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第6章 松下尊塾
6 村塾の入門希望者
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安政四年八月。
明倫館の入舎生となった晋作は、玄瑞に勧められて松下村塾へ行くこととなった。
晋作は元々勉学があまり好きではなく、できれば行きたくないというのが正直な気持ちであったが、一度だけでいいからぜひ先生に会ってみてくれと、しきりに勧誘してくる玄瑞に根負けして、ついに寅次郎と会うことを嫌々ながら認めた。
「例の寅次郎が講主を務めちょる松下村塾には一体どねーな奴らがおるんじゃ? 久坂」
寅次郎のいる松本村へと続く道を歩きながら、晋作がぶっきらぼうに尋ねる。
「そうじゃのう……やはり松本村に住んじょる足軽や中間の子がようけおる塾とゆうた方がええかもしれんの。お城からも大分離れちょるし……」
玄瑞は言葉に詰まりながら答えた。
「なるほど、でほかにはどねーな奴がおるんじゃ?」
「あとは晋作と以前果たし合いをした吉田栄太郎も塾生の一人としておる。それに昨日は伊藤利助が新たに入塾したばかりじゃ。そうそう晋作と同じ明倫館の館生も一応おるな」
「おお! あの栄太郎も村塾におったんか! 利助も久しく会うてないから懐かしいのう!」
晋作は無理矢理動向させられて不機嫌であったが、久坂から栄太郎と利助の事を聞いて、にわかに機嫌を取り戻す。
「じゃがお前の話を聞いちょるだけじゃと、村にあるただの寺子屋のようにしか正直思えんが、その辺りのことはどうなんじゃ?」
晋作が玄瑞に尋ねる。
「村塾とその辺りの寺子屋を一緒にされては困るのう。先生は九つの時に明倫館の兵学師範となり、十一の時にはお殿様に『武教全書』を講義なさったほどの傑物じゃ。先生の人を教え導く才は、あの孔子や孟子にも匹敵すると僕は信じちょる」
久坂は先輩格の中谷から最近聞いた寅次郎の逸話を持ち出して、寅次郎のことを称賛した。どうやら久坂は完全に寅次郎に心酔しきっているようだ。
「寅次郎と文でやりとりしちょった時はあれだけこき下ろしちょったのに、今では真逆の評価じゃの」
晋作がおかしさのあまり笑い出す。
「ただ寅次郎が本当に傑物なんかはどうかは、わし自身がこの目で見て判断する。他人の言に流されるつもりは毛頭ない。そんでもし寅次郎がわしの目から見て取るに足らぬ小物であったならば塾には入らん。それでええな?」
「ああ、それで構わんっちゃ。百聞は一見に如かず。一度会うてみれば全て分かることじゃけぇのう」
久坂は力強く返答した。
四半刻後、晋作と玄瑞は寅次郎の家の前にたどり着いた。
「ここが寅次郎が住む家で間違いないんじゃな?」
晋作が玄瑞に呟いた。寅次郎の住む杉家はその辺りの百姓の家よりは大きく、家の周辺には畑が広がっている。
「ここで間違いないっちゃ。心の準備はええか? 晋作」
玄瑞が晋作に尋ねる。
「問題ない。さあ早く中へ入ろう」
晋作は入り口のある土間へ向かおうとしたが、すぐに足を止めてしまった。
「もしやあの方が寅次郎なのか? 久坂」
杉家の土間から眇めで顔中痘痕だらけの、如何にも恐ろしげな風貌をした男が出てきたのを見て、晋作が驚いたような表情で尋ねる。
「いんや、あれは富永有隣じゃ。元は野山獄の囚人であったが、富永の才を惜しんだ先生が藩に働きかけたお陰で獄を出て、今は村塾の助教を務めちょる。まさかこねーな時に出くわすことになろうとはの……」
玄瑞があからさまに嫌そうな表情を浮かべながら答えた。
「そやつが新たな入門希望者か? 久坂」
玄瑞達の姿を見つけた有隣が彼らの傍に近寄り尋ねてくる。
「その通りでございますが、何か富永殿のお気に障りましたか?」
玄瑞は丁寧な口調ではあったが嫌悪感を隠し切れていない。
「別にそねーな訳ではないっちゃ。ここ最近我が村塾に入門を希望する者がようけ増えちょるが、どいつもこいつも取るに足らぬ有象無象の馬鹿ばかりで正直辟易しちょたんでな、此度の入門希望者は芯のある者かどうか、この目で確かめてみたくなったのじゃ」
富永は人を馬鹿にしくさった口調で答えた。どうやら久坂達の事を完全に見下しているようだ。
「それでしたらわしが取るに足らぬ有象無象の馬鹿か否か、今ここでご判断くださいますかな? 富永殿」
晋作が不敵な笑みを浮かべ、富永ににじり寄りながら言う。
「よせ、晋作! 富永殿に対して無礼じゃぞ」
久坂が慌てて晋作を止めようとしたが、富永はそれを手で制止して、
「なるほど、少しは骨があるみたいじゃな。まあせいぜい尊師に認めてもらえるよう頑張ることじゃな」
と言うと高笑いしながら去っていった。
「一体何なのじゃ、あいつは。全く不快なことこの上ない」
富永の姿が完全に見えなくなったのを確認した晋作が憤慨しながら言う。
「あの男は誰に対してもああいう態度じゃ。先生以外の人間を皆馬鹿じゃと見下しちょるからな。さあいつまでもいきり立っちょらんで気を取り直せ。腹を立てたまま先生に会うてもええことはないぞ」
