これに呼び名をつけるなら

ありと

文字の大きさ
上 下
8 / 11

それを、日常に変えてしまえば

しおりを挟む

あの人に挨拶をした。隣に居る事が出来た。


最初に挨拶をした時は、気が付かないみたいで。もう一度、お早うございますと言ったら、僕の顔より少し下から視線が上げられて。驚いた様に大きくなった目は・・・何だか驚いた子犬みたいで。
そんなあの人は挨拶を、返してくれた。

初めて聞く声、初めて間近で視線を合わせて、僕に気付いたあの人と言葉を交わした。

そのまま隣のつり革に掴まって、あの人の隣の空間を自分のものにした。
・・・いつもの、ふんわりとしている空気は戸惑う様な、微妙な空気になってしまっていたけど、拒絶するような感じはない・・・と思った。
隣に立つあの人は、いつもの様にスマホを見ていて・・・コッソリと覗きました。ニュースを読んでた。
僕の肩位におでこがあるなら、身長は160位だろうか。長めのショートの黒髪が耳に掛けられて、その髪からちょっと見える耳が可愛くて。

挨拶以外は何も話せなかったけど、十分だった。今までは、同じ車両で視界の端に懸命にその姿を捉えるのが精一杯だったんだ。

今・・・すごい、近い。

窓に並ぶ姿がうっすらと映っているのを見て、隣を向きたい自分をどうにか抑える。
心臓は短距離走をした直後くらいにヤバいし、内心は舞い上がりまくってるけど、無表情を装わなければ、顔に出せば引かれてしまう有り様になるだろう。

そんな時間はあっという間で、いつもの駅に着いてしまえば、あの人は僕の隣からすっと居なくなってしまう。その瞬間、無意識に伸ばした手に焦った僕の口から、咄嗟に言葉が飛び出した。

「じゃあ、また」

僕、もう少し何かなかったのか?
自分でも呆れる。どうせなら、あの人の事が少しでも分かるような・・・気の利いた言葉が出てきたら。現国も古文も、こういう時に使えなければ成績が良かろうが、テストで良い点を採ってようが、何の意味も無い。

そんな意味の無い後悔をしていると、振り返ってくれたあの人が言った。

「はい、また」

あの人は、はそう言った。
また、挨拶をして良いのだろうか。また、隣に・・・居ても良いのだろうか。

電車を降りてホームを歩くあの人の後ろ姿を、ずっと目で追ってしまうのは、いつもと同じだけど。それ以外は何もかもが違う、朝だった。




次の日は、あの人は電車に乗っていなくて。
がったりした。ものすごく、ガッカリした。家に帰るか、このまま電車に乗って終点まで行って折り返して来たいくらい、残念で。

毎日、この電車に乗っていない事は知っていたのに。

昨日の事で、舞い上がっていた自覚はある。スゴくある。あの後、学校に着いて授業が始まって、いつも通りの時間に少し落ち着いたけど。
初めて聞いた声が、近くで視線を合わせた目が、黒髪から覗いた耳が・・・もう、頭から離れなくて。
自分がおかしくなったかと、思う程だった。

今日、あの人に会ったら、それこそ不審者みたいになっただろうと思う・・・これで、良かったのかもしれないと、がっかりしつつホッとして・・・がっかりした。



それで、今日はあの人を車内に見つけた。

挨拶をして、今日はすぐに気付いて挨拶を返してくれた。その後、今度こそ何か気の利いた言葉を言わなきゃと、無意識に肩の横にある黒髪を見ていた僕に、ふわりとあの人の声が聞こえた。

「・・・かな?」

あ、折角の声を聞き逃した・・・違う、脳が混乱して意味を理解出来なかった。
何て言ったんだろう、初めて挨拶以外の言葉が、彼女が僕に話しかけてくれたのに。

焦ったあげく、僕の口からは名前と歳が滑り出た。何で、自己紹介してるんだ、僕は。

・・・ああ、名前だ。
僕は、あの人の、彼女の名前が知りたいんだ。

僕の自己紹介が唐突だったのだろう。
彼女は、こちらを見て返事をして、視線を窓の方へ戻して。

・・・名前は、名前を返し教えてはくれなくて。

だからもう一度、自分の名前を繰り返した。“名前を教えて欲しい”とは・・・言えない。普通に言えない、だろ?

ふっとこちらを見上げた彼女が、じっと僕を見た。その、少したれ目ぎみの、その目が何かに気づいたみたいに少し大きくなって、それから僕じゃない何処か遠くを見る様に・・・考え事をする様に視線が合わなくなった。

顔を向き合わせて隣にいるのに、ぶわっと遠くに離されたみたいだったけど。

彼女のいつも降りる駅に着いて声をかければ、はっとして焦った様子に少しホッとして。
彼女が言った“ありがとう”が嬉しくて。
ホームから僕の方へ、ペコリと頭を下げた彼女に自然に笑顔で手を振っていた。

「ーーーあ」

電車が走り出して、一瞬しか見えなかったけど。絶対に・・・笑ってた。少しだけ、ふわって。あの人の、いつもの雰囲気と同じ感じの笑顔。


名前を知ることは出来なかったけど、それでも。



明日は、会えるだろうか。また、挨拶をして・・・隣に、あの電車に居るあの時間の、彼女の隣にまた居られるなら。


・・・、そう思った。




しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

UNNAMED

筆名
ライト文芸
「——彼女は、この紛い物のみたいな僕の人生に現れた、たった一つの光なんです!——」 「——君はね、私にはなーんの影響も及ぼさない。でも、そこが君の良さだよ!——」  自身への影響を第一に考える二人が出会ったのは、まるで絵に書いたような理想のパートナーだった。  紛い物の日々と作り物の事実を求めて、二人の関係は発展してゆく——    これはtrueENDを目指す、世にありふれた物語。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

やりマンシリーズ

田中葵
ライト文芸
貧富の差に関わりなくアホは生息している。

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

アルバイトで実験台

夏向りん
BL
給料いいバイトあるよ、と教えてもらったバイト先は大人用玩具実験台だった! ローター、オナホ、フェラ、玩具責め、放置、等々の要素有り

私と継母の極めて平凡な日常

当麻月菜
ライト文芸
ある日突然、父が再婚した。そして再婚後、たった三ヶ月で失踪した。 残されたのは私、橋坂由依(高校二年生)と、継母の琴子さん(32歳のキャリアウーマン)の二人。 「ああ、この人も出て行くんだろうな。私にどれだけ自分が不幸かをぶちまけて」 そう思って覚悟もしたけれど、彼女は出て行かなかった。 そうして始まった継母と私の二人だけの日々は、とても淡々としていながら酷く穏やかで、極めて平凡なものでした。 ※他のサイトにも重複投稿しています。

処理中です...