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第七章

第三百四十話 始まりの前

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 これはまだ異世界ファーアースが始まる前の、クレシェンドの記憶だ。

 大きなアンティーク机の置かれた十畳ほどの執務室。美しい硝子テーブルの横には、両側に三人掛けのソファが備え付けられており、床には幾何学模様の絨毯が敷かれていた。窓から見える景色は生憎の空模様で、降り注ぐ雨が部屋の空気を一層重くしている。

 そんな部屋の奥にあるアンティーク机の前に、スーツを着た白髪の老人が立っていた。老人は年齢を感じさせない活力溢れる人物で、ギラギラとした三白眼に自信を漲らせている。

「何故、なのですか、近衛天翔王光」

 老人の名は近衛天翔王光。クレシェンドは近衛天翔王光に対して、無駄だと分かっていながら問いかけた。

「儂を欺き、あの男に娘を奪わせた。それ以上の理由が必要か?」
「すべては姫桐様の幸せを考えてのこと。ご結婚の妨害までしているあなたのほうが、おかしいとは思わないのですか」
「娘は儂が幸せにする。儂に従わないお前に、娘は任せられん。後任はナンバーツーだ」

 クレシェンドは近衛姫桐の元から引き離される。近衛天翔王光に食い下がったが、彼は命令を撤回する気はないようだった。クレシェンドは近衛天翔王光には逆らえない。

 クレシェンドは近衛天翔王光の奴隷だから。

「………どうすれば、戻して頂けますか?」
「ファーアースオンラインというゲームがある」
「ゲーム?」
「馬鹿な神が作ったクソゲーじゃ。課金とプレイ時間が異常に取られる上、それだけではまともに攻略できない。普通のゲームならば、誰もやらなくなってそれで終わり。だが問題はその馬鹿な神が、とてつもない権力者だという点だ」

 神なんて概念、科学がここまで発達した現代で、それも発達させた本人の口から出て来るとは思わなかった。クレシェンドが唐突な話題転換に付いて行けずにいると、近衛天翔王光は歯をむき出しにして笑みを見せる。

「その神は、自分の配下や他の神々へファーアースオンラインを配って、身勝手に宣言した。次の神戯はこれにする、と。神々は大慌てで自分の領域でファーアースオンラインをやっているらしい」

 近衛天翔王光は興奮しているのか、まともにクレシェンドの質問には取り合ってくれなかった。

「儂は神に交渉した。ファーアースオンラインを、まともなゲームにする。代わりに儂を次の神戯に参加させ、儂が勝利したら我が愛する娘を神へ昇格させてくれ、とな」

 話を聞く限りその馬鹿な神は、よほどファーアースオンラインが大切なのだろうか。他人事ながら、そこまで好き勝手すれば配下に裏切られないか心配になった。

「まずは、ファーアースオンラインの開発チームへ加わる。ファーアースオンラインを徹底的にアップデートだ。その後、お前が先に神戯へ参加し準備を整えよ。そして儂だけが他のファーアースオンラインを遙かに超えた、真のVRMMOファーアースオンラインの力で蹂躙し、我が愛する娘は永遠になるのだ」

 その時のクレシェンドはすべては理解し切れなかったが、一つだけ分かっていることがあった。姫桐の元へ帰るためには、近衛天翔王光に従うしかない。

 そしてファーアースオンラインの開発チームへ参加したクレシェンドは、それが神の存在を観測できる禁断の領域だったことを知った。

 近衛天翔王光が罵倒していた馬鹿な権力者の神が、母なる星の女神マリアステラなどと呼ばれ、本当に頭がおかしい存在だと言うことも。



 ◇



 クレシェンドの力を使えば、必ず思い通りに運べるはずの拠点攻防戦。それなのにクレシェンドにとって予想外の事態が起きている。次々と報告される状況から、ハッキリとそう認識した。

 最初の小競り合いは規模は小さく、こちらに損害はなかった。デーモンたちは敵戦力を引き付ける役割を全うしている。

 <フォルテピアノ>の片割れピアノは、破壊不能オブジェクト、デーモンたちを使って脱出不能となった。この罠に掛かるのは近衛翔本人でも他の従者でも良かったが、懸念事項でもあったピアノを抑えられたのは戦果として充分と言える。

