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オーガ令嬢の結婚
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「うわぁぁあああ!!びゃぁぁあああん!!!」
季節の花が咲き誇る、王城の庭園にてまるで似つかわしくない泣き声が響いた。
悲鳴の主はこの国の第一王子、リュタンのものである。
「だっ、誰か!おい、お前、あのオーガをなんとかしろぉ!!」
「殿下、リュタン殿下!落ち着いてください!!」
「これが落ち着いていられるかぁ!」
泣きながらリュタンが差した指の先には、十歳の年齢に見合った桃色のドレスをまとった令嬢が淑やかに椅子に座っていた。とはいうもの、レースやシフォン生地がふんだんに使われたかわいらしいドレスは、かわいそうになるほど左右に伸び切っている。
令嬢、と紹介されたとしても二度見、いや、三度見してしまうだろう。
隣に座る実の父より頭一つ分は背も高く、横幅は二倍以上ある。盛り上がった上腕二頭筋、パンパンに張った胸筋、見えないけれど、割れた腹筋はカッチカチだろうと想像もできる。
そして、その見事な筋肉の上に載っているのは、オーガ、としか表現できないような醜い容貌。髪はザンバラ、灰色の肌に潰れた鼻、乱杭歯は下あごの左右からはみ出し、天を向いている。唯一、肉に埋もれた瞳だけは奇麗な紫水晶の色だった。
「リュタン、婚約者殿にその態度はなんだ!」
「そうよ、トゥリーチェ嬢に謝罪なさいっ」
国王と王妃が急いでとりなすが、リュタンのヒステリーは増々ヒートアップするばかりだった。
「こっ、これが婚約者?こんな化け物と結婚なんかできるか!ふざけるなあっ!!」
「ほう、第一王子殿下はうちの可愛い娘がお気に召さないと申されますか」
ニコニコと笑顔を浮かべていたシトリン公爵の顔からスッと表情が抜け落ちた。シトリン公爵はとうに三十は越えた子持ちだというのに、若々しい容貌は衰えを見せず、未だに社交界に出ればもてはやされる程の美貌の主だ。目が笑っていない美形の顔ほど怖いものはない。
「す、すまない、シトリン公。リュタンには少し荷が重そうだ」
「ミュカエル、あなたはどうかしら?」
妃殿下が隣でガタガタと震えている第二王子に声をかけた。ミュカエルはひっ!と息を飲み、それでも果敢に立ち上がった。
「と、とぅ、トゥリーチェ嬢、ははは初めまして」
「初めまして、第二王子殿下。トゥリーチェ・シトリンと申します」
第二王子が席を立ったので、オーガ、もといトゥリーチェも立ち上がり、ゆったりと腰をかがめた。見た目に反し、ずいぶん優雅なお辞儀であった。
「あなたがわたしの婚約者になる方かしら?」
「ふぐっ……」
いきなり第二王子が白目をむいて倒れた。幸い、背後に控えていた騎士が見事にキャッチして大事には至らなかった。
「陛下、第二王子殿下も我が娘を気に入らないようですね。私としましても、可愛い娘を無理に王家に嫁がすつもりもありませんので」
「まっ、待ってくれ!」
シトリン公が腰を浮かしかけたところで、国王が真っ青になりながら、近くの者に素早く耳打ちをした。
「実はもう一人、王子がおるのだ。今から呼ぶので、今しばし待ってほしい」
「そういえば、第三王子殿下のお姿がありませんでしたな」
公爵の言葉に、トゥリーチェが小首をかしげた。最も、周りからしてみると実父に対して殺気のこもった鋭いガンを飛ばしてるようにしか見えない。
「ああ、王子殿下は三人おられるんだよ。先ほどの第一王子殿下と第二王子殿下がこちらの正妃様のお子様で、第三王子殿下は側妃様のお子様だ」
納得したのかこくりとうなずいたトゥリーチェは、「その殺し、請け負った」といった感じの頼もしさに満ちていた。あくまでも、当人たち以外の目に映った姿には、だが。
「お呼びでしょうか」
戦場もかくや、と言う程の緊張感漲るこの場に、妙にのんびりとした声が響いた。リュタンやミュカエルに比べ、ずいぶん質素な服を着た男の子がこの場に表れた。
「ラング、お前の婚約者、トゥリーチェ嬢だ」
「え、わたしの婚約者、ですか?」
ラング、と呼ばれた少年は、細い目で精一杯瞬きした。キョロキョロと周りを見回し、ピンクのドレスをまとったガチムチに目を止めた。ラングはまるで踊るような足取りで、オーガの前へと進み、ひざまずいた。
「ラング・ルイエンタールです。初めまして、トゥリーチェ様」
「初めまして、トゥリーチェ・シトリンです。第三王子殿下」
「本当にわたしの婚約者になって下さるのですか?」
不安そうな顔で、ラングが大分上にあるオーガの顔を見上げた。
「殿下こそ、わたしでよろしいのですか?」
オーガが紫水晶の瞳でジッと獲物を見下ろした。第一王子も第二王子もまともに目も合わなかったのに、この第三王子は恐れることなく真っ直ぐ視線を受け止めていた。
「あなたがわたしを選んでくれるのなら。よろしければラング、とお呼びください」
「それでは、わたしのことは、トト、と」
「愛称でお呼びしてもいいのですか?!」
驚いたようにラングが声を上げた。
「ええ、もちろん」
トゥリーチェの承諾に、ラングが破顔した。
金髪碧眼の見目麗しい第一王子や第二王子よりも、藁色の髪に起きてるのか寝ているのかわからないような目をした第三王子の方が度胸は据わっているようだ。
この人なら―――いや、この人がいい、とトゥリーチェは心を決めた。
「おい、お前。またあのオーガに会いに行くのか?」
ラングが王城の廊下を歩いていると、リュタンが目の前に現れた。
庭園の顔合わせから三年の月日が流れていた。
第一王子は十五、第二王子は十四、ラングは十三になっていた。
庭園で泣きわめいていたリュタンは、今では武の第一王子と呼ばれ、剣の腕を認められていた。
白目をむいてひっくり返っていたミュカエルは、智の第二王子として勉学に抜きんでていた。
そして、ラングは術の第三王子として、魔法の才を伸ばしていた。
「はい。トトはわたしにはもったいないくらいの令嬢です」
「ほんと酔狂だな。尤も、お前の相手をしてくれるのは、あのオーガ令嬢くらいか」
リュタンは小ばかにしたように鼻で笑った。
「トトとシトリン公爵様のおかげで、思う存分魔法を研究できるようになりました。いくら感謝してもしきれません」
第三王子、とは言っても、ラングの母である側妃は弱小国の王女だった。いわゆる、人質として嫁いできた。もともと体の弱かった王女はラングを生んだ後、そのまま儚くなった。後ろ盾もないラングは離宮へと押し込まれ、いなかったものとして息をひそめるように生きていた。
そんなラングに転機が訪れたのは、トゥリーチェとの婚約が調ってからだった。
シトリン公爵がラングの後ろ盾についてからは、愛娘に相応しい相手となるよう、何かと手を回してくれたのだ。城内での待遇もよくなり、優秀な家庭教師の手配に始まり、彼専用の魔法のための研究所まで王城に近い公爵邸の敷地内に作ってくれた。
ラングは喜び勇んで公爵邸へと通う毎日だった。
「ふん。いくら公爵家の力が魅力的だとしても、俺はあんな女、願い下げだな」
「兄上が本気になったらわたしでは勝てないので、トトが兄上の好みでなくて本当によかったです」
ヘラリと笑うラングを、まるで信じられないという顔でリュタンが見つめた。
「お前は見目も悪いが、頭、いや、目も悪いのだったな。まぁ、せいぜい、俺にその役が回ってこないよう、うまくやれよ」
嫌味すら通じない末弟に毒気を抜かれ、第一王子は背を向けた。
しかし、釘をさすことだけは忘れない。
ラングがトゥリーチェに愛想をつかされたら、自分にあの化け物が回ってくるかもしれないという恐怖があるからだ。それほど、王国内のシトリン公爵家の力は無視できないほど強力だったのだ。
「そろそろ休憩されたらいかがですか?」
その声に、ラングは鼻がくっつく勢いで読みふけっていた分厚い魔導書から目を上げた。
毛むくじゃらの手の甲に鋭利に尖った爪、人の頭を熟れたトマトのように潰せるくらいの握力の有りそうな手が、二回りも小さなティーソーサーを音もなく机上に置いた。
ラングはぐっと背中を伸ばし、まるで今目が覚めたかのように周囲をぐるりと見まわした。
公爵邸にラングのためだけに作られた研究所。壁に添った本棚には溢れるほどの魔導書、研究用の道具があちこちに散らかってたはずが、キレイに片づけられていた。ラングが読書に没頭している間に、トゥリーチェが片づけてくれたに違いない。自分には本当にもったいないくらい、できた婚約者だ。
なにより、王城にいるよりもずっと居心地がいい。
なぜなら、ここにはトトがいるから。
「トト」
「また目がお悪くなったのではないですか?」
感謝の気持ちと、たっぷりの愛情をこめて、ラングは愛しい婚約者の名を呼んだ。
トトの肉詰めソーセージのような指が、そっとラングの前髪を持ち上げた。
「うーん、ちょっと困ってるんだよねぇ。これ以上目を細めても見えにくくなってきて」
「なぜ、眼鏡をかけないのですか?」
トゥリーチェの言葉に、ラングはばつが悪そうな表情を浮かべた。
「だって、眼鏡をかけたら不細工が余計不細工になるでしょ?もしトトに嫌われたら、と思うと」
「まさかそんな理由で、今まで不便を我慢してきたのですか?」
