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第8章 江戸へ
6 玄瑞と小五郎
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江戸に着いた玄瑞は、下谷和泉橋通り御徒町にあった伊東玄朴の象先堂で蘭学を学ぶ傍ら、浅草福井町にある芳野金陵の私塾にも入門し、時事問題の討議にも勤しんでいた。
この日は寅次郎の紹介で知り合った同じ長州藩士の桂小五郎とともに、浅草にある小料理屋で酒を飲みながら、時事について語り合っていた。
「京におわす帝が条約の調印を拒み、攘夷のご意思を示されたことはまっこと素晴らしいことじゃとわしは思うちょる!」
酒に酔った玄瑞は声高らかに叫ぶ。
「また赤心の公卿達が条約調印を阻止するために、幕府の肩を持つ九条関白に制裁を加えたことも喜ぶべきことじゃ! これからは天朝の勢いがますます盛んとなり、この国の政を大きく動かしていくことになるじゃろうのう!」
久坂は膳の上にある盃の酒をぐびっと飲み干す。
「久坂君のゆうちょる通りじゃ。これからの政は幕府の独裁ではなく、京の帝や雄藩の力によって動くことになるじゃろうな」
桂は笑いながら言うと膳の上の冷ややっこに箸をつける。
「久坂君は江戸に出府する途上で京にも立ち寄ったと思うのじゃが、京の町は今どねーなことになっちょるんじゃ? 尊王攘夷の志を持つ志士で溢れかえっちょるんか?」
桂が興味津々に尋ねてきた。
「京の町は尊王攘夷一色になっちょりました! それはもう尊王攘夷っちゅう言葉を知らん者は一人もおらんっちゅうような有様じゃった! その中でも梅田雲浜や梁川星巌が特に優れちょり、頭一つ抜きん出ちょりましたかのう。あとは水戸や越前、尾張、薩摩の侍たちが、一橋公を将軍の継嗣にするために、公卿の屋敷を出たり入ったりしちょるっちゅうことも耳にしました……。これからは長州も、水戸や越前などの諸侯を見習うて、幕府の政に異を唱えねばいけんとわしは思うちょります……」
久坂は意識が朦朧とするなか、京での出来事を一つ一つ思い出しながら語る。
「なるほど、京はそこまで逼迫した情勢になっちょったのか……」
久坂から京のことについて聞いた桂は眉間に皺が寄り、難しそうな顔になった。
「ところで久坂君は長井雅樂っちゅう男を知っちょるか?」
桂が唐突に話題をかえてきた。
「いんや……知りませんのう……」
久坂はすっかり泥酔しきっており、かろうじて意識を保っているのがやっとというような様子だ。
「この長井雅樂は若殿様の守役を務めちょる男でな、西洋の知識に明るく、その才気はかつてのご家老であった村田清風様にも匹敵すると、江戸の屋敷内ではもっぱらの評判みたいなんじゃ。ゆくゆくは我が藩の政を一手に担うようになることも夢ではないとさえゆわれちょる」
桂は難しそうな顔のまま長井について語ると続けて、
「じゃが長井雅樂は幕府寄りの考えを持っちょるみたいで、此度の条約調印にもどうやら賛同しちょるみたいなんじゃ。もしそねーな男が藩の政を一手に担うようなことにでもなったら、間違いなく長州は危機に陥るじゃろう……。まだ長井が藩の要職に就くと決まった訳ではないが、一応頭に入れておいてくれろ」
と久坂に対して警告したが、とうの久坂はすでに深い眠りの中に落ちていた。
「何じゃ……もう酔いつぶれてしもうたのか……。まあ、ええわ。今僕がゆうたことがただの杞憂に終わるやもしれんけぇ、酒と一緒に忘れてくれ!」
桂は呆れたように言うと、小料理屋に銭を払って勘定を済ませ、そのまま久坂を背負って店を出た。
この日は寅次郎の紹介で知り合った同じ長州藩士の桂小五郎とともに、浅草にある小料理屋で酒を飲みながら、時事について語り合っていた。
「京におわす帝が条約の調印を拒み、攘夷のご意思を示されたことはまっこと素晴らしいことじゃとわしは思うちょる!」
酒に酔った玄瑞は声高らかに叫ぶ。
「また赤心の公卿達が条約調印を阻止するために、幕府の肩を持つ九条関白に制裁を加えたことも喜ぶべきことじゃ! これからは天朝の勢いがますます盛んとなり、この国の政を大きく動かしていくことになるじゃろうのう!」
久坂は膳の上にある盃の酒をぐびっと飲み干す。
「久坂君のゆうちょる通りじゃ。これからの政は幕府の独裁ではなく、京の帝や雄藩の力によって動くことになるじゃろうな」
桂は笑いながら言うと膳の上の冷ややっこに箸をつける。
「久坂君は江戸に出府する途上で京にも立ち寄ったと思うのじゃが、京の町は今どねーなことになっちょるんじゃ? 尊王攘夷の志を持つ志士で溢れかえっちょるんか?」
桂が興味津々に尋ねてきた。
「京の町は尊王攘夷一色になっちょりました! それはもう尊王攘夷っちゅう言葉を知らん者は一人もおらんっちゅうような有様じゃった! その中でも梅田雲浜や梁川星巌が特に優れちょり、頭一つ抜きん出ちょりましたかのう。あとは水戸や越前、尾張、薩摩の侍たちが、一橋公を将軍の継嗣にするために、公卿の屋敷を出たり入ったりしちょるっちゅうことも耳にしました……。これからは長州も、水戸や越前などの諸侯を見習うて、幕府の政に異を唱えねばいけんとわしは思うちょります……」
久坂は意識が朦朧とするなか、京での出来事を一つ一つ思い出しながら語る。
「なるほど、京はそこまで逼迫した情勢になっちょったのか……」
久坂から京のことについて聞いた桂は眉間に皺が寄り、難しそうな顔になった。
「ところで久坂君は長井雅樂っちゅう男を知っちょるか?」
桂が唐突に話題をかえてきた。
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久坂はすっかり泥酔しきっており、かろうじて意識を保っているのがやっとというような様子だ。
「この長井雅樂は若殿様の守役を務めちょる男でな、西洋の知識に明るく、その才気はかつてのご家老であった村田清風様にも匹敵すると、江戸の屋敷内ではもっぱらの評判みたいなんじゃ。ゆくゆくは我が藩の政を一手に担うようになることも夢ではないとさえゆわれちょる」
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「何じゃ……もう酔いつぶれてしもうたのか……。まあ、ええわ。今僕がゆうたことがただの杞憂に終わるやもしれんけぇ、酒と一緒に忘れてくれ!」
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