上 下
116 / 152
第14章 三度目の江戸

2 丙辰丸の航海

しおりを挟む
 万延元(一八六〇)年五月。
 軍艦丙辰丸で萩の恵美須岬を出航した晋作の一行は、讃岐国の多度津港に着いた。
 晋作の一行が恵美須岬を出航してからもう一月近く経っていたが、航海の途中で強風や逆風、積雨、逆潮に遭遇した都合でなかなか前へ進めず、五月に入ってやっと讃岐国入りを果たした。
 この軍艦が多度津港に着いたころ、晋作は慣れない航旅による疲労と船酔いのために体調を崩し、一人丙辰丸内で休んでいた。
「気分は少しようなったか、高杉」
 艦長の松島剛蔵が心配そうに布地の吊床の上で寝ている晋作に尋ねる。
「はい、お陰様で少しはようなりました」
 言葉とは裏腹に晋作の声は元気がなく、顔はやつれ青白くなっていた。
「そうか、儂にはあまり回復したようには見えんのじゃが……この播磨灘を抜けたあとも、熊野灘、遠州灘、相模灘とまだまだ難所は続く。特に遠州灘は波も荒く、風待港もない難所中の難所じゃ。早う調子を取り戻してくれんと困るぞ」
 剛蔵が苦言を呈す。晋作は無言のままだ。
「確かにこの丙辰丸は、長崎で見かけるエゲレスやオロシアの軍艦に比べれば、規模も格段に小さく、備え付けられちょる大砲も、西洋の軍艦のそれには遠く及ばんような有様じゃ。そねーな軍艦に、ろくに航海もしたことがないよう者が乗れば、疲労や船酔いに悩まされるに違いないことは、儂も重々承知しちょる。じゃが此度の航海は長州の、毛利家の威信がかかっちょる大事な航海なのじゃ。もしこの航海が失敗すれば、丙辰丸を作るために投じられた四〇〇〇両も、労力も時もみな無駄なものとなり、長州は天下の笑いものとなろう」
 剛蔵が滔滔と説教している間、晋作はただ黙ってじっと船の天井を見つめていた。
「そもそもこの長州は三方を海に囲まれちょるけぇ、異人共の侵略を防げるかどうかは、軍艦、いんや、海軍の出来にかかっちょると……」
「お話の途中ではありますが、よろしいですか?」
 沈んだ声で晋作が剛蔵の説教を遮る。
「何じゃ、一体」
「松島殿の仰られちょることは至極最もなこととは存じちょりますが、人には向き不向きっちゅうもんがあります。わしのように剣術に向いちょる者もおれば、向いちょらん者もおる。また学問に向いちょる者もおれば、向いちょらん者もおる。此度の航海で悟りました。わしには航海術は向いちょりません。船酔いや船旅の疲労もそうですが、わしは元々素質が粗雑で、航海術のような細かい精緻な術を修めるのには不向きなのです。どうかそれを分かっては頂けぬでしょうか?」
 晋作が航海術の会得の諦めを口にすると、剛蔵が怒って、
「馬鹿者! これきしのことで挫けるとは情けないとは思わんのか! お前は藩命で今、この航海をしちょるんじゃぞ! 江戸に着けば、海軍修行のために幕府の軍艦教授所に入らねばいけんっちゅうのに、何じゃ、その体たらくは!」
 と怒鳴り散らした。
「それでは越南国にある東京に行くなど、夢のまた夢じゃぞ! 全く航海術もおぼつかんで、如何にして海外へ行こうとゆうのか、呆れてものも言えんわい!」
 剛蔵はやれやれと言わんばかりに首を横にふっている。
「分かり申した。もう分かり申しましたので、早う一人にして下さい。松島殿の声が頭に響いて仕方がないのです」
 晋作が弱弱しい声で懇願した。それを聞いた剛蔵ははぁーとため息をついて、その場を去っていった。


 
 
 

 



 
しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

土方歳三ら、西南戦争に参戦す

山家
歴史・時代
 榎本艦隊北上せず。  それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。  生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。  また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。  そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。  土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。  そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。 (「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です) 

陸のくじら侍 -元禄の竜-

陸 理明
歴史・時代
元禄時代、江戸に「くじら侍」と呼ばれた男がいた。かつて武士であるにも関わらず鯨漁に没頭し、そして誰も知らない理由で江戸に流れてきた赤銅色の大男――権藤伊佐馬という。海の巨獣との命を削る凄絶な戦いの果てに会得した正確無比な投げ銛術と、苛烈なまでの剛剣の使い手でもある伊佐馬は、南町奉行所の戦闘狂の美貌の同心・青碕伯之進とともに江戸の悪を討ちつつ、日がな一日ずっと釣りをして生きていくだけの暮らしを続けていた…… 

アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)

三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。 佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。 幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。 ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。 又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。 海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。 一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。 事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。 果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。 シロの鼻が真実を追い詰める! 別サイトで発表した作品のR15版です。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

夢の終わり ~蜀漢の滅亡~

久保カズヤ
歴史・時代
「───────あの空の極みは、何処であろうや」  三国志と呼ばれる、戦国時代を彩った最後の英雄、諸葛亮は五丈原に沈んだ。  蜀漢の皇帝にして、英雄「劉備」の血を継ぐ「劉禅」  最後の英雄「諸葛亮」の志を継いだ「姜維」  ── 天下統一  それを志すには、蜀漢はあまりに小さく、弱き国である。  国を、民を背負い、後の世で暗君と呼ばれることになる劉禅。  そして、若き天才として国の期待を一身に受ける事になった姜維。  二人は、沈みゆく祖国の中で、何を思い、何を目指し、何に生きたのか。  志は同じであっても、やがてすれ違い、二人は、離れていく。  これは、そんな、覚めゆく夢を描いた、寂しい、物語。 【 毎日更新 】 【 表紙は hidepp(@JohnnyHidepp) 様に描いていただきました 】

上意討ち人十兵衛

工藤かずや
歴史・時代
本間道場の筆頭師範代有村十兵衛は、 道場四天王の一人に数えられ、 ゆくゆくは道場主本間頼母の跡取りになると見られて居た。 だが、十兵衛には誰にも言えない秘密があった。 白刃が怖くて怖くて、真剣勝負ができないことである。 その恐怖心は病的に近く、想像するだに震えがくる。 城中では御納戸役をつとめ、城代家老の信任も厚つかった。 そんな十兵衛に上意討ちの命が降った。 相手は一刀流の遣い手・田所源太夫。 だが、中間角蔵の力を借りて田所を斬ったが、 上意討ちには見届け人がついていた。 十兵衛は目付に呼び出され、 二度目の上意討ちか切腹か、どちらかを選べと迫られた。

処理中です...