「それが一番大事なことだよ。トトに嫌われたら、生きている意味なんてないもの」
トゥリーチェが厳つい肩をすくめて、はぁ、とため息をついた。ラングはそんな婚約者を怯えたような目で見つめた。今ではさらに逞しく、大きく成長したトゥリーチェの姿そのものに恐怖しているわけではない。あくまでも、その心が離れていってしまう、その一点のみに恐れを感じているのだ。
「わたしがあなたを見目で嫌うなんて、ありえませんわ。あなたこそ、わたしがお嫌じゃないのですか?」
「トトのことを?!初めて会った時から澄んだきれいな紫水晶の瞳も、穏やかで優しい声色も、淑やかな性格も全て大好きだよ!!」
「そんなに手放しで褒められると、恥ずかしいですわ。でしたら、ラングが眼鏡をかけただけで嫌いになるはずないとお分かりになって?」
すでに用意していたのだろう、トゥリーチェがそっと開いた手のひらの上に眼鏡が乗っていた。
「変だって、笑わないでね」
「どんなラングでも、あなたがあなたのままなら好きですわ」
ニヤリ、と笑みを浮かべたトゥリーチェの顔は、敵を殲滅した後の残酷な喜びを表しているようだった。ラングにとっては、恥ずかしがって浮かべた照れ笑いにしか見えなかったが。
「ラングの瞳の色は、まるで黄昏のような色だったのですね」
眼鏡をかけたラングは、よく見える視界にいつも細めていた目を見開いた。ぼんやりとしか感じていなかった周りがはっきりとよく見える。今までは色や形、気配や匂い、声で認識していた世界が、色鮮やかに目に飛び込んでくる。もちろん、トゥリーチェの姿もくっきりと見えた。
「トト。トトの顔もよく見えるよ!」
「わたしの顔を見た御感想はいかがですか?」
「もちろん、想像通りだよ。いや、想像以上だよ!トト、わたしの可愛い婚約者殿」
ニコリを笑みを浮かべたラングは、不細工どころかリュタンやミュカエルに負けないくらいの美少年だった。
「ラング様、お慕いもうしておりますわ。よろしければわたくしと……」
「わたしには大事な婚約者がおりますので、そのお言葉は聞かなかったことにいたします」
「なっ、なぜですか?!あの化け物の方が、わたくしよりもいいというのですか?!」
ゴージャスな巻き毛に大きな瞳、メリハリのついたボディに蠱惑的な真っ赤なドレスをまとったご令嬢が、両手を揉み絞って声を上げた。
「そもそも、トトは婚約者がいるような男性に言い寄るような、はしたない真似は決してしません」
「それは、あの見た目じゃ―――」
「何を言っているのですか?トトは誰よりも魅力的で素晴らしい令嬢ですよ」
幸せそうに微笑むラングのその表情に、令嬢は頬を染めた。そして、その顔を向けるのは自分ではなく、オーガ令嬢と呼ばれているあの化け物だというのがいたく彼女の矜持を傷つけた。
「目が腐ってるんじゃないの?あんたなんて、あの化け物とお似合いよ!!」
癇癪を起こした令嬢は、淑女らしからぬ足取りでその場を去っていった。
深いため息をついて、ラングはその後ろ姿を見送った。
ラングは十六になっていた。
トゥリーチェに眼鏡姿を褒められ、今ではすっかり普段から使用している。よく見えないからと目を細めて過ごしていた時には見向きもされなかったのに、眼鏡をかけるようになってからは先ほどのようなあからさまな誘いが増えた。
ラングの瞳の、紫から橙色にグラデーションする不思議な色がミステリアスで素敵だと、年頃の令嬢に人気だ。
もちろん、ラングは角が立たないように断っている。
トゥリーチェにもいつ、誰に言い寄られたかは必ず報告していた。
ラングが何よりも恐れるのは、愛するトゥリーチェに見捨てられることだった。
今日は王城での社交シーズン最後の大舞踏会だった。
大舞踏会には主要貴族の当主及びその伴侶、今季デビュタントした令息令嬢以上の年齢なら出席できる大イベントである。
王族は壇上に並んで挨拶に来る貴族たちを迎える立場だった。そして、今夜この場は三人の王子たちの婚約者発表の場でもあった。王子たちの婚約者は予てより内定はしていたが、発表されるのは大舞踏会の場が通例となっていた。
「生意気だな。ヒョロヒョロと縦にばかり伸びて。今じゃ、僕の背を追い越すなんて」
「はぁ……すみません」
「おい、僕を見下ろすな。後ろに行けよ!」
壇上で横並びになっていたが、ミュカエルが不機嫌そうにラングに向かって吐き捨てた。
ミュカエルは勉学に邁進するあまり、体を動かすことを怠っていたようで、三人の中で少しばかり体躯に恵まれてない。
騎士団長に師事し剣の腕を磨いていたリュタンは、体格にも恵まれミュカエルの頭一つ分は背が高い。
ラングも基本はこもりきりで魔法の研究をしている方が好きだったが、それではいざという時トゥリーチェを護れないだろう、と公爵から護身術を学ぶことを強制された。おかげで健康的に引き締まった体躯になり、ミュカエルより頭半分ほど背も高くなった。成長期だし、おそらくもっと背も伸びるだろう。なにより、軽々とトゥリーチェを持ち上げることができた時に頑張ってよかった、と心から公爵に感謝した。
シトリン公爵夫妻とトゥリーチェが会場に表れたのは、遠くからからでもよくわかった。
会場内の空気が不穏にざわめいたのだ。そして、何よりトゥリーチェの今や大の大人より頭三つ分も飛び出た背丈は、一番奥の壇上にいても余裕で見つけられた。
ラングは国王に許可を取り、自ら婚約者を迎えに向かった。
「公爵様、公爵夫人様。よくいらっしゃいました。トト、待ってたよ」
「ラング、今日は素敵なドレスをありがとう」
ニタリ、と歪な笑いを浮かべたトゥリーチェの迫力に、遠巻きに囲んでいた貴族たちが更に三歩は退いた。
今日のトゥリーチェが着てたのは、ラングの瞳の色と同じ、肩の濃い紫から始まって、裾に向かって徐々に橙色へと変色していく変わった染めのドレスだった。ザンバラな頭髪には白金のティアラ、耳には揺れるピアス、華奢なネックレスはまるで首に食い込むようにぶら下がっていた。それらすべて、ラングがトゥリーチェにプレゼントしたものだ。
そんなトゥリーチェの姿をうっとりと眺め、ラングは恭しく手を差し出した。
「愛しい婚約者殿、わたしと踊ってください」
「ええ、喜んで」
ぽっかりと人垣が空いた中、巨体に似合わず優雅に踊るオーガと第三王子の姿は、会場内のどこからでもよく見えた。第三王子に懸想している令嬢は悔しさに唇をかむが、物理的にあのオーガに勝てるわけはない。あの巨木のような腕の一振りで、それこそ紙のように吹き飛ばされる未来しか見えない。
第一王子と第二王子も婚約者とダンスを踊るも、トゥリーチェたちに比べると印象が薄い。
赤みがかった金髪に緑の瞳の美丈夫なリュタンに、婚約者のジョアンナ嬢は栗色の豊かなウェーブの髪に黄味がかった緑色の瞳の麗しい令嬢であった。
落ち着いた色味の金髪に緑よりも青に近い色の瞳の中性的なミュカエルと、艶やかなローズブロンドに空色の瞳のタニア嬢はおっとりとした可愛らしい令嬢だ。
現在、この国は他国との軋轢もないおかげで、国内権力の平定に重きを置いていた。なので、三人いる王子たちはいずれも高位貴族令嬢との縁組みをしていた。
ダンスがひと段落したところで、国王が玉座から立ち上がった。
自然と、ホールにいた者たちは続く言葉を待つ姿勢に入った。
「今宵は今季最後の大舞踏会だ。みなのもの、各々楽しんでおることだろう」
そこで国王はゆっくりとホール全体を睥睨した。
「今夜ここで、我が息子たちの婚約者の発表をしたいと思う。リュタン、ミュカエル、ラングよ」
「はい、陛下」
息子たちはそれぞれの婚約者の手を引き、前へと進み出た。
「第一王子、リュタンよ。ルイエンタール国王の名において、サニート侯爵家の長女、ジョアンナとの婚約を認める」
「ありがとうございます」
「婚約の祝いに、そなたは何を望む?王の名において、できる限りの願いを叶えようぞ」
「では、わたくしめにサニート侯爵領の隣、エッシャー領の領地をお与えください」
「ふむ、確かそちらは領主の血筋が絶えて、今は王国の直轄地になっておったな。よかろう、エッシャー領にある鉱山と共に、所有を認めよう」
「有難き幸せ」
リュタンとジョアンナが首を垂れたまま下がると、ミュカエルとタニアが進み出た。
同じようなやり取りの後、ミュカエルは南の地の港を所望した。ククルカン侯爵は貿易業を手掛けているため、自由に使える港を所望することでより多くの利益を得ようとの考えだろう。次期大使として確定しているミュカエルは、諸外国へ行くにも自港があれば、なにかと都合もよい。
「さて、最後にラングよ。其方は何を望む?」
「陛下。できましたら、今この場にて、わたしとトゥリーチェとの婚姻をお認め下さい」
「婚約ではなく、結婚、とな?」
国王の驚きの声と共に、周囲の貴族たちにもどよめきが走った。
「はい。わたしたちはともに十六の年を迎え、成人しております。六年の長きに渡る交流により、お互いへの理解も深めました。かくなる上はこれ以上の婚約期間など必要なく、皆さまたちの前で婚姻を結ばせていただきたく思います」
「それでは、婚約記念の下賜はいらぬとな?」
「わたしにはトト……いえ、トゥリーチェ嬢との婚姻の証さえいただければ、他は何もいりません。結婚後は公爵家へ婿入りし、領地の発展に寄与したく思います」
