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第8章 江戸へ

1 久坂、江戸に遊学す

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 年が明けて、安政五(一八五八)年二月。
 晋作はこの日も松下村塾の塾舎で、寅次郎や久坂、佐世八十郎(後の前原一誠)、山田市之允(後の山田顕義)などの塾生達とともに、ジョージ・ワシントンについての討論に勤しんでいた。
「やはりワシントンもあのナポレオンに勝るとも劣らぬ英傑じゃと、わしは思うのう」
 討論が佳境に入ったことを確認した齢二十五の八十郎は続けて、
「あの強大なエゲレスを相手に勝利を収めて、メリケンを独立に導いたのは勿論のこと、その時に率いていた兵の殆どが、まともな練兵もなされちょらん民兵じゃったとゆうんじゃから驚きを隠せん。下手すれば孫子以上の戦上手やもしれんのう」
 とワシントンの事を褒めちぎった。
「わしも佐世さんと同じ考えじゃ。ワシントンがなしたことは、かつて加賀国の百姓達が富樫政親を倒して、百姓の持ちたる国を実現したことと同じくらい凄いことじゃとわしは思うちょる」
 二月前に入塾したばかりの齢十五の市之允が、屈託のない笑顔を浮かべながら佐世の意見に同調する。
「佐世君や山田君のゆうちょる事は至極最もじゃ。ワシントンもまた古今無双の英傑の一人っちゅうことじゃのう」
 寅次郎はうんうんと頷きながら言うと、
「さて、皆も既に知っちょる事と思うが、藩からのお達しで久坂君が江戸に三年間遊学することと相成った」
 と唐突に久坂の遊学の話題へと話を変えた。
「つい二月前に我が妹文と婚儀を終えたばかりで正直慌ただしいが、江戸に遊学できるっちゅうことは大変名誉なことじゃ。じゃけぇ僕はこの場を借りて久坂君に祝いの言葉を贈りたいと思うちょる」
 寅次郎がうれしそうに言う。
「そんな……久坂さんとはこれからナポレオンや斎藤道三など、古今無双の英傑についていろいろ語りあおうと思っちょったのに……」
 この場においてただ一人、久坂の東行について何も知らされていなかった市之允は落胆の色を隠せない。
「そねー落ち込むな、市之允。別に久坂は死んだ訳ではないけぇ、英傑についての討論は文でも充分できるじゃろう。それに討論ならば先生や晋作、わしが相手になるぞ」
 八十郎は笑いながら言うと市之允の肩にポンと手をおく。
「佐世さんのゆうちょる通りじゃぞ、市。久坂でなくとも、わしら他の塾生相手でも問題は何もないはずじゃ」
 晋作も笑いながら言ったが、なにか思うところがあるのか、その表情には影が見えた。
「ありがとう、市。必ず江戸から文を書くけぇ、楽しみにしちょれよ」
 久坂は市之允に微笑みながら言うと、すぐに真面目な顔つきになって、
「先生、ぜひ祝いの言葉をお聞かせ願えますでしょうか?」
 と寅次郎から祝いの言葉を聞き出そうとした。
「分かりました。では申し上げましょう」
 寅次郎も真面目な顔つきになる。
「私は幼少のころから支那の歴史を学ぶことを好み、そして私が学んできた支那の歴史の中で、宋が滅んで蒙古族の元が興ったこと、明が滅んで満州族の清が興ったことは世紀の大変革であり、特筆すべきことであります」
 寅次郎の祝いの言葉が始まった。
「また宋や明が滅亡した時に、家鉉翁や胡身之、徐昭法、魏叔子などのように節義を守って蒙古族や満州族に仕えなかった士もおれば、それとは逆に、許衡や陸隴其のように、異民族に膝を屈することによって、高名な儒学者としてその生を全うできた士もおったことも特筆すべきことであり、今メリケンからハリスが使節として幕府に派遣され、そしてハリスによってもたらされた大統領の親書と口上書が幕府から諸侯へと示され、彼らに意見を打診しちょる現状においては、これらのことが国の命運をも左右するっちゅうても差し支えないのであります」
 祝いの言葉はまだ続く。
「この時勢において、私はどねーすべきじゃろうか? 家鉉翁や胡身之達は志もあり節義を守り通したが、何も成せぬままその生涯を終えた。かとゆうて許衡や陸隴其のように、外夷に膝を屈することも我慢ならぬ」
 寅次郎は自問自答すると心が熱くなったのか、
「江戸へ行きんさい、久坂君! こねーな時勢に生まれながら、己の進むべき道を選べないならば、一体何のための志気や才気じゃろうか! 京の都を過ぎ江戸へ行けば、必ず天下の英雄豪傑と相見えることとなるじゃろう。そして彼らとこの時勢について議論を重ね、何を為すべきか見定め、帰萩した暁にはこの藩の公是を定める。これぞ私が君に望む全てである!」
 と強い口調になる。
「もしそれができなければ、かつて私が君を防長第一流の人物と称したことはただの妄言と相成り、天下の士に対し大いに恥じなければならぬ! 江戸へ行きんさい、久坂君! これが私の祝いの言葉じゃ」
 寅次郎は祝いの言葉を締めくくると、「ふぅー」と息を吐いて自身を落ち着かせた。
「ありがとうございます、先生。先生の言葉を肝に銘じ、江戸で精進を重ねたいと存じます」
 寅次郎の言葉に感動したのか、久坂は涙を流している。
「うむ、その意気じゃ。あと江戸に着いたら、まず桂君を頼りんさい。桂君は僕がまだ明倫館で兵学教授をしておったころの門下生で、六年近く江戸暮らしをしちょるけぇ、初めて江戸に行く君にとっては必ず助けとなるはずじゃ。桂君には僕が文を書くけぇ、ぜひ一度会うてみるとええぞ」
 涙を流す弟子を見た寅次郎は優しげな口調で語りかけた。
 
 
 

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