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坂門

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過ち

さん付けは禁止になりました

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 ラーサは聴診器ステートから伝わる拍動に神経を注ぐ。
 治まれ。心拍下がれ。
 眼前で激しい引きつりを見せる様に、表情が晴れる事はない。このまま心臓に負荷が掛かり続ければ、間違いなくこの仔の体がもたないのは明らかだ。治まりを見せない拍動にラーサ自身の拍動も上がる。
 他に打つ手は? 
 原因が分からなければ、次の手も何もない。心の中で激しい舌打ちをして、もどかしさだけを積み上げていった。
 まだ? いい加減効いてよ。
 聴診器ステートを握る手にじわっと汗が滲む。
 投入後何秒? 何分? 
 時間見るのを忘れた。
 焦りだけが積み重なる。診察台を見つめる瞳に不安だけが浮んでいた。

 引きつりがピタっと止まる。
 次の瞬間爆発しそうな耳から伝わる拍動は、ゆっくりと下降を辿って行った。

「⋯⋯ふぅ」

 一難去ったものの原因が未だ不明。
 降圧剤で治まったって事は出血の類ではない。
 発作⋯⋯。血圧上昇からの心臓の発作? 
 血圧の上昇⋯⋯か?
 診察の時にそんな兆候は無かったよね。また何か見落としたかな?
 
 聴診器ステートを首からぶら下げ、診察台を見つめる。体力を消耗したのか診察台の上で力無くうな垂れていた。

「頑張ったね」

 頭をひとつ撫で、点滴の準備に入る。薬液の入っていた瓶を廃棄箱に投げ捨て、点滴台へ設置⋯⋯。
 あれ?
 一瞬の違和感。もう一度、廃棄箱を覗き見るとラーサの表情がみるみるうちに険しくなっていった。

◇◇◇◇

「エレナァァァアッーー!!!」

 診察室から普段のラーサさんからは想像つかない怒号が届きました。
 私はびっくりして一瞬体が固まってしまいましたが、急を告げる声に診察室へ急ぎます。

「ど、どうかしましたか?」
「どうかしたじゃないよ。あんたは何をやっているの?」

 分けも分からず頭ごなしに怒られ、私の頭は混乱します。睨みつけるラーサさんの顔をまともに見る事が出来ません。淡々とした口調の中に物凄い怒気が込められているのが、分かりました。
 視線が怖い。
 私は視線を下に向け、黙る事しか出来ません。

「これ」

 カチャっと診察台の上に置かれた薬瓶。空となった薬瓶を見つめ、私はまだ何が起きているのか全く分かりませんでした。

「まだ分からないの? この薬瓶は何よ?」

 赤く透き通る薬瓶。大型用の栄養剤?
 私はラベルを確認して、それが大型動物モンスター用に調合された栄養剤であると確認しました。

「大型用の栄養剤です⋯⋯」

 私は小さな声で何とか答えると、ラーサさんの顔がさらに険しくなっていきます。

「これが廃棄箱にあったんだけど、どういう事?」

 ラーサさんの怒気が強くなり、私は全てを理解しました。

 間違えた!!

 薬剤を取り違えてしまった。
 私の体がガタガタと震え出します。

 私のせいだ。
 この仔が苦しくなったの、私のせいだ。

「す、すいません⋯⋯。ま、間違え⋯⋯」
「え? 聞こえない? 大型用の薬に入っている塩分を小型種が摂取したら命取りになるって教えたよね? もう少し小さかったら、家に帰る途中だったら、この仔は助からなかった。エレナ、あなたが殺す所だったんだよ。良く反省しな」

 それだけ言うとバタンと乱暴な扉を閉める音がして、ラーサさんは診察室を出て行ってしまいました。
 
 殺す所だった。私が⋯⋯この仔を⋯⋯。
 恐怖とミスをした後悔、全ての負の感情が襲って来ます。体が震え立っていられません。訳も分からず涙が落ちていきます。
 迷惑を掛けてしまった。恩を仇で返すという、絶対にしてはいけない事。
 何てバカなのだろう。
 自分に呆れてしまう。
 愚かすぎる私。
 後悔しても、しても次から次へと後悔は津波のように襲ってきます。
 何で確認しなかったのだろう⋯⋯どうして⋯⋯。巻き戻る事のない時間に縛られ、私はただ立ちすくみます。診察台で眠る仔をまともに見る事が出来ません。待合いで痙攣を起こしていた姿がフラッシュバックして、ラーサさんの言葉が頭を過ります。空になった赤い薬瓶をじっと見つめ、心が空になっていきました。


「⋯⋯エレ⋯⋯エレナ」

 誰かの呼ぶ声。私は声の方へと力無く振り返ります。
 アウロさんが、難しい顔で私を見ていました。私はその視線が恐ろしくなってしまい顔を背けます。

「ご、ごめんなさい⋯⋯」

 消え入りそうな声。届くかどうかも分からないほど言葉に力はありませんでした。アウロさんの大きな溜め息が聞こえます。
 また、拒絶される。
 また、世界が狭くなる。
 そんな脅迫にも近い思いが、私の視野を狭くしていきます。