 そして狐の神の協力によって、最も厄介である近衛翔本人は封じ込めた。狐の神は神々の中でも知謀に長けており、神の位階であることの驕りがない。その協力を得られたのは僥倖だっただろう。

 あとは戦闘用の従者たちをイベント空間へ隔離し、手始めに残った従者たちを蹂躙するはずだった。

 予想外となったのは、そこからだ。余りにも大きなズレが生じ始めた。

 AI従者の機能を無効化するはずの分身が、AI従者に敗北したらしい。

 さらに『浮遊大陸』を破壊する狐人族とレイドボスモンスターたちが、一斉に別のイベント空間へ連れ去られた。

 そして権能を使うコピープレイヤーたちは、たった一人の従者の前に全滅した。

 近衛翔の操るアバターフォルティシモと直接戦えば分が悪いことは理解していたけれど、フォルティシモ不在でここまで抵抗されるとは思わなかった。

 いや本来は抵抗など出来ないはずで、どれも神の仕業に違いない。竜神共か、母なる星の女神か、もしくは憎き太陽神か。

『神の介入はあると思っていましたが、早過ぎます』

 クレシェンドは考える。近衛翔だけを相手にするのであれば、まだ手段は残っている。クレシェンドにとって、異世界ファーアースでの神戯は絶対的な優位性を持つ戦いなのだ。

 この神戯は近衛天翔王光が勝利するための神戯出来レースで、クレシェンドは参加する前からその協力者として選ばれていて、近衛天翔王光が圧勝するための様々な機能を持たされているから。

 クレシェンドは黒い情報ウィンドウ、管理用情報ウィンドウアドミンコンソールを開き見つめた。

『既に近衛翔の【拠点】を襲うために使っている。加えて、従者の操作権を剥奪したログも残っています。これ以上神戯のルールに介入するのはリスクが大き過ぎるのですが………』

 権能が信仰心エネルギーFPを消費するように、この機能も何のリスクも無く無制限に使えるものではなかった。何せこの機能の凶悪さは、チートを軽々と凌駕している。そんなものを使われ続けたら興ざめも良いところだろう。

 だから神戯を遊ぶ“神々”が許さない。この機能を大々的に使えば、神々が神戯そのものを中止しかねない。そのためクレシェンドはずっと使うのを控えてきた。使いすぎて制裁を受けた近衛天翔王光とは違う。

 しかしクレシェンドの直感と呼ぶべきものが、今こそ使うべきだと訴えかけていた。

『もはや踏み出してしまった。竜神だろうと、母なる星の女神だろうと、立ち塞がるすべてを打ち破り、あの御方の復讐を成し遂げる』

 無念を晴らすや墓前に捧げるとは、絶対に言わない。死んだ人間に想いは残らない。それは現代科学的に絶対に有り得ない。

 クレシェンドは、クレシェンドのために、クレシェンドが望むから、近衛姫桐の復讐を達成する。

 たとえ千年、万年掛かろうとも。

 そして復讐の対象、最初の一人は近衛姫桐のたった一人の息子、近衛翔だ。



 クレシェンドはダークグレーのスーツに身を包み、『浮遊大陸』を上空から見下ろしていた。狐たちやレイドボスモンスターによって随分と破壊されたようだが、まだ街としての体裁は整っている。愚かなNPCたちは余程近衛翔を信じているのか、早速負傷者の搬送や瓦礫の撤去を始めていた。

 これだけ力の差で蹂躙されたと言うのに、ほとんどの住民に諦めている様子がなかった。彼らは一度すべてを失っているからこそ、再び失うことで世界に絶望するかに思えたけれど、近衛翔の見せた復興速度が希望になっているのかも知れない。もしくはもう何も考えられず、同じことを繰り返しているだけか。

 クレシェンドはすべてが無意味だと思い、見下した。

「今度こそ従者たちを追い詰めて殺し、近衛翔が戻るのをゆっくり待ちますか」

 天空の王フォルティシモ、その最大信仰対象『浮遊大陸』を攻め滅ぼすでもなく、消し去る。

「管理権限実行、MAP消去、『浮遊大―――」



「俺の従者を、なんだって?」



 『浮遊大陸』を見下ろす、もはや宇宙との境目が分からなくなるような地上一万メートル以上の空。

 クレシェンドの前に、魔王が浮かんでいた。
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