正直、シトリン公爵家はすでに豊かな農地もあり、産業も工業も全てにおいて王国一であった。それに上乗せするような褒美を与えて己よりも裕福にするのもまた、業腹である。
それらを冷静に計算した王は、ラングの要求に応えることにした。
「よかろう。しかし、婚姻証明書などの用意にはしばし時間もかかる」
「僭越ながら、こちらに用意させていただきました」
国王の言葉に、シトリン公爵が進み出た。その手に持った婚姻誓約書には神殿の署名も入っており、後は国王の印璽のみが必要であることは一目でわかった。国王のほおが、ひくり、と引きつった。
第三王子と公爵家、すべてはこの場のために完璧な計画を立てていたということなのだろう。
まるで手のひらで転がされているような気分だが、よかろう、と許可を出した手前、今更その言葉を引っ込めることもできない。なぜか印璽までもちゃっかり手に握らされたので、諦めたように国王はその書類を認めることに同意した。
「今宵、この場にて、我が息子第三王子ラングとシトリン公爵家の長女トゥリーチェ嬢との婚姻を認める!」
国王の宣言に、急展開に引き気味な周囲の貴族たちから、まばらな拍手が起こった。
「トト、トト!やっと夫婦になれたんだね。これで今日からずっと一緒だよ」
「ええ、ラング。どれだけこの日を待ちわびたか……」
「二人の門出に、盛大な拍手を!!」
シトリン公爵の大音声で、続いてやけくそ気味に割れんばかりの拍手が沸き起こった。
ラングが新婦の幹のような太い首を引き寄せ、乱杭歯の生えたその場所にそっと己の唇を寄せた。
その瞬間、辺りがまばゆい光に包まれた。
手を打ち鳴らしていた人々は痛いほどの閃光に目を覆い、光の奔流からかばうように背を向けた。
ホールを一瞬で満たした光の洪水はあっという間に消え去り、次に訪れたのはしん、と耳に痛いほどの静寂だった。恐る恐る顔を上げた人々の上に、はらはらと数えきれないほどの花びらが舞い落ちてきた。
何が起こったのか、と立ち上がり見回した者たちは、信じられないものを目にした。
まるでこの世の物と思えない、精巧な像があった。
シルクのような流れ落ちるプラチナブロンドに白い額に弓なりの眉、きつく閉じられたまぶたを縁取る、長く繊細な睫毛はその内に閉じ込められた瞳の美しさを想像させた。鼻筋は通り、ほんのり染まった頬は桜色、みずみずしい唇は今にも言葉を発しそうなほど艶めかしい。耳たぶを彩るピアスに首元の華奢な作りのネックレス、体にまとうは濃い紫から橙色の黄昏、いや、暁色の見事な意匠のドレスだった。
全ての目が集まる中、プラチナブロンドの睫毛が震え、紫水晶よりもきらめく瞳が表れた。
彫像だと思われたのは、精霊の如き美しい少女であった。
「ラング……?」
唇からこぼれたのは、甘やかな愛しい人を呼ぶ吐息のような声。
「ここにいるよ、トト」
最初からその場にいたはずの第三王子に、遅ればせながら周囲も気づいた。
「やっと―――やっとだ。本当の君に会えた」
「ええ。とうとう誓約の魔法が解けたわ。わたしの素顔はあなたの好みだったかしら?」
「何も変わってないよ。透き通った紫水晶の瞳も、僕を呼ぶ優しい声も。僕の愛しい婚約者、いや、奥さんだ」
二人はどちらからともなく微笑み合い、腕を伸ばして力いっぱい抱きしめ合った。
その上に、祝福するかのごとく花びらがひらひら、ひらひらと降り積もる。
「え、第三王子と―――」
「トト……と、トゥリーチェ嬢?」
「まさか、あのオーガ?!」
第三王子と共にいたオーガ令嬢の姿が消え、精霊のような美少女が降臨していた。
周囲は状況が飲み込めず、混乱に陥っている。
「かくて呪いは打ち破られ、美しい姿を取り戻した我が娘は、愛する人と結ばれた」
パンパン、とこの場の空気を切り裂くかの如く、鋭く手を打ち鳴らす音が響いた。
シトリン公爵が、満足げに周囲を見渡していた。
「シトリン公爵殿、どういうことです?」
「あの少女は、もしやあの、醜かった公の娘御ですか?」
「シトリン公、やってくれおったな」
シトリン公爵に殺到していた貴族たちは、壇上からの地を這うような低い声に、尊き貴人の存在を思い出した。
「いいえ、陛下。これは運命です。機会は平等にあったはずです。しかし、それをものにしたのは、第三王子殿下だった。それだけのことです」
「後はわたくしが、お父様」
公爵の背後から、第三王子にエスコートされ、美しく生まれ変わったかのようなトゥリーチェが進み出た。膝を折り、最上級の淑女の礼を披露する。
「この姿ではお初にお目にかかります、国王陛下。シトリン公爵家が一子、トゥリーチェでございます。ご説明させていただいてよろしいでしょうか?」
「―――許す」
力なく手を振った国王に極上の笑みを返し、周囲の貴族たちにも聞こえるように、トゥリーチェは口を開いた。
「我がシトリン家は、精霊の血を引いているのはご存知ですね?故に直系の子供はあり得ないほどの美貌と、その上精霊の強い加護を持って生まれます。過去、その美貌と力を求め、幾度となく成功と断絶の憂き目にあって参りました」
その美貌と力に目がくらみ、王侯貴族に権力で無理やり愛する者と引き離され、不幸せになることが続いた。
そして、そのことを嘆いた精霊が、シトリン家の子孫に誓約の魔法をかけた。
それは誓約魔法というよりも、呪いのようなものだった。
『真に愛する者以外には、醜い姿に見えること。愛によって元の姿に戻ること』
その者の真の姿を見るには、恐れることなく、きちんとその目を真っ直ぐに見られるかどうか。
簡単なようでいて、難しい。
見た目は、思わず目を逸らしてしまう程の恐ろしい化け物だ。
しかし、その目をのぞき込めば分かった。
いかにその瞳の色が美しいか、その奥に知性のきらめきが輝いているか。
その誓約の魔法とは、婚姻という新しい誓約によって打ち破られるようになっていた。
破棄したり、白紙になるような婚約程度ではダメで、神によって認められた婚姻によって結ばれることが重要だった。
「そうして、今日この良き日に、わたしは元の姿を取り戻すことができました。心より感謝いたします」
花が綻ぶような笑みを浮かべたトゥリーチェは、幸せそうに隣の第三王子を見上げた。
今まで見下ろしていたラングとの身長差は逆転し、今ではトゥリーチェの方が見上げる立場だ。
「み、認めない!なぜ、出来損ないの第三王子がそのような美しい者と結ばれるのだ!」
「そうだ!王族との婚姻というのなら、もっと相応しい相手がいるではないか」
ふいに幸せそうに微笑み合う二人に、横やりが入った。
「精霊のごときその美しさは王妃にこそ相応しい。ラング、その妻を王太子たる私に差し出すのだ」
「何を言ってるのですか兄上。次期大使として諸外国との交渉を任される、この僕こそが彼の人を娶るべきです」
第一王子のリュタンと第二王子ミュカエルが互いを押しのけながら口を挟んできた。彼らの婚約者たちはその背後で、彼らの醜態を唖然と見つめていた。
「トゥリーチェ嬢、この国の王妃として私を支えてくれ」
「いや、私と共に諸外国を巡ろうではないか」
トゥリーチェの腰を抱くラングなど目に入らないのか、二人は争うように彼女の前にひざまずき、手を差し出した。己が選ばれるに違いない、とその目は妙な自信に満ちている。
「第一王子殿下は騎士に命令して、わたしを害そうとされましたよね。わたしが婚約者だと紹介された途端、泣いて喚いて『こんな化け物と結婚なんかできるか!ふざけるな!!』と言われたことは忘れておりませんことよ。その言葉、そっくりそのままお返しします。『ふざけるな』ですわ!!」
儚げな美しい見た目とは違い、トゥリーチェは第一王子に鋭い言葉の刃を投げつけた。
「で、では、私は?私はちゃんと、あなたにあいさつしたではないか?!」
「そうですね。そして目の前で白目をむいて倒れ、ついでに失禁されてたとお聞きしましたが?顔を合わせるたびに、下の心配をしないといけないような夫とはそもそもやっていけませんわ」
返す刀で今度は第二王子の矜持をズタズタに切り裂いた。
「と、トゥリーチェ嬢、その辺で勘弁してやってくれ。これでも一応、この国の未来を担っていく者たちなのだ」
見かねた国王の助け舟に、トゥリーチェはため息をこぼした。
やり足りない、という不満が見え隠れしたが、国王の顔を立てたのかトゥリーチェは口を閉じた。
「リュタン、ミュカエルよ。ラングとトゥリーチェは神の名のもとに婚姻が整った。そこに口を出すのは王族でもできはしない。大人しく諦めるがよい」
「なぜ―――そうだ、なぜ、最初から教えて下さらなかったのですか!初めから知っていれば……」
「そうです!もし教えてくれていたのなら、ほんの数年、あの見た目も我慢したというのに!」
国王の取り成しも耳に入らないのか、更に言い募る王子たちはまるで何かにとりつかれているかのようだ。ほんの少し前まで毛嫌いし、見下していた者に対して、手のひらを返したかのような反応もひたすら気持ちが悪い。
「それができなかったからこそ、誓約の魔法―――呪いだというのに」
とうとう国王が頭を抱えて俯いた。トゥリーチェも肩をすくめて、ホールの壁際に追い詰められたように並ぶ貴族の面々をぐるりと見まわした。
