幕末群狼伝~時代を駆け抜けた若き長州侍たち

KASPIAN

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第16章 航海遠略策

5 久坂玄瑞対長井雅樂

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 樺山達と会った翌日、久坂は桜田の長州屋敷にいる長井雅樂を訪ね、『航海遠略策』の周旋を止めるよう説得を試みることにした。
「長井様に申し上げたき議があってここに参りました。よろしゅうございますかな?」
 屋敷内にある長井の部屋に入った久坂が長井に問いかける。
「何じゃ? 儂はこれからご老中の久世大和守様の元に参らねばならんけぇ、あまり暇はないぞ」
 長井が怪訝そうにしながら言う。
「決して長くはなりませぬけぇ、どうかご容赦のほどを」
 久坂が長井に暇をくれるようお願いする。
「……相分かった。手短に申すがよい」
 長井はやれやれと言わんばかりの様子だ。
「ありがとう存じます。では単刀直入に申し上げまする。どうか『航海遠略策』の周旋を止めて頂くことはできませぬでしょうか? はっきりゆうて『航海通略策』は皇国を誤った方向に導く愚策であります。長井様が『航海遠略策』の周旋を進めれば進めるほど、わし等長州人は帝の意を蔑ろにする不忠者の誹りを受けまする」
 久坂が長井に要件を端的に言うと、長井はむっとなり、
「お主は一体何をゆうとるんじゃ? 『航海遠略策』は我が殿のご意思により長州の藩是に決まったのであるぞ! 周旋を止めることは我が殿の意に反することじゃ! なして止めることなどできようか!」
 と久坂を叱りつけた。
「長井様は直目付でございましょう。直目付は藩政の監察を行うことは勿論、御殿様の御側近くにお仕えし、もし御殿様が道を過てばこれをお諫めせねばいけん立場なのであります。そのお諫めするお立場にあるはずの長井様が御殿様をお諫めることもせず、ただ傀儡のようにいいなりになっていては一体何のための直目付に御座いましょうか?」
 長井に叱りつけられた久坂は直目付の職務の内容を引き合いにだして反撃に出る。
「そもそもお主は何故『航海遠略策』が間違いであると断ずるのじゃ? 『航海遠略策』の何が気に食わぬと申すのじゃ?」
 長井が呆れた様子で久坂に尋ねる。
「『航海遠略策』は帝の攘夷のご意思を踏み弄る策じゃけぇ、わしはどねぇにしても許せんのであります。帝は堀田備中守に条約調印のための勅許を与える事を拒絶した時からずっと攘夷のご意思を示されとり、幕府や諸侯が一刻も早う破約攘夷を行うことを望まれとります。なのに『航海遠略策』は外夷と通商航海をすることを良しとし、姑息な幕府を助け、朝廷の力を抑えることまでも認めるような内容になっとります。これでは帝に対して余りにも無礼が過ぎまする」
 長井に尋ねられた久坂は『航海遠略策』を間違いだと断ずる理由について述べる。
「今の皇国を取り巻く海外情勢からして、いつかは鎖国を解いて西洋諸国と広く通商航海しなければいけんことはわしも重々承知しとりますが、それも今の条約を破棄して奴らと戦に及んだ上での話であります。今の条約は外夷の圧力に屈して一方的に結ばされた条約であり、その条約で奴らと対等に通商航海することなど到底無理な話なのであります。じゃけぇ今の条約を破棄をした上で再度対等な立場で条約を結びなおす必要があるのでありますが、奴らはそれを承知せんでしょうのできっと戦になりましょう。じゃが戦はわしの望むところであり、これを機に皇国の武備を拡張して、外夷に皇国の武威を、大和魂を存分に見せつけることができれば奴らも儂等の力を認め、改めて条約を結びなおす気になるに違いありませぬ」
 久坂は通商航海に関しての己の意見を述べると続けて、
