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坂門

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モモ・ルドヴィアの当惑

ドキドキとイヤな汗が止まりませんでした

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「エレナ?! どうした? しっかりしろ」

 ラーサさんの怒号に近い呼び掛けに、我に返ります。暴れる心臓は止まる事はありません。
 深呼吸。
 ダメです。
 何で? 混乱する頭に心臓は増々暴れていきます。緊張を強いられる術式ではありません。落ち着いて事に当たれば何て事の無いいつもの術式。

「エレナ、大丈夫。落ち着いて。この仔は大丈夫」

 メスを握るモモさんの優しい声色が、私に少し落ち着きをくれます。
 この仔は大丈夫⋯⋯。モモさんの言葉を何度も頭の中で繰り返していきました。
 やるべき事をしないと。ただ、そう思えば思うほど心臓は暴れ、冷たい汗は止まりません。
 パニックにならないようにと精一杯。一体、私、どうしたというのでしょう?


「エレナ、違う! そっちじゃない!」
「す、すいません」
「⋯⋯ラーサ。エレナ、大丈夫だから落ち着いて」

 震える自分の手に嫌気が差します。
 些細な事すら出来ない私を、ラーサさんが怒るのも無理ありません。なのに、モモさんはラーサさんを静かに諌めます。
 悪いのは私なのに。
 思うように動いてくれない体のまま、手術オペは無事に終了しました。
 ラーサさんは、ミスの多かった私を軽く睨み嘆息します。

「エレナ、何やっているんだ? 難しい事なんて無かったろう? どうした?」
「す、すいません。私も何が何だか分からなくて。胸がドキドキして、汗が止まらなくて⋯⋯」

 必死に弁明する私の姿にラーサさんは厳しい表情で首を傾げ、モモさんは優しく肩に手を置いて下さいました。ミスばかりしていた私を怒るわけでも無く、柔らかな微笑みを向けてくれます。その姿は何かを悟っているようにも見えますが、私はミスの多さに俯く事しか出来ませんでした。

「あの時のセントニッシュを思い出してしまったのでしょう?」

 モモさんの言葉に、ハッとしました。
 いきなり目を剥いて痙攣を起こした姿が、頭を過ったのは確かです。でも⋯⋯。

「頭の中を過りましたけど、一瞬だけです」
「そう」

 モモさんは深く頷き、後片付けを勧めます。
 そうです。ほんの一瞬、頭を過っただけで、術中に過る事はありませんでした。
 
 後片付けは終わり、私はもう一度ラーサさんに謝りに行きます。

「いいよ、もう。次からは気を付けような」
「はい、すいませんでした」

 肩を落とす私の背中を気合い入れの一発。パン! と背中を軽く叩かれ、気持ちを入れ替えます。
 不甲斐ない自分が情けなく思えてなりません。
 やれやれと夕方を迎える街に合わせ、【ハルヲンテイム】も閉店です。何も出来なかった一日が終わりを告げようとしていました。表玄関から街行く人々を眺め、やりきれない思いに肩を落としてしまいます。

 
 灯りの消えた受付。扉の向こうからくぐもった喧騒が届き、夜の訪れです。
 今日の当番はモモさん。私は昼間の名誉挽回とばかりに声を掛けました。

「モモさん、何かあればいつでも声掛けて下さいね!」
「なぁに~、その変な気合いの入り方。大丈夫だから、そんなに気を張ってはダメよ」

 私の考えは見透かされているようです。否定的な言葉すら、モモさんの微笑みが柔らかなオブラートとなって包み込んでいました。

「いやぁ⋯⋯」

 気恥ずかしい思いに口ごもってしまいます。モモさんは相変わらず柔らかな微笑みを見せ、“ついて来なさい”と目で合図を送って来ました。
 【ハルヲンテイム】の長い廊下を、モモさんの後に続きます。立ち止まったのは隔離室の扉の前。ドクンと私の心臓が、イヤな高鳴りをひとつ見せます。