「では、最後にひとつ。噂好きの方々にご忠告申し上げますわ。この場での話を他の誰かに話そうとするのはお止めください。もし、話そうとしましたら、同じ呪いが降りかかると思ってくださいまし。話した方も聞いてしまった方も双方共に、その呪いは一生解けないので、よくよくお気を付けくださいね?」
国王が息子たちにこの秘密が明かせなかった、その答えが周知された。
誰もが少し前までのトゥリーチェの姿を忘れることはできない。
いくら噂好きの貴族とはいえ、あのような姿で一生を過ごすことと引き換えなら、口をつぐむ方を選ぶ。
「ええい、本当に忌々しい……その誓約さえなかったなら」
それまで国王の横で無言を貫いていた王妃から、怨嗟の声が零れた。王妃の射貫くような視線は、シトリン公爵その人に向かっていた。射殺しそうなというよりも、そこに見え隠れするほの暗い恋慕に気づいているのは、その隣に立つ公爵夫人ただ一人だった。
女性二人の視線が絡まり、先に顔をそむけたのは王妃の方だった。
何を隠そう、現王妃、元は侯爵令嬢であった彼女もまた、己の息子と同じ過ちを犯したのだった。
今から二十年前、侯爵令嬢だった彼女と社交界の人気を二分する、子爵令嬢がいた。身分的に決して王妃になれない爵位の子爵令嬢に、彼女は優越感を感じていた。その上、爵位だけは立派だが、見た目が醜すぎる公爵に求婚された子爵令嬢は、あろうことかそれを喜んで受け入れたのだ。
侯爵令嬢でもある彼女にも、先にシトリン前公爵から婚約の打診は来ていた。しかし、その息子の醜さを話に聞いていた彼女は会うこともなく、すっぱりとお断りしたのだ。美しい自分は王妃にこそ相応しい、と信じて疑わなかった。そして、醜い夫を持つであろう彼女を陰でせせら笑っていた。
だが、子爵令嬢と婚姻を結んだシトリン公爵は、誰もが見惚れる程の美丈夫になった。
大舞踏会で今の国王との婚約発表の場に表れたシトリン公爵夫妻を目にして、初めて目の前が真っ暗になるような絶望と羨望、渇望を覚えた。
最悪の場での一目惚れ故に、王妃はどんな些細なことでもシトリン公爵との縁を持ちたかった。
しかし、その望みもまた潰えた。
愚かな息子たちは、美しくなるであろうオーガ令嬢を拒否したのだ。
ギリリと唇を噛みしめた王妃は、口内に広がる鉄の味と共に更なる絶望と敗北を味わっていた。
「では、ご機嫌よう。そして、皆様に永遠の祝福を」
ある意味呪いの言葉と共に、トゥリーチェは腰をかがめてお手本のような礼を披露した。隣では第三王子、いや、次期公爵が同じように深々と頭を下げ、公爵夫妻と共に二人はその場を後にした。
国王が緘口令を布くまでもなく、この場であったことは公然の秘密となった。
「ラング。もしかしてわたしのこと、嫌いになりました?」
王城を辞して公爵邸へ向かう馬車の中で、トゥリーチェがしょんぼりと呟いた。ラングはその言葉の意味が分からず、首をひねった。
「こう見えてわたし、性格悪いんです。今までは見た目が見た目だし、少しでもいい印象を、と思ってお淑やかにしてましたけど、すごくストレスでした。なので、今までの鬱憤を晴らそうと、ついやりすぎちゃったな、って」
「いや、もっとやってもよかったと思うよ。それに、トトよりもわたしの方が性格悪いから安心して?」
ラングの言葉に、トゥリーチェは伏せていた顔を上げた。
「見下してた弟からの反撃も兄上たちの心に刺さるかもしれないけれど、それよりももっと、美しいご令嬢に罵倒される方が心が折れるかな、って。口を出さなかったわたしの方が腹黒だと思うよ?」
だからお互い様だよ、とラングはこともなげにそう言った。そして、ふっとそのほおを緩め、トゥリーチェの大好きな、へにゃりと力の抜けた笑いをその顔に浮かべた。
「初めて会った時から、トトを誰よりも愛してるよ」
「わたしもよ!」
夫の首にかじりついて幸せそうな新妻を、苦虫を噛み潰したような顔で睨む公爵と、それを取り成す公爵夫人を乗せ、馬車は夜の闇の中、公爵領へと走り続けた。
その後、王都内に数匹のオーガが現れ、騎士団が討伐、もしくは遠くの森へと追いやった、という噂が社交界に流れた。
真偽のほどは、不明だ。
▽▲▽▲▽
「うっ、ううぅ―――ひっく」
「誰か、そこにいるのか?」
その鳴き声は鬱蒼と茂った低木の奥、薄暗がりから聞こえてきた。
あまりにも小さく、哀れな泣き声に、細かな切り傷も気にせず、しゃにむに茂みに分け入る。
見つけたのは背を丸め、震える大きな背中。
「だ、誰?!」
振り返ったその顔は、涙と鼻水にまみれ、グチャグチャだった。だけど、薄暗がりでもキラキラと光を放つ、紫水晶のような瞳に目を奪われた。
「お前の瞳、宝石みたいできれいだな!」
「え?」
泣き声からして、小さな子が迷子になっているのかと思っていたけれど、想像よりもずいぶんガタイのいい少年のようだった。
いきなりそんなことを叫んだからだろうか。
少年の涙はすっかり引っ込んだようだった。
「ほら、そんなとこにいると、根っこが生えてカビまで生えちまうぜ!さっさと出よう!!」
手を差し伸べると、びくりと肩を震わせた。よくよく見ると、口の横から出血している。怪我をしているようだった。
「どうした、怪我が痛かったのか?それも手当てしてやるから、早くおいで」
図体のでかい少年は、それでもまごまごしていた。業を煮やして、ちょうど手が届いたうなじ部分の襟を思い切り引いてやった。バキバキと先ほどよりも大きな音を立てて、二人してその自然の檻から、陽光の下へと出た。
「さあ選べ!自分で立つか、もしくはこのまま引きずられるの、どっちがいい?」
「た、立ちます!立ちますから!!」
ぬぅっと立ち上がった少年は、想像以上に大きかった。上から覆いかぶさるように見降ろされ、思わず半歩、後ろに下がってしまった。
「でかいな!何を食べたらそんなに大きくなれるんだ?!」
「え……いや、これでも小食で、もっとたくさん食べろって、いつも怒られるんだけど」
「っかーっ!うらやましい!!そんな恵まれた体格、ぜひあやかりたいもんだ―――っと、そうだ、お前、怪我してたんだったな。ちょっと見せてみろ」
とはいっても、背は明らかにあちらの方がでかい。
ちょいちょい、とかがむよう指示し、顔の傷を調べた。
「お前、皮膚もだいぶ硬いな。それなのにこんな傷……もしかして、石でも当てられたのか?」
「あの、あんまり近づかないで……」
「ばっか、近づかなきゃ、怪我の具合が見られないだろうが!」
悪い癖で、つい右手を大きく振りかぶってしまった。
その動きを見た目の前の少年は、目をギュッとつぶり、大きな体を縮こまらせた。
「ごめん、怖がらせるつもりはなかったんだ」
慌てて腕を下ろした。
乱暴な友達とのやり取りの中で、互いに小突き合うなんて普通のことだと思っていた。初対面なのに、同じようにやろうとしたのは失敗だ。
この身体だけは大きな少年は、明らかに恐怖していた。
「だだ、大丈夫。僕は意気地なし、だから。もっと、しっかりしなくちゃ、いけないのに」
紫水晶の瞳が潤んで、ほろほろと雫が零れ落ちた。
「もったいないなぁ」
「え?」
「そんな大きくて強そうな体を持ってるなんて、それだけでも自慢できることなのに。ほら、しっかり立って、もうちょっと胸張ってみなよ!」
猫背をバシンと叩いて伸ばし、グッと胸を逸らさせてみた。
「これだけでも見違えたよ。かっこいいじゃん!」
「かっ、かっこい―――い?」
「どんなにがんばったってそんな立派な体、手に入らないからさ。ま、人間なんて、ないものねだりばかりだよ」
「あの、君は僕を見て醜い、と思わない、の?」
見上げれば、相変わらず潤んだ紫の瞳はキョロキョロと忙しなく動いていた。
「醜い、かな?どうだろう……わかんないや」
「もしかして君、目が悪い?」
「そんなことないよ!ちゃんとあんたの顔見えてるもの。あんたは隈もひどいし、顔色が悪そうだな。夜は夜更かしせず早めに寝ろよ。髪は……遺伝かな、父親を恨んでくれ。でも、額にかかってるその一房だけは、キラキラしててかっこいいぞ!大事にしな。そうか、歯だ。歯並び悪いから、ちゃんとご飯食べられないんだ。とりあえず、ゆっくりよく噛んでみたら?」
父親の職業が傭兵稼業なもんで、いろんな怪我を見慣れている。ひどい火傷痕や欠損した人なんかも、たくさん見て来た。頭髪の薄さに悩む人も。
そんな人たちに比べて、この少年は肌の色こそ不健康そうだが、一房だけある前髪といい、宝石のような瞳は単純にきれいだと思う。
「僕のこと、怖く、ないの?」
「まさか!泣き虫なだけの大きな男の子が怖いわけないじゃん」
ニカリと微笑めば、おずおずと少年もちょっと歪んだ笑みを見せてくれた。
「いいな、そのニヒルな笑い方!そうだ、自己紹介がまだだったな。あたしはジェシカ。しばらくは親父の仕事の都合でここらへんに住むって話だから、友達になってやるよ!」
「え……え?じぇ、ジェシカ?!お、女の子……?」
「おうよ!親父が傭兵なんてやってるもんだから、こんな感じで悪いけど。で、あんたは?」
「ルーン―――僕は、ルーン・シトリン」
「へぇ、ここシトリン公爵領と同じ名ま……」
「ラング・シトリンが僕の父だよ」
神速で土下座した。
そういえば、親父が言ってた。
「しばらく、シトリン公爵様の私兵としてやっかいになる」って。
雇用主だ、雇用主。
しかもお貴族様だったあああぁぁぁ!!!
