幕末群狼伝~時代を駆け抜けた若き長州侍たち

KASPIAN

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第8章 江戸へ

7 日米修好通商条約の調印

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 井伊掃部頭直弼は大老に就任した後、孝明天皇の勅許を得ることを目的に大名たちに条約調印についての意見を問い、そしてそれを実行に移すための時間を稼ぐために、条約調印の延期をハリスに申し出て三月ばかりの猶予を得ていた。 
 この日直弼は堀田備中守を始めとした幕閣の面々を、評定所に呼び寄せて、条約調印のさらなる延期の是非について問いただしていた。
「清国がエゲレスとフランスに敗北を喫した今、もはや悠長にはしておられませぬ! 早うメリケンと条約を結ばねばこの日本国は第二の清国となりまするぞ!」
 ハリスから清国が戦に敗れて、天津で屈辱的な内容の条約を結ばされた事実を知らされた岩瀬肥後守は、早期の条約調印を断固として主張する。
「肥後殿の申す通りでございます。我々がこのまま手をこまねいていたら、エゲレスやフランスの艦隊に攻め込まれるやもしれませぬぞ」 
 井上信濃守も岩瀬肥後守の考えに同調した。
「お主らの言い分にも理はあるが、帝からの勅許が得られぬ限り条約の調印に踏み切ることはできぬ。帝のご意向は絶対であり、決して無下にはできんからの。なればこそ再度大名たちに条約調印の是非を問い、そして調印すべきという意見が過半数になったときに、再度帝に勅許を打診するのが一番の方策と儂は心得ておる。そのためにはさらなる条約調印の延期が必要不可欠なのじゃ」 
 あくまでも帝を重んじる姿勢を貫き通したい直弼は岩瀬達の意見を否定する。
「そうは申されましても、果たして帝が攘夷からお考えを変えなさるかどうか、分かったものではございませぬぞ」 
 堀田備中守は口を挟むと続けて、
「帝の周りは九条関白を事実上失脚に追い込んだ攘夷派の公卿ばかりで固められており、奴らを退けぬ限り帝から勅許を得ることなど夢のまた夢でござりまする。掃部頭様はその事をご存じござりませぬか?」 
 と直弼に質問を投げかけた。
「お主に言われずともすでに知っておるわ、このたわけめ」 
 直弼は吐き捨てるようにして言った。京都で勅許を得ることに失敗したことで堀田備中守は直弼から疎んじられていた。
「でしたら猶更ではござりませぬか! 帝や攘夷派の公卿共の顔色ばかりを窺って、条約調印の時期を逸するようなことになれば、幕府も朝廷も立ちゆかなくなりまするぞ。それにメリケンとて今は条約調印の延期に応じておりますが、いつしびれを切らして艦隊を差し向けてくるか分かったものではござりませぬ! 掃部頭様が迅速にご決断下さらねば、この日本国は滅亡致しまするぞ!」 
 岩瀬肥後守が直弼に噛みつく。
「それもよう分かっておる。もし勅許を得られぬまま条約調印の期日を迎え、さらなる延期も不可能となったならば、その時は幕府の威を持って強引にでも調印に踏み切るより他はあるまい。じゃがそれは本当にやむを得ない場合の最終手段じゃ。今はなるべく条約調印の延期の交渉をして、勅許を得るための時を稼ぐために尽力する。それで異存はないか? 肥後守」 
 直弼が岩瀬を宥める。
「……異存ござりませぬ。やむを得ない事態になった暁には、我々の判断で条約の調印を致す所存ゆえ、くれぐれもお忘れなきようお願い申し上げまする」 
 岩瀬はまだ不服そうな様子ではあったが直弼の考えに同意した。





 江戸城で行われた討議の翌日、井伊掃部頭は条約交渉の談判委員であったことを理由に、岩瀬肥後守と井上信濃守を条約調印の全権委員に命じた。
 全権委員に命じられた岩瀬肥後守と井上信濃守は品川沖で汽船に乗り、神奈川の小柴沖に停泊しているポーハタン号のハリスの元へと向かっていた。
「やはり誰が何と申そうが、儂は今日メリケンとの条約調印に踏み切るつもりじゃ。期日までまだ一月あるがそんなものは関係ない。さらなる延期の交渉など持っての他じゃ。掃部頭様はこの日本国を取り巻く事態を分かっておられぬのじゃ」
 汽船の上で海を見つめながら岩瀬肥後守は直弼の意向に逆らう決意を固めた。
「その通りじゃ。条約調印の勅許を待っておる間に、エゲレスやフランスに攻め込まれたらそれで一巻の終わりじゃ。今が条約を調印する最後の好機なのじゃ」
 岩瀬肥後守と一緒に海を見ていた井上信濃守はそのまま続けて、
「じゃがもし勅許を得ぬまま条約調印に踏み切れば、幕府は真っ向から朝廷と対立することになるじゃろうな……。そして我々も掃部頭様によってお役を解かれることになる……」 
 と苦悶の表情を見せた。
「信濃殿、掃部頭様の意向に従おうが従うまいが、我々はどのみちお役を解かれることになりまするぞ」
 岩瀬肥後守がずばり指摘する。
「掃部頭様は紀州の徳川慶福公を将軍の継嗣にするつもりでおるのに対し、我々は一橋公を将軍の継嗣にすることを望む一派に属しておる故、遅かれ早かれお役を解かれる定めにございまする。信濃殿の兄上である川路左衛門尉殿も、一橋公を将軍の継嗣にするお考えであったために掃部頭様にお役を解かれ、西の丸へ左遷され申した。それに掃部頭様は元々西洋の学問も、そしてそれに通じている我々のような者も蛇蝎の如く嫌っておられる。我々の命運は掃部頭様が大老になったときに既に決まっておったのだ……」
 岩瀬肥後守はどこか諦観めいた口調で語ると、
「なればこそお役についている間に条約の調印に踏み切らねばならんのじゃ。儂はこの日本国が異人共に踏み荒らされる様など見とうない。例え勅許がないまま条約を調印したことで、朝廷を敵に回すことになったとしても、我々の手で必ずやこの日本国を奴らの魔の手から守りましょうぞ」
 と井上信濃守に協力を要請した。
「分かり申した。儂も肥後殿と運命を共に致しましょうぞ」
 井上信濃守もついに覚悟を固めたようだ。





 安政五年六月十九日、ポーハタン号上においてハリスとこの二人の全権委員との間で、日米修好通商条約が調印された。
 この条約で函館・神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港や、開港地におけるアメリカ領事の常駐とその他アメリカ人の居留、アメリカ公使の江戸常駐、江戸・大阪の開市、阿片の輸入の厳禁、領事裁判権の承認、日本通貨(金貨・銀貨)とアメリカ通貨(金貨・銀貨)の同種同量による交換、関税のうち輸入税を二十%(一部例外を除く)、輸出税を五%に設定することなどが取り決められた。
 また岩瀬達はアメリカと条約を締結してから数か月の間に、イギリスやフランス、ロシア、オランダといった他の西洋諸国とも同じ内容の条約を結んだ。
 これにより日本はアメリカと正式に通商関係を結ぶこととなったと同時に、名実ともに完全なる形で開国することになった。

 
 
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