「大丈夫。もうみんな落ち着いているから」

 あの時と違い、ベッドの上には誰もいません。ケージの中で静かに眠る【ライザテイム】からやって来た仔達。その様子を確認すると、モモさんはこちらに振り返りました。

「心臓がドキドキしている? イヤな感じはしない?」
「入る時に少し⋯⋯。どうして分かるのですか?」
「いらっしゃい。少しお話ししましょうか」

 モモさんはそう言って、私を食堂へと案内しました。
 湯気の立つカップがふたつ用意され、私達は向かい合って腰を下ろしました。香ばしい香りが充満して、心が落ち着きます。湯気の向こうに見える琥珀色。私がそれを見つめているとモモさんの包み込む柔らかな声色が届きました。

「本当はミルクとか飲んで落ち着きたい時間だけど、眠くなっちゃうのはマズイわよね。エレナも付き合って」
「はい。いただきます」

 モモさんのマネをして、私はまだ熱いお茶を少しだけすすりました。

「今日は大変だったでしょう? ドキドキしたり、もしかしたら怖かったりしたんじゃない?」
「はい⋯⋯。変な汗が止まらないし、体も言う事を聞いてくれなくて、おふたりには迷惑を掛けてしまいました。すいません」
「いいのよ。謝らなくて。仕方のない事だから」
「仕方のない?」

 モモさんには何かお見通しみたいです。
 柔らかな時間がゆっくりと流れて行きます。モモさんの落ち着きが、私に落ち着きをもたらしました。

「そう。⋯⋯そうね、あ! 以前アウロさんが使い物にならなくなった時期があったでしょう? 覚えている? 【オルファステイム】の店長がやって来て、アウロさんが固まっていた時期」
「はい、ありましたね。以前の事を思い出してしまって、体が言う事を利かなくなってしまうって、おっしゃっていました」
「そうそう。今回のエレナがまさしくそれよ」
「それ?」
「辛かった出来事や、悲しかった出来事を体が覚えていて、似た場面に出くわしてしまうと、その時の記憶を体が思い出す」
「体が? 頭じゃなくて?」
「実際は頭かも知れないけど、頭の中でいくら頑張っても、体は言う事聞いてくれなかったでしょう?」
「はい⋯⋯。考えれば考えるほどダメでした⋯⋯。モモさん、どうすれば良かったのでしょう?」
「今日のエレナを考えると、きっとベッドの上で寝ている仔がダメなのでしょうね。ベッドの上でも起きている仔は平気だったし、ケージの中で寝ている仔も平気だったものね」
「ベッドで寝ている仔がダメなんて⋯⋯仕事にならないですよね⋯⋯使い物にならない⋯⋯」

 自分が欠陥品になってしまった感覚です。悲しい現実を突きつけられ、何も出来なくなった自分にまた落ち込んでしまいました。

「フフフフ、分かり易いわね。そんなに落ち込まなくてもいいのよ。誰しもが通る道だし、この間は本当に辛い思いをしたのよ。そこから逃げようとする防衛本能でもあるのだから、今はそういうものだと受け入れてしまいなさい」
「何だか前にも同じ様な事を言われましたね。仕方ないと割り切れって」
「そうそう。何かのきっかけできっと吹っ切れる。もしかしたら、もう吹っ切れているかもよ。アウロさんを見てみなさい。この間の【ライザテイム】の件で、【オルファステイム】へのトラウマなんて消えてしまったでしょう」
「確かに。【オルファステイム】の方が来ても普通でした」
「でしょう。だから、あんまり深刻に考え過ぎないで」
「はい。モモさん、いつもありがとうございます」
「フフフ、お姉さんの株が上がったかしら」
「アハ、凄く上がりました。みんなが通る道って言っていましたが、モモさんもあったのですか?」

 モモさんは少し口ごもると上目でこちらを見つめ、ニコリと笑って見せました。突然の妖艶な笑みに、何だかドキドキしてしまいます。

「少し長くなるかも知れないから、お茶を淹れ換えましょう」

 モモさんはカップをふたつ持ち、奥のキッチンへと消えて行きました。
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