後に傭兵たちをまとめ上げる、女傭兵ジェシカ・ローグと泣き虫公爵ルーン・シトリンの出会いである。
季節の花が咲き誇る、王城の庭園にてまるで似つかわしくない泣き声が響いた。
悲鳴の主はこの国の第一王子、リュタンのものである。
「だっ、誰か!おい、お前、あのオーガをなんとかしろぉ!!」
「殿下、リュタン殿下!落ち着いてください!!」
「これが落ち着いていられるかぁ!」
泣きながらリュタンが差した指の先には、十歳の年齢に見合った桃色のドレスをまとった令嬢が淑やかに椅子に座っていた。とはいうもの、レースやシフォン生地がふんだんに使われたかわいらしいドレスは、かわいそうになるほど左右に伸び切っている。
令嬢、と紹介されたとしても二度見、いや、三度見してしまうだろう。
隣に座る実の父より頭一つ分は背も高く、横幅は二倍以上ある。盛り上がった上腕二頭筋、パンパンに張った胸筋、見えないけれど、割れた腹筋はカッチカチだろうと想像もできる。
そして、その見事な筋肉の上に載っているのは、オーガ、としか表現できないような醜い容貌。髪はザンバラ、灰色の肌に潰れた鼻、乱杭歯は下あごの左右からはみ出し、天を向いている。唯一、肉に埋もれた瞳だけは奇麗な紫水晶の色だった。
「リュタン、婚約者殿にその態度はなんだ!」
「そうよ、トゥリーチェ嬢に謝罪なさいっ」
国王と王妃が急いでとりなすが、リュタンのヒステリーは増々ヒートアップするばかりだった。
「こっ、これが婚約者?こんな化け物と結婚なんかできるか!ふざけるなあっ!!」
「ほう、第一王子殿下はうちの可愛い娘がお気に召さないと申されますか」
ニコニコと笑顔を浮かべていたシトリン公爵の顔からスッと表情が抜け落ちた。シトリン公爵はとうに三十は越えた子持ちだというのに、若々しい容貌は衰えを見せず、未だに社交界に出ればもてはやされる程の美貌の主だ。目が笑っていない美形の顔ほど怖いものはない。
「す、すまない、シトリン公。リュタンには少し荷が重そうだ」
「ミュカエル、あなたはどうかしら?」
妃殿下が隣でガタガタと震えている第二王子に声をかけた。ミュカエルはひっ!と息を飲み、それでも果敢に立ち上がった。
「と、とぅ、トゥリーチェ嬢、ははは初めまして」
「初めまして、第二王子殿下。トゥリーチェ・シトリンと申します」
第二王子が席を立ったので、オーガ、もといトゥリーチェも立ち上がり、ゆったりと腰をかがめた。見た目に反し、ずいぶん優雅なお辞儀であった。
「あなたがわたしの婚約者になる方かしら?」
「ふぐっ……」
いきなり第二王子が白目をむいて倒れた。幸い、背後に控えていた騎士が見事にキャッチして大事には至らなかった。
「陛下、第二王子殿下も我が娘を気に入らないようですね。私としましても、可愛い娘を無理に王家に嫁がすつもりもありませんので」
「まっ、待ってくれ!」
シトリン公が腰を浮かしかけたところで、国王が真っ青になりながら、近くの者に素早く耳打ちをした。
「実はもう一人、王子がおるのだ。今から呼ぶので、今しばし待ってほしい」
「そういえば、第三王子殿下のお姿がありませんでしたな」
公爵の言葉に、トゥリーチェが小首をかしげた。最も、周りからしてみると実父に対して殺気のこもった鋭いガンを飛ばしてるようにしか見えない。
「ああ、王子殿下は三人おられるんだよ。先ほどの第一王子殿下と第二王子殿下がこちらの正妃様のお子様で、第三王子殿下は側妃様のお子様だ」
納得したのかこくりとうなずいたトゥリーチェは、「その殺し、請け負った」といった感じの頼もしさに満ちていた。あくまでも、当人たち以外の目に映った姿には、だが。
「お呼びでしょうか」
戦場もかくや、と言う程の緊張感漲るこの場に、妙にのんびりとした声が響いた。リュタンやミュカエルに比べ、ずいぶん質素な服を着た男の子がこの場に表れた。
「ラング、お前の婚約者、トゥリーチェ嬢だ」
「え、わたしの婚約者、ですか?」
ラング、と呼ばれた少年は、細い目で精一杯瞬きした。キョロキョロと周りを見回し、ピンクのドレスをまとったガチムチに目を止めた。ラングはまるで踊るような足取りで、オーガの前へと進み、ひざまずいた。
「ラング・ルイエンタールです。初めまして、トゥリーチェ様」
「初めまして、トゥリーチェ・シトリンです。第三王子殿下」
「本当にわたしの婚約者になって下さるのですか?」
不安そうな顔で、ラングが大分上にあるオーガの顔を見上げた。
「殿下こそ、わたしでよろしいのですか?」
オーガが紫水晶の瞳でジッと獲物を見下ろした。第一王子も第二王子もまともに目も合わなかったのに、この第三王子は恐れることなく真っ直ぐ視線を受け止めていた。
「あなたがわたしを選んでくれるのなら。よろしければラング、とお呼びください」
「それでは、わたしのことは、トト、と」
「愛称でお呼びしてもいいのですか?!」
驚いたようにラングが声を上げた。
「ええ、もちろん」
トゥリーチェの承諾に、ラングが破顔した。
金髪碧眼の見目麗しい第一王子や第二王子よりも、藁色の髪に起きてるのか寝ているのかわからないような目をした第三王子の方が度胸は据わっているようだ。
この人なら―――いや、この人がいい、とトゥリーチェは心を決めた。
「おい、お前。またあのオーガに会いに行くのか?」
ラングが王城の廊下を歩いていると、リュタンが目の前に現れた。
庭園の顔合わせから三年の月日が流れていた。
第一王子は十五、第二王子は十四、ラングは十三になっていた。
庭園で泣きわめいていたリュタンは、今では武の第一王子と呼ばれ、剣の腕を認められていた。
白目をむいてひっくり返っていたミュカエルは、智の第二王子として勉学に抜きんでていた。
そして、ラングは術の第三王子として、魔法の才を伸ばしていた。
「はい。トトはわたしにはもったいないくらいの令嬢です」
「ほんと酔狂だな。尤も、お前の相手をしてくれるのは、あのオーガ令嬢くらいか」
リュタンは小ばかにしたように鼻で笑った。
「トトとシトリン公爵様のおかげで、思う存分魔法を研究できるようになりました。いくら感謝してもしきれません」
第三王子、とは言っても、ラングの母である側妃は弱小国の王女だった。いわゆる、人質として嫁いできた。もともと体の弱かった王女はラングを生んだ後、そのまま儚くなった。後ろ盾もないラングは離宮へと押し込まれ、いなかったものとして息をひそめるように生きていた。
そんなラングに転機が訪れたのは、トゥリーチェとの婚約が調ってからだった。
シトリン公爵がラングの後ろ盾についてからは、愛娘に相応しい相手となるよう、何かと手を回してくれたのだ。城内での待遇もよくなり、優秀な家庭教師の手配に始まり、彼専用の魔法のための研究所まで王城に近い公爵邸の敷地内に作ってくれた。
ラングは喜び勇んで公爵邸へと通う毎日だった。
「ふん。いくら公爵家の力が魅力的だとしても、俺はあんな女、願い下げだな」
「兄上が本気になったらわたしでは勝てないので、トトが兄上の好みでなくて本当によかったです」
ヘラリと笑うラングを、まるで信じられないという顔でリュタンが見つめた。
「お前は見目も悪いが、頭、いや、目も悪いのだったな。まぁ、せいぜい、俺にその役が回ってこないよう、うまくやれよ」
嫌味すら通じない末弟に毒気を抜かれ、第一王子は背を向けた。
しかし、釘をさすことだけは忘れない。
ラングがトゥリーチェに愛想をつかされたら、自分にあの化け物が回ってくるかもしれないという恐怖があるからだ。それほど、王国内のシトリン公爵家の力は無視できないほど強力だったのだ。
「そろそろ休憩されたらいかがですか?」
その声に、ラングは鼻がくっつく勢いで読みふけっていた分厚い魔導書から目を上げた。
毛むくじゃらの手の甲に鋭利に尖った爪、人の頭を熟れたトマトのように潰せるくらいの握力の有りそうな手が、二回りも小さなティーソーサーを音もなく机上に置いた。
ラングはぐっと背中を伸ばし、まるで今目が覚めたかのように周囲をぐるりと見まわした。
公爵邸にラングのためだけに作られた研究所。壁に添った本棚には溢れるほどの魔導書、研究用の道具があちこちに散らかってたはずが、キレイに片づけられていた。ラングが読書に没頭している間に、トゥリーチェが片づけてくれたに違いない。自分には本当にもったいないくらい、できた婚約者だ。
なにより、王城にいるよりもずっと居心地がいい。
なぜなら、ここにはトトがいるから。
「トト」
「また目がお悪くなったのではないですか?」
感謝の気持ちと、たっぷりの愛情をこめて、ラングは愛しい婚約者の名を呼んだ。
トトの肉詰めソーセージのような指が、そっとラングの前髪を持ち上げた。
「うーん、ちょっと困ってるんだよねぇ。これ以上目を細めても見えにくくなってきて」
「なぜ、眼鏡をかけないのですか?」
トゥリーチェの言葉に、ラングはばつが悪そうな表情を浮かべた。
「だって、眼鏡をかけたら不細工が余計不細工になるでしょ?もしトトに嫌われたら、と思うと」
「まさかそんな理由で、今まで不便を我慢してきたのですか?」
「それが一番大事なことだよ。トトに嫌われたら、生きている意味なんてないもの」
