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坂門

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おばあさんの老犬

ベルの音は風雲急を告げる

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 リン、リン、リンと伝声管を通じてベルの音が三回届く。
 その音は静かに受付にいるふたりへのメッセージを伝える。

「⋯⋯フィリシア」

 アウロの静かな呼び掛けにフィリシアは黙って頷いて見せた。
 静かなベルの音がふたりの心を揺さぶる。
 表面上は変わらず穏やかに、心の焦りを包み隠し穏やかな笑顔を作っていった。

「申し訳ありません、急患が入りました。隣にいるフィリシアが引き継ぎますので、少々お待ち下さい」

 努めてにこやかに客に相対する。極力急ぐ素振りを見せずに受付から消えて行くアウロは、そのまま診察室へと飛び込んで行った。

◇◇◇◇

 診察台に広がって行く真っ赤な血。私はその光景に完全に思考も体も停止してしまいました。脳裏に焼き付く、広がる赤い波紋。それだけが、私の視界を覆っていきます。
 頭の片隅でぼんやりとリン、リン、リンと緊急を告げるベルの音が聞こえ、私の思考がゆっくりと動き始めます。
 緊急⋯⋯急がないと⋯⋯。

「⋯⋯エレ⋯⋯ナ⋯⋯エレナ!!」

 ラーサさんの叫びで我に返りました。私の目の前の光景に委縮してしまい、答える事が一瞬出来ませんでした。

「エレナ! バッグして! 出来るでしょう!!」
「は、はい!」

 モモさんの怒号にも近い呼び掛けに、投げられた呼吸器を老犬の鼻先に持って行きました。ただただ無心にバルーンを押して空気を送り込んで行きます。
 ラーサさんが手早く点滴のルートを確保していきました。何本もの点滴瓶が点滴台にぶら下がり、モモさんはメスやハサミなどが入ったトレイを診察台の傍らに少しばかり乱暴に準備すると、たらいに入っている消毒液に腕まで突っ込み消毒していました。
 緊迫する空気に圧倒されます。ヒリヒリと刺し込む空気に吐きそうな程の緊張感を覚えます。焦燥は片時も消える事なく診察室を覆い、空気を重くしていました。
 ふたりの無駄のない動きに圧倒されながら、私は愚直に与えられた仕事を全うするだけです。

「ラーサどう?」
「まだ、もうちょい(麻酔)入れないと。エレナ、この仔が目を閉じて、呼吸が深くなったら教えて、いい!?」
「わかりました」

 ラーサさんは激しい口調で点滴瓶を睨みます。私もこの仔の表情に集中していきました。
 出来る事をする。
 自身を叱咤していきました。
 
 一瞬の無言状態が緊迫感をさらに押し上げます。
 診察台の上、何度か瞬きをするとトロンとした目を見せ、ゆっくりと深い呼吸眠を繰り返します。

「眠りました」
「カウントするよ。10、9、8、7、6⋯⋯」

 ラーサさんがカウントを始めるとアウロさんが扉から飛び込んで来ました。辺りの様子を伺うとすぐにモモさんにエプロンとマスクとゴーグルを装着していきます。

「モモ、この仔の名前は?」
「コロよ」
「よし、コロ頑張れ。すぐに治してあげるからね」

 アウロさんは眠りに落ちて行くコロに声をかけ、準備を進めます。
 モモさんはメスを握り、ラーサさんのカウントを待ちました。

「⋯⋯3、2、1。仰向けにするよ。1、2、3」

 仰向けになったコロ。
 アウロさんが素早くお腹の毛を剃っていきます。
 桃色の肌が剝き出しになると、モモさんの瞳が鋭さを見せました。

「始めます」

 モモさんの静かな声に診察室の緊張が破裂しそうなほど跳ね上がり、次の瞬間にはみなさんは落ち着いた表情見せます。私はこれから起こる事に、ただただドキドキとひとり緊張を見せていました。
 モモさんの握るメスが、スーっと柔肌を縦に撫でると皮膚がふたつに割れていきます。鮮血が切り口に沿ってじんわりと流れ落ちて行き、内臓が露わになりました。普通だったら顔を背けたくなるのかも知れませんが、不思議とそんな気持ちにはなりません。深い寝息を刻むコロに頑張れ、悪い所までもう少しだからと心の中でずっと応援を続けていました。

 モモさんは感触を確かめながら、さらに奥へとメスを進めます。
 戸惑う事のない鮮やかな手技。
 その淀みないメスの軌道に合わせて、アウロさんがモモさんの視界を確保していきます。切り口を拭い、ヘラ状の金属で皮膚を押し開いていきました。

「心拍は安定。エレナ呼吸は?」
「大丈夫です」

 ラーサさんが聴診器ステートを当てながら、私に確認してきました。
 私は呼吸に合わせて、バルーンを押し込んでいきます。ラーサさんと私の声はモモさんに届いているはずです。メスを握る手は止まる事なく元凶へと進んで行きます。

「ぅく⋯⋯」

 モモさんが血飛沫を浴びて、小さく呻きました。マスクやゴーグルに赤い染みが跳ね上がります。どうやら元凶へとたどり着いたようです。モモさんの手が一瞬止まり、アウロさんがモモさんのゴーグルを拭いていきます。

「メス」

 モモさんの手にアウロさんが新しいメスを渡します。

「あった。これね⋯⋯」
「どこ?」

 ラーサさんが点滴瓶を睨みながら、問い掛けます。

「子宮⋯⋯。これは⋯⋯」
「どうしたの?」

 モモさんが言い淀み、ラーサさんがモモさんを覗きました。モモさんはトレイにコトっと切り取った子宮を置きます。
 モモさんが険しい顔を見せると、それを見たラーサさんも同じ様に険しい顔をしました。
 何か芳しくない事が起きているのでしょうか? 私は心配そうに帰って行ったおばあさんの後ろ姿を思い出し、心臓がドキドキしてしまいます。
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