとう」
表情とは打って変わった、優しい言葉。
まるで、新婚当時のようだ。
そして、そんな里佐子に、エス氏は抗うことができなかった。彼女がフォークでくるくると巻いた大量の「パスタ」を、大口を開けて出迎える。
「どう? 美味しい?」
「う、うん……」
「そう、良かった」
本当は味の無い麺に途中から辟易していたエス氏だったが、次々と口に運ばれる「パスタ」を笑顔で迎え続けること以外に、彼にできることは無かった。
「美味しい? 美味しい?」
「あ、ああ」
「美味しいわよね、このパ・ス・タ」
「う、うん……」
皿の上にあった大量の麺が消費されてゆく。
それと反比例するかのようにエス氏の頬が膨れていき、遂にはリスのようにはち切れんばかりの顔になった。
「ありがとう、里佐子。もう、お腹いっぱいだよ」
もごもごと聴き取れない声でそう云ったエス氏に向かって、里佐子は涼しい笑顔で首を振った。
「はあ? まだよ。あんだけコケにされたんですもの。今更、そんな言葉を聞き入れることなんてできなわいわ」
「??」
里佐子は、一度に増々大量のパスタをフォークでぐるぐる巻きにし、エス氏の口の中に無理矢理に放り込んでいった。
そのひたむきな様子が、エス氏の背筋を凍らせた。
「も、もういい。咽に詰まっちゃう」
「そう。それは良かった」
エス氏は抵抗しようとするも、その鬼気迫る雰囲気に恐怖で体が動かない。
そうしている間にも、開いた口に次々と詰め込まれてゆく味の無いパスタ。いや、スパゲッティか――今となっては、どうでもいいことだが。
――い、息ができない。
エス氏の意識が、この世から遠のいていく。
「多分これは、『離婚を苦にした夫がその原因となったパスタをムチャ食いして喉を詰まらせた事故』――そんな風に世間では扱われるでしょうね。楽しみだわ」
血の気が引き、黒みを増してゆくエス氏の顔とは正反対に、その表情にまるでイタリアの太陽のような情熱的明るさを増していくばかりの里佐子だった。
都会の職場から、電車で1時間と少し。
電車の窓を覗けば、出発時にはあれほどビルの照明で眩しかった景色が今では背の低い街並みとなっており、そこから発する明かりも疎らだった。
だが、エス氏の自宅はここからまだ三駅ほど先にある。
昨年建てたばかりの、真四角の形をした小さなマイホームだった。
――今日の夜九時からのドラマ、あいつ、録画してくれたかな。
ふとそんなことが気になったエス氏が、胸ポケットから取り出したスマホの画面を見遣る。今日の昼休み、専業主婦で彼の妻である里佐子にそういったお願いのLINEをしておいたのだ。毎回楽しみに見ているドラマだが、今日は残業になる予定だったことを失念し、ついつい出勤前の予約を忘れてしまったのだ。
そんなに好きなドラマなら「毎回予約」モードにして毎週自動的に録画するように設定しておけばいいのに、エス氏はそれをしなかった。何となく、ハードディスクに未チェックの番組がごちゃごちゃと溜まっていくのが好きではなかったからだ。
どっちにしろ、妻とのLINEには未だ妻の既読はついておらず、当然ながらエス氏に対する返事も無い。番組が録画されている可能性は低かった。
「……あ、そう。まあ、一回ぐらい見逃したって大したことないわな」
腕時計は既に夜の九時半を回っていた。帰宅した頃には、とっくにドラマは終わっていることが容易に推測できる。
はああ……。
思わず、彼の渇いた唇から深い溜息が漏れた。
それから約二十分後、ドラマ放送が終了した丁度その頃だった。
ようやく最寄り駅に到着したエス氏は、まるでトンネルのように暗い夜道を掻き分けて、歩いて八分ほどの自宅に向かって歩みを始めていたのである。
★
「ただいま」
玄関の扉を開け、靴をスリッパに履き替える。
廊下を抜けてリビングにたどり着くと、そこにはソファーの上に寝そべったエス氏の妻の姿があった。
――結婚して10年。
エス氏より2歳年下の彼女は、そんな運動不足の生活がたたって人生二度目の「成長期」を迎えていた。もちろん横方向に、である。
だがエス氏にとって、そんな程度の容姿の変化で彼女への愛が変化することはなかった。
家事だってそれなりにこなしているし、毎日の会話もそれなりにある。彼女が行う贅沢といえば、学生時代の友達とやや高級なランチをたまにするぐらいなものだ。だがそんなプチ贅沢も、一日中家にいることの鬱憤を晴らすための事だと考えれば大したこととも思えない。そんな訳で、エス氏は彼女に対して不満を特には感じていなかった。