「また『航海遠略策』は公武一和となって外夷に対することを唱えられとりますが、安藤対馬守や久世大和守等が牛耳っとる今の幕府は虎狼そのもの、仮に長井様が公武一和を望まれたとしても、対馬守等によって幕府の権威復興に好いように使われるだけ使われて終わるのが落ちであります。対馬守等は和宮様を公方様に嫁がせることで朝廷の権威を取り込み、かつての井伊の赤鬼の時のような幕府独裁の政を蘇らせる腹積もりでおりまする。そうなれば朝廷も長州も他の諸侯もみな力で押さえつけられ、幕府の横暴を止めることは誰にもできなくなりまする。そねぇ恐ろしいことに長州が加担するなど、天地を恐れぬ所業以外の何物でもありませぬ」
 と今の幕府の在りようについて批判した。
「じゃけぇ是非とも長井様には『航海遠略策』の周旋を止めて頂きたいのであります。このまま長州が、この美しき皇国が過ちの道を突き進んでいく様を見るのはわしには到底耐えられませぬ。何卒、何卒、わしの意見をお聞き届け下さりますよう、よろしくお願い申し上げまする」
 久坂は長井に周旋を止めるよう決死の思いで懇願する。
「流石は寅次郎のかつての一番弟子、大した見識じゃ」
 久坂の話を聞いた長井は感心した様子だ。
「外夷に無理矢理結ばされた条約で異人と対等に通商航海できるのかっちゅうお主の意見、確かに一理あるのう。それに幕府に好いように利用されるだけ利用されて終わるっちゅう指摘もあながち間違っとらんのかもしれん」
 長井は久坂の言う通りといわんばかりにうんうんと頷いている。
「しかし先にも申した通り、『航海遠略策』は御殿様のご意思で藩是に決まったのじゃ。今更家臣の恣意でそれを捻じ曲げるわけにはいけん。それに『航海遠略策』を幕府の権威復興のための道具などで終わらせるつもりは毛頭ないっちゃ。手始めにまず幕府により強固な朝廷尊崇の念を示させた上で、しかる後に朝廷から幕府に武備拡張及び開国の勅を下すような流れを作り、幕府が朝廷の下にあることを天下にはっきりと証明させる。こねぇすれば本来あるべき朝幕関係に戻す事ができ、朝廷優位の公武一和を成し遂げることができるはずじゃ。儂等長州人はあくまで本来あるべき朝幕関係に戻すために『航海遠略策』の周旋するつもりでおることはこれからご老中方に話すし、もしご老中方が本当に幕府の権威復興の事しか頭にないのであれば、周旋そのものをなかったことにするつもりじゃ。お主の心配には及ばぬ」
 長井は諭すような口調で言うと続けて、
「それとお主、外夷との戦を機に皇国の武備を拡張して武威を示せばよいと申したが、戦が起こってしまった後で武備を拡張しようとしても手遅れじゃぞ。一度外夷と戦になれば武備を拡張する暇もないまま好いように外夷に攻めたてられ、要津や府城は悉く奪われ、京の都にまで外夷が押し寄せてくるとなる。この皇国と外夷とではそれほどまでに力の差があるのじゃ。生まれたばかりの赤子がどねぇしても一人前の大人に勝てぬのと同じ道理じゃ。外夷との力量差を甘く見積もることはこの皇国の滅亡につながるけぇ、よくよく思案せねばいけん」
 と久坂の対外認識の甘さを指摘した。
「長井様の仰られることはよう分かりました。よう分かりましたがまだどねぇにしても『航海遠略策』が正しいとは……」
「くどい! これだけゆうてもまだ分からんか! それに儂はこれより久世大和守様の御屋敷に向かわねばいけんのんじゃ! これ以上お主に関わっとる暇はない! 議論の続きはまた後日にでも行おうぞ!」
 長井は久坂との話し合いを強制的に切り上げて自身の部屋を後にした。

 その数日後、久坂は藩邸内の長井の部屋を訪ねて再度『航海遠略策』の是非をめぐり議論するものの、平行線のまま折り合いつかず、結局喧嘩別れのような形で終わってしまったのであった。
 
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