トゥリーチェが厳つい肩をすくめて、はぁ、とため息をついた。ラングはそんな婚約者を怯えたような目で見つめた。今ではさらに逞しく、大きく成長したトゥリーチェの姿そのものに恐怖しているわけではない。あくまでも、その心が離れていってしまう、その一点のみに恐れを感じているのだ。
「わたしがあなたを見目で嫌うなんて、ありえませんわ。あなたこそ、わたしがお嫌じゃないのですか?」
「トトのことを?!初めて会った時から澄んだきれいな紫水晶の瞳も、穏やかで優しい声色も、淑やかな性格も全て大好きだよ!!」
「そんなに手放しで褒められると、恥ずかしいですわ。でしたら、ラングが眼鏡をかけただけで嫌いになるはずないとお分かりになって?」
すでに用意していたのだろう、トゥリーチェがそっと開いた手のひらの上に眼鏡が乗っていた。
「変だって、笑わないでね」
「どんなラングでも、あなたがあなたのままなら好きですわ」
ニヤリ、と笑みを浮かべたトゥリーチェの顔は、敵を殲滅した後の残酷な喜びを表しているようだった。ラングにとっては、恥ずかしがって浮かべた照れ笑いにしか見えなかったが。
「ラングの瞳の色は、まるで黄昏のような色だったのですね」
眼鏡をかけたラングは、よく見える視界にいつも細めていた目を見開いた。ぼんやりとしか感じていなかった周りがはっきりとよく見える。今までは色や形、気配や匂い、声で認識していた世界が、色鮮やかに目に飛び込んでくる。もちろん、トゥリーチェの姿もくっきりと見えた。
「トト。トトの顔もよく見えるよ!」
「わたしの顔を見た御感想はいかがですか?」
「もちろん、想像通りだよ。いや、想像以上だよ!トト、わたしの可愛い婚約者殿」
ニコリを笑みを浮かべたラングは、不細工どころかリュタンやミュカエルに負けないくらいの美少年だった。
「ラング様、お慕いもうしておりますわ。よろしければわたくしと……」
「わたしには大事な婚約者がおりますので、そのお言葉は聞かなかったことにいたします」
「なっ、なぜですか?!あの化け物の方が、わたくしよりもいいというのですか?!」
ゴージャスな巻き毛に大きな瞳、メリハリのついたボディに蠱惑的な真っ赤なドレスをまとったご令嬢が、両手を揉み絞って声を上げた。
「そもそも、トトは婚約者がいるような男性に言い寄るような、はしたない真似は決してしません」
「それは、あの見た目じゃ―――」
「何を言っているのですか?トトは誰よりも魅力的で素晴らしい令嬢ですよ」
幸せそうに微笑むラングのその表情に、令嬢は頬を染めた。そして、その顔を向けるのは自分ではなく、オーガ令嬢と呼ばれているあの化け物だというのがいたく彼女の矜持を傷つけた。
「目が腐ってるんじゃないの?あんたなんて、あの化け物とお似合いよ!!」
癇癪を起こした令嬢は、淑女らしからぬ足取りでその場を去っていった。
深いため息をついて、ラングはその後ろ姿を見送った。
ラングは十六になっていた。
トゥリーチェに眼鏡姿を褒められ、今ではすっかり普段から使用している。よく見えないからと目を細めて過ごしていた時には見向きもされなかったのに、眼鏡をかけるようになってからは先ほどのようなあからさまな誘いが増えた。
ラングの瞳の、紫から橙色にグラデーションする不思議な色がミステリアスで素敵だと、年頃の令嬢に人気だ。
もちろん、ラングは角が立たないように断っている。
トゥリーチェにもいつ、誰に言い寄られたかは必ず報告していた。
ラングが何よりも恐れるのは、愛するトゥリーチェに見捨てられることだった。
今日は王城での社交シーズン最後の大舞踏会だった。
大舞踏会には主要貴族の当主及びその伴侶、今季デビュタントした令息令嬢以上の年齢なら出席できる大イベントである。
王族は壇上に並んで挨拶に来る貴族たちを迎える立場だった。そして、今夜この場は三人の王子たちの婚約者発表の場でもあった。王子たちの婚約者は予てより内定はしていたが、発表されるのは大舞踏会の場が通例となっていた。
「生意気だな。ヒョロヒョロと縦にばかり伸びて。今じゃ、僕の背を追い越すなんて」
「はぁ……すみません」
「おい、僕を見下ろすな。後ろに行けよ!」
壇上で横並びになっていたが、ミュカエルが不機嫌そうにラングに向かって吐き捨てた。
ミュカエルは勉学に邁進するあまり、体を動かすことを怠っていたようで、三人の中で少しばかり体躯に恵まれてない。
騎士団長に師事し剣の腕を磨いていたリュタンは、体格にも恵まれミュカエルの頭一つ分は背が高い。
ラングも基本はこもりきりで魔法の研究をしている方が好きだったが、それではいざという時トゥリーチェを護れないだろう、と公爵から護身術を学ぶことを強制された。おかげで健康的に引き締まった体躯になり、ミュカエルより頭半分ほど背も高くなった。成長期だし、おそらくもっと背も伸びるだろう。なにより、軽々とトゥリーチェを持ち上げることができた時に頑張ってよかった、と心から公爵に感謝した。
シトリン公爵夫妻とトゥリーチェが会場に表れたのは、遠くからからでもよくわかった。
会場内の空気が不穏にざわめいたのだ。そして、何よりトゥリーチェの今や大の大人より頭三つ分も飛び出た背丈は、一番奥の壇上にいても余裕で見つけられた。
ラングは国王に許可を取り、自ら婚約者を迎えに向かった。
「公爵様、公爵夫人様。よくいらっしゃいました。トト、待ってたよ」
「ラング、今日は素敵なドレスをありがとう」
ニタリ、と歪な笑いを浮かべたトゥリーチェの迫力に、遠巻きに囲んでいた貴族たちが更に三歩は退いた。
今日のトゥリーチェが着てたのは、ラングの瞳の色と同じ、肩の濃い紫から始まって、裾に向かって徐々に橙色へと変色していく変わった染めのドレスだった。ザンバラな頭髪には白金のティアラ、耳には揺れるピアス、華奢なネックレスはまるで首に食い込むようにぶら下がっていた。それらすべて、ラングがトゥリーチェにプレゼントしたものだ。
そんなトゥリーチェの姿をうっとりと眺め、ラングは恭しく手を差し出した。
「愛しい婚約者殿、わたしと踊ってください」
「ええ、喜んで」
ぽっかりと人垣が空いた中、巨体に似合わず優雅に踊るオーガと第三王子の姿は、会場内のどこからでもよく見えた。第三王子に懸想している令嬢は悔しさに唇をかむが、物理的にあのオーガに勝てるわけはない。あの巨木のような腕の一振りで、それこそ紙のように吹き飛ばされる未来しか見えない。
第一王子と第二王子も婚約者とダンスを踊るも、トゥリーチェたちに比べると印象が薄い。
赤みがかった金髪に緑の瞳の美丈夫なリュタンに、婚約者のジョアンナ嬢は栗色の豊かなウェーブの髪に黄味がかった緑色の瞳の麗しい令嬢であった。
落ち着いた色味の金髪に緑よりも青に近い色の瞳の中性的なミュカエルと、艶やかなローズブロンドに空色の瞳のタニア嬢はおっとりとした可愛らしい令嬢だ。
現在、この国は他国との軋轢もないおかげで、国内権力の平定に重きを置いていた。なので、三人いる王子たちはいずれも高位貴族令嬢との縁組みをしていた。
ダンスがひと段落したところで、国王が玉座から立ち上がった。
自然と、ホールにいた者たちは続く言葉を待つ姿勢に入った。
「今宵は今季最後の大舞踏会だ。みなのもの、各々楽しんでおることだろう」
そこで国王はゆっくりとホール全体を睥睨した。
「今夜ここで、我が息子たちの婚約者の発表をしたいと思う。リュタン、ミュカエル、ラングよ」
「はい、陛下」
息子たちはそれぞれの婚約者の手を引き、前へと進み出た。
「第一王子、リュタンよ。ルイエンタール国王の名において、サニート侯爵家の長女、ジョアンナとの婚約を認める」
「ありがとうございます」
「婚約の祝いに、そなたは何を望む?王の名において、できる限りの願いを叶えようぞ」
「では、わたくしめにサニート侯爵領の隣、エッシャー領の領地をお与えください」
「ふむ、確かそちらは領主の血筋が絶えて、今は王国の直轄地になっておったな。よかろう、エッシャー領にある鉱山と共に、所有を認めよう」
「有難き幸せ」
リュタンとジョアンナが首を垂れたまま下がると、ミュカエルとタニアが進み出た。
同じようなやり取りの後、ミュカエルは南の地の港を所望した。ククルカン侯爵は貿易業を手掛けているため、自由に使える港を所望することでより多くの利益を得ようとの考えだろう。次期大使として確定しているミュカエルは、諸外国へ行くにも自港があれば、なにかと都合もよい。
「さて、最後にラングよ。其方は何を望む?」
「陛下。できましたら、今この場にて、わたしとトゥリーチェとの婚姻をお認め下さい」
「婚約ではなく、結婚、とな?」
国王の驚きの声と共に、周囲の貴族たちにもどよめきが走った。
「はい。わたしたちはともに十六の年を迎え、成人しております。六年の長きに渡る交流により、お互いへの理解も深めました。かくなる上はこれ以上の婚約期間など必要なく、皆さまたちの前で婚姻を結ばせていただきたく思います」
「それでは、婚約記念の下賜はいらぬとな?」
「わたしにはトト……いえ、トゥリーチェ嬢との婚姻の証さえいただければ、他は何もいりません。結婚後は公爵家へ婿入りし、領地の発展に寄与したく思います」
正直、シトリン公爵家はすでに豊かな農地もあり、産業も工業も全てにおいて王国一であった。それに上乗せするような褒美を与えて己よりも裕福にするのもまた、業腹である。
