ハルヲンテイムへようこそ

坂門

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悲しみの淵

嘆きと湯気の立つカップ

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 時間は流れて行きます。
 その時にあった幸せは、流れて行ってしまいます。
 そして、次の幸せが流れて来るようにと私達は願い、行動をして行くのです。
 
 ⋯⋯でも。
 
 幸せと幸せの間に出来たちょっとした隙間。そのちょっとした隙間に不幸が顔を覗かせるのは、ままある事です。
 ただ、大きな不幸がその隙間に入り込み、私達を悲しみの淵へと追い込む事は早々ある事ではないでしょう。
 
 ⋯⋯でも、残念な事にそれは無いわけではありません。

 先日交わした優しい言葉、前を向かせてくれた言葉。
 その言葉が彼との最後となってしまいました。

◇◇◇◇

 中庭からアックスピークの親子をぼんやりと眺めていました。
 仲睦まじく寄り添う親子の姿。ヘッグとフッカに挟まれているロッカ。
 ロッカを守る様にヘッグとフッカは身を寄せ合っていました。

「どうしたの?」
「ひゃっ! ハルさん⋯⋯」

 背中越しに急に声が聞こえて、びっくりしちゃいました。ボーっとしていたというのもありますけど。

「何だかヘッグ達に熱い視線を送っていたわね」
「そ、そんな事は無いですよ。⋯⋯アックスピークの親子はいつも一緒にいるなぁと思って」
「それは親子だもの。ロッカもまだ生まれたばかりだしね。ヘッグとフッカは親として心配なのよ」
「⋯⋯そう⋯⋯なのですね」

 私はまた中庭へと視線を移しました。今度は中庭を走り回るロッカを、ヘッグとフッカは優しく見守っています。
 ハルさんは私の横顔を覗き込むと、少し寂しそうに微笑みを向けました。

「そう言えば、前にもこんな会話をしたわね」
「そうでしたっけ?」
「エレナは“親”と言う物が分からないのよね」
「そう⋯⋯かも知れません。そういう物だと言われても正直ピンと来ないかもです」
「だよね。まぁ、無理して分からなくてもいいんじゃない。エレナにとって大事な人⋯⋯大切な動物モンスターでもいいわ。エレナだってロッカを守るヘッグとフッカみたいに、ガブを危険から守ろうとしたでしょう? ガブだけじゃない、大切な人も結構出来たんじゃないの? 親だから⋯⋯なんて考えなくてもいいわ。大切なモノを守りたい。ただそれだけの事よ」
「⋯⋯守りたいだけですか⋯⋯なるほど⋯⋯それならピンと来るかも知れません」

 私の大切な人達、動物モンスター達。【ハルヲンテイム】のみんなと【スミテマアルバレギオ】のみんな。私のピンチを救ってくれた【オルファステイム】の方々⋯⋯、カミオさんやモーラさん⋯⋯。
 ここに来てから私を幸せにしてくれた人達、みんな大切な人達。私を信頼してくれる人達、動物モンスター達⋯⋯。

「ヘッグとフッカにとってロッカは大切な仔。だから、心配して寄り添っているのよ」
「もし⋯⋯私がロッカだとしたら⋯⋯ヘッグがキルロさんで、フッカがハルさんって思ってもいいのですかね? あ、でも、そうしたらロッカはキノになるのかな? でも、私の人生を良い方向へと導いてくれたおふたりですから⋯⋯どうですかね? ハルさん? あれ?? ハルさん?!」

 耳の先まで真っ赤にしているハルさんが、一点を見つめたまま固まってしまいました。
 最近多いですね、茹でタコ姿のハルさん。
 キノを守るハルさんとキルロさんか⋯⋯。  
 あ! そう言えば、キルロさんよりキノの方が強いって言っていましたね。だとすると、キルロさんを守るハルさんとキノの方がしっくりくるのでしょうか? 視覚ヴィジュアル的には、可笑しな事になってしまいますが、どうですかね⋯⋯。
 真っ赤になっているハルさんの横で、私も腕を組んで唸っていました。
 頭から煙が出ているハルさんと、腕を組んで唸り続ける私。
 端から見れば、それこそ可笑しなふたりに見えるかも知れませんね。

◇◇◇◇

 アックスピークの件から数日。落ち着く暇も無く、ハルさんは過酷な冒険クエストへと向かいます。人が生活するのもままならない過酷な北の土地へと、【スミテマアルバレギオ】のみなさんは出発して行きました。


「ようこそ、ハルヲンテイムへ」

 いつものようにお客さんを迎い入れ、業務はつつがない進捗を見せます。
 いつものように、お客さんと接し、何事も無い一日が流れていました。人の流れも穏やかで、落ち着いた空気が待合を包んでいます。