久坂は晋作を宥めると、彼を連れて入り口のある土間へと向かった。
明倫館の入舎生となった晋作は、玄瑞に勧められて松下村塾へ行くこととなった。
晋作は元々勉学があまり好きではなく、できれば行きたくないというのが正直な気持ちであったが、一度だけでいいからぜひ先生に会ってみてくれと、しきりに勧誘してくる玄瑞に根負けして、ついに寅次郎と会うことを嫌々ながら認めた。
「例の寅次郎が講主を務めちょる松下村塾には一体どねーな奴らがおるんじゃ? 久坂」
寅次郎のいる松本村へと続く道を歩きながら、晋作がぶっきらぼうに尋ねる。
「そうじゃのう……やはり松本村に住んじょる足軽や中間の子がようけおる塾とゆうた方がええかもしれんの。お城からも大分離れちょるし……」
玄瑞は言葉に詰まりながら答えた。
「なるほど、でほかにはどねーな奴がおるんじゃ?」
「あとは晋作と以前果たし合いをした吉田栄太郎も塾生の一人としておる。それに昨日は伊藤利助が新たに入塾したばかりじゃ。そうそう晋作と同じ明倫館の館生も一応おるな」
「おお! あの栄太郎も村塾におったんか! 利助も久しく会うてないから懐かしいのう!」
晋作は無理矢理動向させられて不機嫌であったが、久坂から栄太郎と利助の事を聞いて、にわかに機嫌を取り戻す。
「じゃがお前の話を聞いちょるだけじゃと、村にあるただの寺子屋のようにしか正直思えんが、その辺りのことはどうなんじゃ?」
晋作が玄瑞に尋ねる。
「村塾とその辺りの寺子屋を一緒にされては困るのう。先生は九つの時に明倫館の兵学師範となり、十一の時にはお殿様に『武教全書』を講義なさったほどの傑物じゃ。先生の人を教え導く才は、あの孔子や孟子にも匹敵すると僕は信じちょる」
久坂は先輩格の中谷から最近聞いた寅次郎の逸話を持ち出して、寅次郎のことを称賛した。どうやら久坂は完全に寅次郎に心酔しきっているようだ。
「寅次郎と文でやりとりしちょった時はあれだけこき下ろしちょったのに、今では真逆の評価じゃの」
晋作がおかしさのあまり笑い出す。
「ただ寅次郎が本当に傑物なんかはどうかは、わし自身がこの目で見て判断する。他人の言に流されるつもりは毛頭ない。そんでもし寅次郎がわしの目から見て取るに足らぬ小物であったならば塾には入らん。それでええな?」
「ああ、それで構わんっちゃ。百聞は一見に如かず。一度会うてみれば全て分かることじゃけぇのう」
久坂は力強く返答した。
四半刻後、晋作と玄瑞は寅次郎の家の前にたどり着いた。
「ここが寅次郎が住む家で間違いないんじゃな?」
晋作が玄瑞に呟いた。寅次郎の住む杉家はその辺りの百姓の家よりは大きく、家の周辺には畑が広がっている。
「ここで間違いないっちゃ。心の準備はええか? 晋作」
玄瑞が晋作に尋ねる。
「問題ない。さあ早く中へ入ろう」
晋作は入り口のある土間へ向かおうとしたが、すぐに足を止めてしまった。
「もしやあの方が寅次郎なのか? 久坂」
杉家の土間から眇めで顔中痘痕だらけの、如何にも恐ろしげな風貌をした男が出てきたのを見て、晋作が驚いたような表情で尋ねる。
「いんや、あれは富永有隣じゃ。元は野山獄の囚人であったが、富永の才を惜しんだ先生が藩に働きかけたお陰で獄を出て、今は村塾の助教を務めちょる。まさかこねーな時に出くわすことになろうとはの……」
玄瑞があからさまに嫌そうな表情を浮かべながら答えた。
「そやつが新たな入門希望者か? 久坂」
玄瑞達の姿を見つけた有隣が彼らの傍に近寄り尋ねてくる。
「その通りでございますが、何か富永殿のお気に障りましたか?」
玄瑞は丁寧な口調ではあったが嫌悪感を隠し切れていない。
「別にそねーな訳ではないっちゃ。ここ最近我が村塾に入門を希望する者がようけ増えちょるが、どいつもこいつも取るに足らぬ有象無象の馬鹿ばかりで正直辟易しちょたんでな、此度の入門希望者は芯のある者かどうか、この目で確かめてみたくなったのじゃ」
富永は人を馬鹿にしくさった口調で答えた。どうやら久坂達の事を完全に見下しているようだ。
「それでしたらわしが取るに足らぬ有象無象の馬鹿か否か、今ここでご判断くださいますかな? 富永殿」
晋作が不敵な笑みを浮かべ、富永ににじり寄りながら言う。
「よせ、晋作! 富永殿に対して無礼じゃぞ」
久坂が慌てて晋作を止めようとしたが、富永はそれを手で制止して、
「なるほど、少しは骨があるみたいじゃな。まあせいぜい尊師に認めてもらえるよう頑張ることじゃな」
と言うと高笑いしながら去っていった。
「一体何なのじゃ、あいつは。全く不快なことこの上ない」
富永の姿が完全に見えなくなったのを確認した晋作が憤慨しながら言う。
「あの男は誰に対してもああいう態度じゃ。先生以外の人間を皆馬鹿じゃと見下しちょるからな。さあいつまでもいきり立っちょらんで気を取り直せ。腹を立てたまま先生に会うてもええことはないぞ」
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