ただ一点を除いては――。
「ん? 帰ってたの」
視線をテレビに向けたまま、里佐子がエス氏に出迎えの言葉を発する。
見れば、里佐子の大好きな番組――お笑いタレントたちがそれぞれの経験したバカ話を云い合うバラエティ――が、テレビ画面に映し出されていた。里佐子が画面に夢中になるのも無理はない。
「ああ、今帰った」
「お疲れさまぁ。晩御飯、テーブルの上に乗ってるからチンして食べてね」
「うん……わかった」
エス氏が、ネクタイを解きながらダイニングテーブルに近づく。
そこには既に冷えてはいるものの、彼の大好きな回鍋肉がてんこ盛りとなって乗った皿が、上から透明なラップを掛けられて置かれていた。
(こういうところが、憎めないんだよな)
寝室で灰色のスウェットという部屋着に着替えたエス氏。
レンジで温めた回鍋肉とキンキンに冷えたビールをせっせと口に運びながら、まるで板に貼り付いたかまぼこのようにソファーで横になってテレビに釘付け状態の妻に対し、声を掛けた。
「あのさあ、昼にLINEしたんだけど見てくれた? 夜九時のドラマを録画して欲しいっていう用件だったんだけど」
「え、LINE?」
里佐子が慌ててスマホを取り出して確認する。
「ああ、そっかあ……。今日の昼、ちょっとした場所で友達とイタリアンのランチしてたのよ。だから、あなたからのLINEに気付けなかったみたい。ごめんなさい」
「……ふうん、そうだったのか」
その悪気の無い無邪気な表情の彼女に対し、エス氏はそれ以上何も云えなかった。まあ、一回ぐらいのドラマの見逃しなど大したことは無い。だがそれとは違って、今の彼女の発言にはどうしても聞き流せない事柄がひとつだけあった。
それこそがまさに、エス氏が里佐子に対して長年抱えてきた唯一の不満。
そして、これこそがまさに彼にとってのパンドラの箱となる訳だが――。
ついに彼は、意を決してその言葉を口に出した。
「で、そのイタリアンってさあ、もしかしてスパゲッティがメインの料理?」
「違うわ、パスタよ。鮭とアスパラのクリームパスタ」
「え? でもイタリアの細長い麺料理なんだろ? それってスパゲッティのことじゃん……。あのさ、前々から云おうと思ってたんだけど、日本では昔からそういうのをスパゲッティって云うんだよ。そんな気取ってパスタなんて云うのやめてくれないか?」
「何よその、『気取ってる』って……。店がパスタっていってるんだからパスタでいいじゃない」
「いやだ。そのしゃれた響き、好きじゃない。少なくとも俺の前ではスパゲッティと云ってくれ」
「はあ? 何云ってるのよ、パスタの何たるかも分かってないくせに!」
普段は何事にもおおらかで、エス氏と口論なんてしたことのない妻の里佐子だったが、何故かこの話題だけは違っていた。彼女にとっても、余程『パスタ』という言葉には思い入れがあるのだろう。
これまたいつもは温厚なエス氏も、ついついその言葉に棘が生えてしまう。
「分かってないとはどういうことだ!」
「だ・か・ら、パスタとスパゲッティの意味の違いよ。じゃあ、教えてあげるわ。パスタは、小麦粉を練って作るイタリアの麺類の総称。だから、スパゲッティはパスタの一種なの。因みに、スパゲッティは直径2mm程度の細長い麺のことを指すわ」
「ほう……。じゃあ、お前の食べたものはめっちゃ細かったか、滅茶苦茶太かったか、そんな麺だったのか?」
「……いえ、普通の太さよ」
「ほら見ろ! ということは、やっぱりお前が食ったのはスパゲッティだろ」
「面倒くさいなあ……だから、パスタは総称なんですって」
「うるさい! とにかく、俺の前ではパスタなんていう云い方はやめろ!」
「何よ、この分からず屋! アンタがこんなに強情な人だったなんて、知らなかったわ」
「こっちこそ、お前なんかと結婚するんじゃんかったぜ!」
その言葉を聞いた里佐子の表情が一変する。
がくりと肩を落とし、沈んだ表情でじっとフローリングの床を見つめる。
「……あなた、本気で云ってるの?」
「ああ、本気だ」
「そう……」
口から一旦出た言葉は、二度と元には戻らない。
エス氏は少し後悔はしたものの、スパゲッティの云い方については結婚以来ずっと心に秘めていただけに、簡単には引き下がれなかった。
その晩から、二人は別の部屋で寝ることになった。
会話もなく、家庭内別居の状態がそれから1ケ月間続いたのである。
