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第14章 三度目の江戸
2 丙辰丸の航海
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万延元(一八六〇)年五月。
軍艦丙辰丸で萩の恵美須岬を出航した晋作の一行は、讃岐国の多度津港に着いた。
晋作の一行が恵美須岬を出航してからもう一月近く経っていたが、航海の途中で強風や逆風、積雨、逆潮に遭遇した都合でなかなか前へ進めず、五月に入ってやっと讃岐国入りを果たした。
この軍艦が多度津港に着いたころ、晋作は慣れない航旅による疲労と船酔いのために体調を崩し、一人丙辰丸内で休んでいた。
「気分は少しようなったか、高杉」
艦長の松島剛蔵が心配そうに布地の吊床の上で寝ている晋作に尋ねる。
「はい、お陰様で少しはようなりました」
言葉とは裏腹に晋作の声は元気がなく、顔はやつれ青白くなっていた。
「そうか、儂にはあまり回復したようには見えんのじゃが……この播磨灘を抜けたあとも、熊野灘、遠州灘、相模灘とまだまだ難所は続く。特に遠州灘は波も荒く、風待港もない難所中の難所じゃ。早う調子を取り戻してくれんと困るぞ」
剛蔵が苦言を呈す。晋作は無言のままだ。
「確かにこの丙辰丸は、長崎で見かけるエゲレスやオロシアの軍艦に比べれば、規模も格段に小さく、備え付けられちょる大砲も、西洋の軍艦のそれには遠く及ばんような有様じゃ。そねーな軍艦に、ろくに航海もしたことがないよう者が乗れば、疲労や船酔いに悩まされるに違いないことは、儂も重々承知しちょる。じゃが此度の航海は長州の、毛利家の威信がかかっちょる大事な航海なのじゃ。もしこの航海が失敗すれば、丙辰丸を作るために投じられた四〇〇〇両も、労力も時もみな無駄なものとなり、長州は天下の笑いものとなろう」
剛蔵が滔滔と説教している間、晋作はただ黙ってじっと船の天井を見つめていた。
「そもそもこの長州は三方を海に囲まれちょるけぇ、異人共の侵略を防げるかどうかは、軍艦、いんや、海軍の出来にかかっちょると……」
「お話の途中ではありますが、よろしいですか?」
沈んだ声で晋作が剛蔵の説教を遮る。
「何じゃ、一体」
「松島殿の仰られちょることは至極最もなこととは存じちょりますが、人には向き不向きっちゅうもんがあります。わしのように剣術に向いちょる者もおれば、向いちょらん者もおる。また学問に向いちょる者もおれば、向いちょらん者もおる。此度の航海で悟りました。わしには航海術は向いちょりません。船酔いや船旅の疲労もそうですが、わしは元々素質が粗雑で、航海術のような細かい精緻な術を修めるのには不向きなのです。どうかそれを分かっては頂けぬでしょうか?」
晋作が航海術の会得の諦めを口にすると、剛蔵が怒って、
「馬鹿者! これきしのことで挫けるとは情けないとは思わんのか! お前は藩命で今、この航海をしちょるんじゃぞ! 江戸に着けば、海軍修行のために幕府の軍艦教授所に入らねばいけんっちゅうのに、何じゃ、その体たらくは!」
と怒鳴り散らした。
「それでは越南国にある東京に行くなど、夢のまた夢じゃぞ! 全く航海術もおぼつかんで、如何にして海外へ行こうとゆうのか、呆れてものも言えんわい!」
剛蔵はやれやれと言わんばかりに首を横にふっている。
「分かり申した。もう分かり申しましたので、早う一人にして下さい。松島殿の声が頭に響いて仕方がないのです」
晋作が弱弱しい声で懇願した。それを聞いた剛蔵ははぁーとため息をついて、その場を去っていった。
軍艦丙辰丸で萩の恵美須岬を出航した晋作の一行は、讃岐国の多度津港に着いた。
晋作の一行が恵美須岬を出航してからもう一月近く経っていたが、航海の途中で強風や逆風、積雨、逆潮に遭遇した都合でなかなか前へ進めず、五月に入ってやっと讃岐国入りを果たした。
この軍艦が多度津港に着いたころ、晋作は慣れない航旅による疲労と船酔いのために体調を崩し、一人丙辰丸内で休んでいた。
「気分は少しようなったか、高杉」
艦長の松島剛蔵が心配そうに布地の吊床の上で寝ている晋作に尋ねる。
「はい、お陰様で少しはようなりました」
言葉とは裏腹に晋作の声は元気がなく、顔はやつれ青白くなっていた。
「そうか、儂にはあまり回復したようには見えんのじゃが……この播磨灘を抜けたあとも、熊野灘、遠州灘、相模灘とまだまだ難所は続く。特に遠州灘は波も荒く、風待港もない難所中の難所じゃ。早う調子を取り戻してくれんと困るぞ」
剛蔵が苦言を呈す。晋作は無言のままだ。
「確かにこの丙辰丸は、長崎で見かけるエゲレスやオロシアの軍艦に比べれば、規模も格段に小さく、備え付けられちょる大砲も、西洋の軍艦のそれには遠く及ばんような有様じゃ。そねーな軍艦に、ろくに航海もしたことがないよう者が乗れば、疲労や船酔いに悩まされるに違いないことは、儂も重々承知しちょる。じゃが此度の航海は長州の、毛利家の威信がかかっちょる大事な航海なのじゃ。もしこの航海が失敗すれば、丙辰丸を作るために投じられた四〇〇〇両も、労力も時もみな無駄なものとなり、長州は天下の笑いものとなろう」
剛蔵が滔滔と説教している間、晋作はただ黙ってじっと船の天井を見つめていた。
「そもそもこの長州は三方を海に囲まれちょるけぇ、異人共の侵略を防げるかどうかは、軍艦、いんや、海軍の出来にかかっちょると……」
「お話の途中ではありますが、よろしいですか?」
沈んだ声で晋作が剛蔵の説教を遮る。
「何じゃ、一体」
「松島殿の仰られちょることは至極最もなこととは存じちょりますが、人には向き不向きっちゅうもんがあります。わしのように剣術に向いちょる者もおれば、向いちょらん者もおる。また学問に向いちょる者もおれば、向いちょらん者もおる。此度の航海で悟りました。わしには航海術は向いちょりません。船酔いや船旅の疲労もそうですが、わしは元々素質が粗雑で、航海術のような細かい精緻な術を修めるのには不向きなのです。どうかそれを分かっては頂けぬでしょうか?」
晋作が航海術の会得の諦めを口にすると、剛蔵が怒って、
「馬鹿者! これきしのことで挫けるとは情けないとは思わんのか! お前は藩命で今、この航海をしちょるんじゃぞ! 江戸に着けば、海軍修行のために幕府の軍艦教授所に入らねばいけんっちゅうのに、何じゃ、その体たらくは!」
と怒鳴り散らした。
「それでは越南国にある東京に行くなど、夢のまた夢じゃぞ! 全く航海術もおぼつかんで、如何にして海外へ行こうとゆうのか、呆れてものも言えんわい!」
剛蔵はやれやれと言わんばかりに首を横にふっている。
「分かり申した。もう分かり申しましたので、早う一人にして下さい。松島殿の声が頭に響いて仕方がないのです」
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