それらを冷静に計算した王は、ラングの要求に応えることにした。
「よかろう。しかし、婚姻証明書などの用意にはしばし時間もかかる」
「僭越ながら、こちらに用意させていただきました」
国王の言葉に、シトリン公爵が進み出た。その手に持った婚姻誓約書には神殿の署名も入っており、後は国王の印璽のみが必要であることは一目でわかった。国王のほおが、ひくり、と引きつった。
第三王子と公爵家、すべてはこの場のために完璧な計画を立てていたということなのだろう。
まるで手のひらで転がされているような気分だが、よかろう、と許可を出した手前、今更その言葉を引っ込めることもできない。なぜか印璽までもちゃっかり手に握らされたので、諦めたように国王はその書類を認めることに同意した。
「今宵、この場にて、我が息子第三王子ラングとシトリン公爵家の長女トゥリーチェ嬢との婚姻を認める!」
国王の宣言に、急展開に引き気味な周囲の貴族たちから、まばらな拍手が起こった。
「トト、トト!やっと夫婦になれたんだね。これで今日からずっと一緒だよ」
「ええ、ラング。どれだけこの日を待ちわびたか……」
「二人の門出に、盛大な拍手を!!」
シトリン公爵の大音声で、続いてやけくそ気味に割れんばかりの拍手が沸き起こった。
ラングが新婦の幹のような太い首を引き寄せ、乱杭歯の生えたその場所にそっと己の唇を寄せた。
その瞬間、辺りがまばゆい光に包まれた。
手を打ち鳴らしていた人々は痛いほどの閃光に目を覆い、光の奔流からかばうように背を向けた。
ホールを一瞬で満たした光の洪水はあっという間に消え去り、次に訪れたのはしん、と耳に痛いほどの静寂だった。恐る恐る顔を上げた人々の上に、はらはらと数えきれないほどの花びらが舞い落ちてきた。
何が起こったのか、と立ち上がり見回した者たちは、信じられないものを目にした。
まるでこの世の物と思えない、精巧な像があった。
シルクのような流れ落ちるプラチナブロンドに白い額に弓なりの眉、きつく閉じられたまぶたを縁取る、長く繊細な睫毛はその内に閉じ込められた瞳の美しさを想像させた。鼻筋は通り、ほんのり染まった頬は桜色、みずみずしい唇は今にも言葉を発しそうなほど艶めかしい。耳たぶを彩るピアスに首元の華奢な作りのネックレス、体にまとうは濃い紫から橙色の黄昏、いや、暁色の見事な意匠のドレスだった。
全ての目が集まる中、プラチナブロンドの睫毛が震え、紫水晶よりもきらめく瞳が表れた。
彫像だと思われたのは、精霊の如き美しい少女であった。
「ラング……?」
唇からこぼれたのは、甘やかな愛しい人を呼ぶ吐息のような声。
「ここにいるよ、トト」
最初からその場にいたはずの第三王子に、遅ればせながら周囲も気づいた。
「やっと―――やっとだ。本当の君に会えた」
「ええ。とうとう誓約の魔法が解けたわ。わたしの素顔はあなたの好みだったかしら?」
「何も変わってないよ。透き通った紫水晶の瞳も、僕を呼ぶ優しい声も。僕の愛しい婚約者、いや、奥さんだ」
二人はどちらからともなく微笑み合い、腕を伸ばして力いっぱい抱きしめ合った。
その上に、祝福するかのごとく花びらがひらひら、ひらひらと降り積もる。
「え、第三王子と―――」
「トト……と、トゥリーチェ嬢?」
「まさか、あのオーガ?!」
第三王子と共にいたオーガ令嬢の姿が消え、精霊のような美少女が降臨していた。
周囲は状況が飲み込めず、混乱に陥っている。
「かくて呪いは打ち破られ、美しい姿を取り戻した我が娘は、愛する人と結ばれた」
パンパン、とこの場の空気を切り裂くかの如く、鋭く手を打ち鳴らす音が響いた。
シトリン公爵が、満足げに周囲を見渡していた。
「シトリン公爵殿、どういうことです?」
「あの少女は、もしやあの、醜かった公の娘御ですか?」
「シトリン公、やってくれおったな」
シトリン公爵に殺到していた貴族たちは、壇上からの地を這うような低い声に、尊き貴人の存在を思い出した。
「いいえ、陛下。これは運命です。機会は平等にあったはずです。しかし、それをものにしたのは、第三王子殿下だった。それだけのことです」
「後はわたくしが、お父様」
公爵の背後から、第三王子にエスコートされ、美しく生まれ変わったかのようなトゥリーチェが進み出た。膝を折り、最上級の淑女の礼を披露する。
「この姿ではお初にお目にかかります、国王陛下。シトリン公爵家が一子、トゥリーチェでございます。ご説明させていただいてよろしいでしょうか?」
「―――許す」
力なく手を振った国王に極上の笑みを返し、周囲の貴族たちにも聞こえるように、トゥリーチェは口を開いた。
「我がシトリン家は、精霊の血を引いているのはご存知ですね?故に直系の子供はあり得ないほどの美貌と、その上精霊の強い加護を持って生まれます。過去、その美貌と力を求め、幾度となく成功と断絶の憂き目にあって参りました」
その美貌と力に目がくらみ、王侯貴族に権力で無理やり愛する者と引き離され、不幸せになることが続いた。
そして、そのことを嘆いた精霊が、シトリン家の子孫に誓約の魔法をかけた。
それは誓約魔法というよりも、呪いのようなものだった。
『真に愛する者以外には、醜い姿に見えること。愛によって元の姿に戻ること』
その者の真の姿を見るには、恐れることなく、きちんとその目を真っ直ぐに見られるかどうか。
簡単なようでいて、難しい。
見た目は、思わず目を逸らしてしまう程の恐ろしい化け物だ。
しかし、その目をのぞき込めば分かった。
いかにその瞳の色が美しいか、その奥に知性のきらめきが輝いているか。
その誓約の魔法とは、婚姻という新しい誓約によって打ち破られるようになっていた。
破棄したり、白紙になるような婚約程度ではダメで、神によって認められた婚姻によって結ばれることが重要だった。
「そうして、今日この良き日に、わたしは元の姿を取り戻すことができました。心より感謝いたします」
花が綻ぶような笑みを浮かべたトゥリーチェは、幸せそうに隣の第三王子を見上げた。
今まで見下ろしていたラングとの身長差は逆転し、今ではトゥリーチェの方が見上げる立場だ。
「み、認めない!なぜ、出来損ないの第三王子がそのような美しい者と結ばれるのだ!」
「そうだ!王族との婚姻というのなら、もっと相応しい相手がいるではないか」
ふいに幸せそうに微笑み合う二人に、横やりが入った。
「精霊のごときその美しさは王妃にこそ相応しい。ラング、その妻を王太子たる私に差し出すのだ」
「何を言ってるのですか兄上。次期大使として諸外国との交渉を任される、この僕こそが彼の人を娶るべきです」
第一王子のリュタンと第二王子ミュカエルが互いを押しのけながら口を挟んできた。彼らの婚約者たちはその背後で、彼らの醜態を唖然と見つめていた。
「トゥリーチェ嬢、この国の王妃として私を支えてくれ」
「いや、私と共に諸外国を巡ろうではないか」
トゥリーチェの腰を抱くラングなど目に入らないのか、二人は争うように彼女の前にひざまずき、手を差し出した。己が選ばれるに違いない、とその目は妙な自信に満ちている。
「第一王子殿下は騎士に命令して、わたしを害そうとされましたよね。わたしが婚約者だと紹介された途端、泣いて喚いて『こんな化け物と結婚なんかできるか!ふざけるな!!』と言われたことは忘れておりませんことよ。その言葉、そっくりそのままお返しします。『ふざけるな』ですわ!!」
儚げな美しい見た目とは違い、トゥリーチェは第一王子に鋭い言葉の刃を投げつけた。
「で、では、私は?私はちゃんと、あなたにあいさつしたではないか?!」
「そうですね。そして目の前で白目をむいて倒れ、ついでに失禁されてたとお聞きしましたが?顔を合わせるたびに、下の心配をしないといけないような夫とはそもそもやっていけませんわ」
返す刀で今度は第二王子の矜持をズタズタに切り裂いた。
「と、トゥリーチェ嬢、その辺で勘弁してやってくれ。これでも一応、この国の未来を担っていく者たちなのだ」
見かねた国王の助け舟に、トゥリーチェはため息をこぼした。
やり足りない、という不満が見え隠れしたが、国王の顔を立てたのかトゥリーチェは口を閉じた。
「リュタン、ミュカエルよ。ラングとトゥリーチェは神の名のもとに婚姻が整った。そこに口を出すのは王族でもできはしない。大人しく諦めるがよい」
「なぜ―――そうだ、なぜ、最初から教えて下さらなかったのですか!初めから知っていれば……」
「そうです!もし教えてくれていたのなら、ほんの数年、あの見た目も我慢したというのに!」
国王の取り成しも耳に入らないのか、更に言い募る王子たちはまるで何かにとりつかれているかのようだ。ほんの少し前まで毛嫌いし、見下していた者に対して、手のひらを返したかのような反応もひたすら気持ちが悪い。
「それができなかったからこそ、誓約の魔法―――呪いだというのに」
とうとう国王が頭を抱えて俯いた。トゥリーチェも肩をすくめて、ホールの壁際に追い詰められたように並ぶ貴族の面々をぐるりと見まわした。
「では、最後にひとつ。噂好きの方々にご忠告申し上げますわ。この場での話を他の誰かに話そうとするのはお止めください。もし、話そうとしましたら、同じ呪いが降りかかると思ってくださいまし。話した方も聞いてしまった方も双方共に、その呪いは一生解けないので、よくよくお気を付けくださいね?」
