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坂門

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おばあさんの老犬

ルビー色の果実

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「何かマズイのですか?」

 私はラーサさんに尋ねると、ラーサさんは首を横に振りました。

「大丈夫。今の所は順調」
「良かった」
「でも、気は抜かないで。この仔が起きるまで、集中」
「はい」

 トレイにある真っ赤な卵型の肉片。
 これが原因ですか⋯⋯。

 ラーサさんが点滴瓶を交換して行きます。モモさんが針と糸でお腹を縫い合わせると大きく息を吐きだしました。

「ふぅー」
「三人ともお疲れ」

 アウロさんは声を掛けながら、トレイの上にある子宮にメスを入れていきます。
 子宮の中から赤ちゃんのこぶしほどあるこぶを取り出し、顔をしかめて見せました。その姿をラーサさんもモモさんも、苦い顔で見つめています。うまくいったのではないのでしょうか? 緊迫した空気はひとまず治まりましたが、ラーサさんもモモさんも居心地が悪そうに見えました。

「あの⋯⋯コロは、大丈夫なのですか? 皆さん難しい顔されていますが⋯⋯」
「大丈夫だよ。手術はうまくいった。そうだ、エレナこれを見てごらん」

 アウロさんがトレイの中を見せてくれます。血塗れの肉片と、赤ちゃんのこぶし大の腫瘍が乗っかっていました。

「こっちの瘤が、悪さをしていた腫瘍だ。表面がツルツルなのが分かるかい? 表面がツルツルの時はただの腫瘍。表面が凸凹していると悪い腫瘍だ。悪い腫瘍だと、手術終わってからもしばらく治療が必要になるし、死んでしまう事も多い。今回のケースはただの腫瘍だったから良かったよ。うまく取れたのでこの仔が無事に目を覚ませば、回復に向かうよ」
「良かった」
「まだ、ほっとするのは早いかな。この仔が目を覚ましてくれないとね。それとラーサとモモは反省だね」

 反省?

『すいません』

 ふたりは揃ってアウロさんに頭を下げました。その様子に少し悔しさが滲み出ています。

「うまくいったのに何を反省するのですか??」

 私が首を捻って見せると、アウロさんが嘆息しました。

「さっきの腫瘍を見ただろう。あの大きさなら触診で見つけられる。触診の段階で見つけていれば、大きな出血をする前に手術オペに踏み切っていただろうね。出血の少なさに患畜の状態を見誤ってしまったんだ。ふたりの実力なら、触診で見つけて当然だったのにね」
「そういうこと。この仔に悪い事しちゃったよ」

 ラーサさんの嘆息まじりの言葉に、後悔が見え隠れします。
 モモさんも手術オペ事態はうまくいったのに表情は晴れません。

「きっとこの大きな腫瘍が栓をする状態で出血を止めていたのでしょうね。腫瘍が少し動いた事によって栓が外れてしまって、溜まっていた血が一気に噴き出したって所かしら」

 触診。
 初めてラーサさんと出会った時に体をペタペタと触られたあれですね。体に触るだけで不調の原因を見つける事も出来る。大きな瘤なら外から触って分かるのですね。

「エレナ、自発呼吸が確認出来たら、もう止めていいよ」
「はい」

 コロの胸が上下しているのを確認して私はバッグするのを止めます。両手がブルブルと震え力が入りません。
 私がびっくりしていると、ラーサさんが腕を強くさすってマッサージしてくれました。

「あ、あの力が入らない⋯⋯のです⋯⋯」
「うん。頑張ったね。エレナは人一倍筋肉少ないから、疲れちゃうよね」

 ラーサさんの労いの言葉に疲労がどっと押し寄せ、床にへたり込んでしまいました。

「エレナのおかげで助かったわ。初めての手術オペね、お疲れ様」

 モモさんの素敵な笑顔に癒されました。
 私でも皆さんのお役に立てかもしれないと、充実した思いがこみ上げます。

『クゥーン⋯⋯』

 へたり込む私の眼前で、コロが小さく鳴いて目を開けました。

「ほら、エレナ。褒めてあげて」

 アウロさんが、コロの様子を覗き込みながら言いました。
 私はコロの頭に手を置き、力の入らない手でゆっくりと愛でていきます。

「頑張ったね。もう大丈夫」

 私の心からの言葉が通じたのでしょうか、コロは私に頭を預け、身を委ねてくれました。


 後日、おばあさんから木箱一杯のグレオンの実が届きました。まん丸の小さな粒が房にたくさんついて、甘酸っぱいいい香りを放っています。そのルビー色の実を一粒千切り取って陽光に透かしてみました。

「手紙がついていたのは読んだ?」

 ラーサさんから肩越しに声がかかりました。私が首を横に振るとニヤリと笑って一枚の紙を私に手渡します。

【この度はありがとうございました。些細な物ですが、皆さんでお分けしてください】

 と短く書いてありました。たいした事をしていないのに感謝の言葉なんて貰っていいのでしょうか? 私の戸惑いを感じ取ったのか、ラーサさんが私の手からグレオンの実を奪い取ると口の中に放り込んでしまいました。

「美味しい。そのありがとうにはエレナも、もちろん入っているよ~」

 それだけ言うとラーサさんは仕事に戻って行きました。
 私はまた⋯⋯いえ、何度も何度もおばあさんのありがとうを読んで、心がとても満たされます。何とも言えない初めての高揚感。おばあさんの手紙が私を幸せな気分にしてくれたのです。

◇◇◇◇

 穏やかな午後。
 それを打ち破るかのようにけたたましく、開け放たれる裏口。

「アウロー!」

 帰還したハルさんの第一声は、穏やかな帰還を告げるものではなく、あきらかに急を要すもの。その緊迫した声色に、私達の緊張は否が応でも上がっていきました。
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