「お願い!! 助けて!!」

 バン! と激しく開かれる扉。
 声高な焦りが、平穏な空気を引き裂いて行きます。足の短い中型犬、オーカシュフルドを抱えたふくよかな婦人が飛び込んで来ました。
 抱えているオーカシュフルドの体から力は抜け切り、ダラリと婦人の腕から手足は零れ落ちています。薄眼を開け、口元からはだらしなく舌は垂れ下がり、苦し気な浅い呼吸を繰り返していました。
 丁寧な手入れの施された艶のある黒毛は、埃にまみれ、左大腿部から激しく血が吹き出し黒毛を濡らしています。黒毛に紛れて一瞬分からなかったのですが、血濡れの大腿骨が皮膚を突き破り飛び出していました。
 待合の人々は憐みを見せながらもその惨状に眉をひそめ、目を背けて行きます。我が仔をギュっと抱き締め直し、事の成り行きを見守る人もチラホラといらっしゃいました。

「フィリシア! 手術室の準備を。ラーサは点滴! エレナ! 店の方を頼むよ。モモは僕とこの仔を運ぼう。さぁ、落ち着いて行こう!」

 アウロさんの声に一斉に動き始めます。
 廊下に準備してある搬送台ストレッチャーを、モモさんがガラガラと運び入れました。婦人の腕からオーカシュフルドが搬送台ストレッチャーへとそっと移されます。婦人は今にも混乱で我を失いかけていますが、ギリギリの所で踏み止まっていました。見つめる瞳に映る不安が彼女の心配を煽り、心をかき乱しているのが伝わって来ます。

「お願い! お願いします!」
「落ち着いて下さい。この仔はどうしたのですか?」
「飛び出した所を、ば、馬車に轢かれて⋯⋯。大丈夫ですか? 助かりますか?」
「今の段階では、何とも言えません。でも、最善ベストを尽くしますよ」
「お願いします」

 婦人は運ばれて行く我が仔を見送りながら、何度も頭を下げていました。明言を避けたアウロさんも大きく頷いて見せ、搬送台ストレッチャーを押して行きます。
 
「急ごう!」

 アウロさんの言葉にモモさんも搬送台ストレッチャーに手を掛け、手術室を目指し奥へと消えて行きました。
 私は当惑しながらも、婦人の肩にそっと手を置き、待合のベンチへと誘いました。ベンチに座る婦人の手が私の手を強く握り締め、不安を押し殺そうと必死なのが分かります。

「あ、後でお茶をお持ちするので、今しばらくお待ち下さい。き、きっと落ち着くと思いますので⋯⋯」

 私は待合に集うお客さんに向き直し、得意では無い声掛けをして行きました。

「た、大変申し訳ございません。た、た、只今、緊急の手術オペが入ってしまいましたので、お、お、お急ぎで無い方は後日、優先して、た、対応させて頂きます⋯⋯ので⋯⋯な、な、何卒ご了承のほど⋯⋯お願いいたします」

 私が深々と頭を下げると、ひとつ嘆息し、微笑んでくれたアロンさんが足早に受付へと来てくれました。

「大変ね。ウチは調髪トリミングだけだから、後日でいいわ。いつなら大丈夫?」
「は、はい。明日以降であれば、いつでも優先で対応を、さ、させて頂きます」
「そう。じゃあ、明日の早い時間でお願いしようかしら」
「た、大変申し訳ありません、ありがとうございます。とても助かります。明日の早い時間ですね。承りました。ま、また明日のご来店、心よりお待ちしております」

 アロンさんを皮切りに次々に予約の変更をされます。私は予約表と睨めっこをしながら、希望日と照らし合わせて行きました。常連の方々は慣れたもので、早々に変更をされて帰路につきます。
 迷っていた方々も、常連さんに倣い変更の手続きをされ、待合は一気に人が減り寂しい感じになりました。それでも、調子の悪い仔達もいます。早く診て貰いたいに違いありませんが、私達では対処出来ません。引き出しから書類を引っ張り出して、近隣の調教店テイムショップへの紹介状をお渡しします。

「こ、こちらが【イリスアーラテイム】の紹介状になります。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」

 丁寧に頭を下げ、近隣のお店に割り振って行きます。もちろん、その逆も然りなのですが、ここまで少人数で回しているお店は【ハルヲンテイム】だけです。ですから、他のお店から紹介される事は稀にしかありません。
 
 ふぅ。何とか皆さんの対応が終わりました。玄関のプレートを閉店クローズにひっくり返し、急いで食堂から温かいお茶を一杯。
 待合のベンチに座る婦人へとカップを手渡そうと差し出しますが、受け取ろうともしてくれません。私は少し困惑しながら、彼女を覗きました。
 じっとして動かない彼女は、焦点の定まらない視線で床の一点をジッと見つめ続けています。
 目に見える不安の形。
 私は一瞬戸惑いましたが、彼女の隣に腰を下ろします。彼女の定まらない視線の先に、温かな湯気の立つカップを差し出して行きました。
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