国王が息子たちにこの秘密が明かせなかった、その答えが周知された。
誰もが少し前までのトゥリーチェの姿を忘れることはできない。
いくら噂好きの貴族とはいえ、あのような姿で一生を過ごすことと引き換えなら、口をつぐむ方を選ぶ。
「ええい、本当に忌々しい……その誓約さえなかったなら」
それまで国王の横で無言を貫いていた王妃から、怨嗟の声が零れた。王妃の射貫くような視線は、シトリン公爵その人に向かっていた。射殺しそうなというよりも、そこに見え隠れするほの暗い恋慕に気づいているのは、その隣に立つ公爵夫人ただ一人だった。
女性二人の視線が絡まり、先に顔をそむけたのは王妃の方だった。
何を隠そう、現王妃、元は侯爵令嬢であった彼女もまた、己の息子と同じ過ちを犯したのだった。
今から二十年前、侯爵令嬢だった彼女と社交界の人気を二分する、子爵令嬢がいた。身分的に決して王妃になれない爵位の子爵令嬢に、彼女は優越感を感じていた。その上、爵位だけは立派だが、見た目が醜すぎる公爵に求婚された子爵令嬢は、あろうことかそれを喜んで受け入れたのだ。
侯爵令嬢でもある彼女にも、先にシトリン前公爵から婚約の打診は来ていた。しかし、その息子の醜さを話に聞いていた彼女は会うこともなく、すっぱりとお断りしたのだ。美しい自分は王妃にこそ相応しい、と信じて疑わなかった。そして、醜い夫を持つであろう彼女を陰でせせら笑っていた。
だが、子爵令嬢と婚姻を結んだシトリン公爵は、誰もが見惚れる程の美丈夫になった。
大舞踏会で今の国王との婚約発表の場に表れたシトリン公爵夫妻を目にして、初めて目の前が真っ暗になるような絶望と羨望、渇望を覚えた。
最悪の場での一目惚れ故に、王妃はどんな些細なことでもシトリン公爵との縁を持ちたかった。
しかし、その望みもまた潰えた。
愚かな息子たちは、美しくなるであろうオーガ令嬢を拒否したのだ。
ギリリと唇を噛みしめた王妃は、口内に広がる鉄の味と共に更なる絶望と敗北を味わっていた。
「では、ご機嫌よう。そして、皆様に永遠の祝福を」
ある意味呪いの言葉と共に、トゥリーチェは腰をかがめてお手本のような礼を披露した。隣では第三王子、いや、次期公爵が同じように深々と頭を下げ、公爵夫妻と共に二人はその場を後にした。
国王が緘口令を布くまでもなく、この場であったことは公然の秘密となった。
「ラング。もしかしてわたしのこと、嫌いになりました?」
王城を辞して公爵邸へ向かう馬車の中で、トゥリーチェがしょんぼりと呟いた。ラングはその言葉の意味が分からず、首をひねった。
「こう見えてわたし、性格悪いんです。今までは見た目が見た目だし、少しでもいい印象を、と思ってお淑やかにしてましたけど、すごくストレスでした。なので、今までの鬱憤を晴らそうと、ついやりすぎちゃったな、って」
「いや、もっとやってもよかったと思うよ。それに、トトよりもわたしの方が性格悪いから安心して?」
ラングの言葉に、トゥリーチェは伏せていた顔を上げた。
「見下してた弟からの反撃も兄上たちの心に刺さるかもしれないけれど、それよりももっと、美しいご令嬢に罵倒される方が心が折れるかな、って。口を出さなかったわたしの方が腹黒だと思うよ?」
だからお互い様だよ、とラングはこともなげにそう言った。そして、ふっとそのほおを緩め、トゥリーチェの大好きな、へにゃりと力の抜けた笑いをその顔に浮かべた。
「初めて会った時から、トトを誰よりも愛してるよ」
「わたしもよ!」
夫の首にかじりついて幸せそうな新妻を、苦虫を噛み潰したような顔で睨む公爵と、それを取り成す公爵夫人を乗せ、馬車は夜の闇の中、公爵領へと走り続けた。
その後、王都内に数匹のオーガが現れ、騎士団が討伐、もしくは遠くの森へと追いやった、という噂が社交界に流れた。
真偽のほどは、不明だ。
▽▲▽▲▽
「うっ、ううぅ―――ひっく」
「誰か、そこにいるのか?」
その鳴き声は鬱蒼と茂った低木の奥、薄暗がりから聞こえてきた。
あまりにも小さく、哀れな泣き声に、細かな切り傷も気にせず、しゃにむに茂みに分け入る。
見つけたのは背を丸め、震える大きな背中。
「だ、誰?!」
振り返ったその顔は、涙と鼻水にまみれ、グチャグチャだった。だけど、薄暗がりでもキラキラと光を放つ、紫水晶のような瞳に目を奪われた。
「お前の瞳、宝石みたいできれいだな!」
「え?」
泣き声からして、小さな子が迷子になっているのかと思っていたけれど、想像よりもずいぶんガタイのいい少年のようだった。
いきなりそんなことを叫んだからだろうか。
少年の涙はすっかり引っ込んだようだった。
「ほら、そんなとこにいると、根っこが生えてカビまで生えちまうぜ!さっさと出よう!!」
手を差し伸べると、びくりと肩を震わせた。よくよく見ると、口の横から出血している。怪我をしているようだった。
「どうした、怪我が痛かったのか?それも手当てしてやるから、早くおいで」
図体のでかい少年は、それでもまごまごしていた。業を煮やして、ちょうど手が届いたうなじ部分の襟を思い切り引いてやった。バキバキと先ほどよりも大きな音を立てて、二人してその自然の檻から、陽光の下へと出た。
「さあ選べ!自分で立つか、もしくはこのまま引きずられるの、どっちがいい?」
「た、立ちます!立ちますから!!」
ぬぅっと立ち上がった少年は、想像以上に大きかった。上から覆いかぶさるように見降ろされ、思わず半歩、後ろに下がってしまった。
「でかいな!何を食べたらそんなに大きくなれるんだ?!」
「え……いや、これでも小食で、もっとたくさん食べろって、いつも怒られるんだけど」
「っかーっ!うらやましい!!そんな恵まれた体格、ぜひあやかりたいもんだ―――っと、そうだ、お前、怪我してたんだったな。ちょっと見せてみろ」
とはいっても、背は明らかにあちらの方がでかい。
ちょいちょい、とかがむよう指示し、顔の傷を調べた。
「お前、皮膚もだいぶ硬いな。それなのにこんな傷……もしかして、石でも当てられたのか?」
「あの、あんまり近づかないで……」
「ばっか、近づかなきゃ、怪我の具合が見られないだろうが!」
悪い癖で、つい右手を大きく振りかぶってしまった。
その動きを見た目の前の少年は、目をギュッとつぶり、大きな体を縮こまらせた。
「ごめん、怖がらせるつもりはなかったんだ」
慌てて腕を下ろした。
乱暴な友達とのやり取りの中で、互いに小突き合うなんて普通のことだと思っていた。初対面なのに、同じようにやろうとしたのは失敗だ。
この身体だけは大きな少年は、明らかに恐怖していた。
「だだ、大丈夫。僕は意気地なし、だから。もっと、しっかりしなくちゃ、いけないのに」
紫水晶の瞳が潤んで、ほろほろと雫が零れ落ちた。
「もったいないなぁ」
「え?」
「そんな大きくて強そうな体を持ってるなんて、それだけでも自慢できることなのに。ほら、しっかり立って、もうちょっと胸張ってみなよ!」
猫背をバシンと叩いて伸ばし、グッと胸を逸らさせてみた。
「これだけでも見違えたよ。かっこいいじゃん!」
「かっ、かっこい―――い?」
「どんなにがんばったってそんな立派な体、手に入らないからさ。ま、人間なんて、ないものねだりばかりだよ」
「あの、君は僕を見て醜い、と思わない、の?」
見上げれば、相変わらず潤んだ紫の瞳はキョロキョロと忙しなく動いていた。
「醜い、かな?どうだろう……わかんないや」
「もしかして君、目が悪い?」
「そんなことないよ!ちゃんとあんたの顔見えてるもの。あんたは隈もひどいし、顔色が悪そうだな。夜は夜更かしせず早めに寝ろよ。髪は……遺伝かな、父親を恨んでくれ。でも、額にかかってるその一房だけは、キラキラしててかっこいいぞ!大事にしな。そうか、歯だ。歯並び悪いから、ちゃんとご飯食べられないんだ。とりあえず、ゆっくりよく噛んでみたら?」
父親の職業が傭兵稼業なもんで、いろんな怪我を見慣れている。ひどい火傷痕や欠損した人なんかも、たくさん見て来た。頭髪の薄さに悩む人も。
そんな人たちに比べて、この少年は肌の色こそ不健康そうだが、一房だけある前髪といい、宝石のような瞳は単純にきれいだと思う。
「僕のこと、怖く、ないの?」
「まさか!泣き虫なだけの大きな男の子が怖いわけないじゃん」
ニカリと微笑めば、おずおずと少年もちょっと歪んだ笑みを見せてくれた。
「いいな、そのニヒルな笑い方!そうだ、自己紹介がまだだったな。あたしはジェシカ。しばらくは親父の仕事の都合でここらへんに住むって話だから、友達になってやるよ!」
「え……え?じぇ、ジェシカ?!お、女の子……?」
「おうよ!親父が傭兵なんてやってるもんだから、こんな感じで悪いけど。で、あんたは?」
「ルーン―――僕は、ルーン・シトリン」
「へぇ、ここシトリン公爵領と同じ名ま……」
「ラング・シトリンが僕の父だよ」
神速で土下座した。
そういえば、親父が言ってた。
「しばらく、シトリン公爵様の私兵としてやっかいになる」って。
雇用主だ、雇用主。
しかもお貴族様だったあああぁぁぁ!!!
後に傭兵たちをまとめ上げる、女傭兵ジェシカ・ローグと泣き虫公爵ルーン・シトリンの出会いである。
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