「うーん⋯⋯もう帰りなさい」
「⋯⋯はい」

 帰れと言われてしまった。
 役立たずはいらないという事。
 胸が苦しくなって、どうやってお店を出たのか覚えていません。気が付くと噴水広場の片隅にある古ぼけたベンチに座っていました。
 街の喧騒は膜が張ったようにゴワゴワとだけ耳に届きます。ただ、地面を見つめていました。
 この光景は良く知っている。
 土くれの街路を見つめ、世界がモノクロに変わっていきます。

『もう来ないでくれ⋯⋯』

 パン屋で言われた言葉と、乱暴に出て行ったラーサさんの拒絶を示す扉の音。それがずっと頭をグルグルと回って、何も考えられませんでした。
 やがてベンチに座る影は長くなり、夜の喧騒へと変わっていきます。足早に帰宅するいくつもの足元が私の前を過って行きました。
 帰る。
 どこに? どうして?
 ふと、目の前に立ち止まる足元が見えました。私はゆっくりと顔を上げて行きます。

「エレナ、みーっけ! 全く、家は知らないしさぁ、探したよ」

 フィリシアさんがいつものように明るい笑顔で私を見つめています。何故だか分かりませんが私はその笑顔に涙がボロボロと落ちて行きました。
 フィリシアさんは黙って私の横に座ると、ギュっと私の肩を抱いてくれます。私は少しびっくりして、フィリシアさんの顔を見上げると、いたずらっ子のようにニカっと笑って見せてくれました。

「エレナは泣き虫、良く泣くねぇ」
「何で⋯⋯フィリシアさんが⋯⋯」
「そらぁ、あんなボロボロの姿で店を出て行ったらみんな心配するって。私だけじゃないよ、モモもアウロさんもラーサだって、みんな心配するって」
「ラーサさん⋯⋯私、やってはいけない事をしちゃったので⋯⋯もう⋯⋯」
「ああー、あれね。確かにあれはまずかったね」
「⋯⋯はい。だから、もう⋯⋯」
「でもさ、次はもうしないでしょう? 誰だってミスはしちゃう。それをみんなで補うんだよ。私がミスしたら、エレナが助けてよね」
「え?!」

 次?
 フィリシアさんの言葉。
 私はまたお店に行ってもいいって事なのでしょうか? 
 もういらないのではないのでしょうか?
 困惑している私にフィリシアさんも困惑を見せます。

「うん? あれ? エレナ、もしかして店クビになったと思っている?」
「はい⋯⋯」
「やだぁ! ない、ない、ない、ない。ないよ。道理で何か噛み合わないと思った。普段一生懸命やっている人間をクビになんかしない。そこは安心していいよ。でも、怒られた事はちゃんと反省して、次は同じミスをしないようにしないとね」
「せっかく良くして貰っているのに、あんな事をしてしまって⋯⋯みなさんに合わす顔もないし⋯⋯もういらないと思われ⋯⋯⋯痛っ!」

 フィリシアさんが私のおでこを指で弾きました。私はおでこをさすりながらフィリシアさんを見上げると、眉間に皺を寄せ怒った顔を見せます。

「もう何言っているのよ! 誰もエレナの事をいらないなんて言ってないでしょう。全く面倒くさい子なんだから!」
「ご、ごめんなさい」
「許す⋯⋯」

 そう言ってまた笑顔で肩を抱き寄せてくれました。フィリシアさんのぬくもりに心がポカポカと温かくなっていきます。

「でもまぁ、しゃーないよね。何もかも初めてなんだもんね。本気で怒られる事も初めてだったんでしょう。エレナの事を想っているからラーサも本気で怒ったんだよ。それも分かってあげて」
「はい」
「よし! じゃあ、ご飯食べに行こう! お姉さんが奢ってあげて進ぜよう。何が食べたい? あ、でもでもあんまり高いのはダメよ」
「こういう時ってどうすればいいのですか?」
「そっか。こういうのも初めてかぁ~。でも、ちゃんと聞けるようになったね。とりあえず私のおすすめに行っちゃう?」
「はい。お願いします。フィリシアさんのおすすめに行きたいです」
「ああ⋯⋯そうだ。もうさぁ、その“フィリシアさん”って止めようか。もう仲間なんだから、フィリシアでいいよ。“さん”付け禁止! 分かった?」
「えええええ」
「分かった?」

 フィリシアさ⋯⋯フィリシアが顔をぐいと近づけて来ました。私はその勢いに気圧され首を縦に振っていました。

「はい、分かりました。フィ⋯⋯フィリシア」
「よろしい! んじゃ、行こうか」

 フィリシアはニカっと笑顔を見せ、ふたりで肩を組んで歩いて行きます。

「こっちよ」

 フィリシアに手を引かれ、私達は夜の活気を見せる街へと溶け込んで行きました。
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