★
その日、残業の無かったエス氏が会社から早めに戻ると、里佐子が珍しく彼を出迎えた。だが、食事の用意はない。
その代わり、テーブルの上には緑色の文字が印刷された『離婚届』が置かれていた。もちろんそこには、既に里佐子のサインと印鑑がある。
「あなた……別れましょう。それが、私がこの1ヶ月間考えた結果です」
「ちょ、ちょっと待って。確かに、ここ1ヶ月は会話がなかった。でも、それはいつもの喧嘩の延長みたいなものさ。もう一度じっくり話せばわかる」
「いえ、私はもう決めたのよ」
宥めても透かしても云うことを聞かない、里佐子。
渋々、エス氏は離婚届に判を押し、署名した。
「今からでも遅くはない。話せばわかるんじゃないか?」
「いえ、もう遅いの」
エス氏は、ここにきてやっと、自分のしでかしたことの大きさを痛感した。心に湧き上がる、後悔。この1ヶ月間、その関係修復に何も尽力しなかった自分に怒りを感じるほどだった。
「なあ、里佐子……。やっぱり俺たち――」
「最後に、一緒に晩御飯でも食べましょうか」
エス氏の言葉を遮るように、里佐子が柔和な笑顔を浮かべて提案した。
まるで、天使のよう。久しぶりに見る朗らかな彼女の笑顔に、流石のエス氏も頷く以外にはなかった。彼女の提案を受け入れたのだ。
もしかしたら、この離婚届も無かったことにできるかも――。
エス氏が、淡い期待を抱く。
「じゃあ、『パスタ』でも茹でるね」
「え、パスタだって? ああ、うん……」
里佐子が、キッチンに立つ。
最近見られなくなってしまった、二人が仲違いになる前には彼女がよく身に着けていた淡いピンク色のエプロンをエス氏は久しぶりに見た。
――もしかして今の言葉、俺を試したのかな?
エス氏は、危く吐き出しそうになった「それはスパゲッティだろ」という言葉を喉の奥で止めた自分を、自分で褒めたくなった。
そうして、彼女が作った「パスタ」が食卓に出される。
だが、皿に盛られたのは山盛りの白い麺だけだった。ミートソースやクリームソースなど、味付け材料が見当たらない。
――???
疑問を口に出そうとするも、里佐子は平然とした表情でエス氏を見遣る。
そして、氷のように冷たい瞳でこう云い放った。
「あなた。はーい、アーンして」
「ん? あ、ありがとう」
表情とは打って変わった、優しい言葉。
まるで、新婚当時のようだ。
そして、そんな里佐子に、エス氏は抗うことができなかった。彼女がフォークでくるくると巻いた大量の「パスタ」を、大口を開けて出迎える。
「どう? 美味しい?」
「う、うん……」
「そう、良かった」
本当は味の無い麺に途中から辟易していたエス氏だったが、次々と口に運ばれる「パスタ」を笑顔で迎え続けること以外に、彼にできることは無かった。
「美味しい? 美味しい?」
「あ、ああ」
「美味しいわよね、このパ・ス・タ」
「う、うん……」
皿の上にあった大量の麺が消費されてゆく。
それと反比例するかのようにエス氏の頬が膨れていき、遂にはリスのようにはち切れんばかりの顔になった。
「ありがとう、里佐子。もう、お腹いっぱいだよ」
もごもごと聴き取れない声でそう云ったエス氏に向かって、里佐子は涼しい笑顔で首を振った。
「はあ? まだよ。あんだけコケにされたんですもの。今更、そんな言葉を聞き入れることなんてできなわいわ」
「??」
里佐子は、一度に増々大量のパスタをフォークでぐるぐる巻きにし、エス氏の口の中に無理矢理に放り込んでいった。
そのひたむきな様子が、エス氏の背筋を凍らせた。
「も、もういい。咽に詰まっちゃう」
「そう。それは良かった」
エス氏は抵抗しようとするも、その鬼気迫る雰囲気に恐怖で体が動かない。
そうしている間にも、開いた口に次々と詰め込まれてゆく味の無いパスタ。いや、スパゲッティか――今となっては、どうでもいいことだが。
――い、息ができない。
エス氏の意識が、この世から遠のいていく。
「多分これは、『離婚を苦にした夫がその原因となったパスタをムチャ食いして喉を詰まらせた事故』――そんな風に世間では扱われるでしょうね。楽しみだわ」
血の気が引き、黒みを増してゆくエス氏の顔とは正反対に、その表情にまるでイタリアの太陽のような情熱的明るさを増していくばかりの里佐子だった。
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