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第4章 野山獄

6 寅次郎、塾の主宰者になる

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    久坂が九州各地を遊歴していたこの頃、実家の杉家に蟄居謹慎させられ、何もやることがない寅次郎は家族を相手に『孟子』の講義を行っていた。
 主な聴講者は父の杉百合之助や兄の杉梅太郎、外淑の久保五郎左衛門、叔父の玉木文之進とその息子の玉木彦介であり、最近は隣家の佐々木梅三郎なども講義に顔を出すようになっていた。
「仁は人の心也、義は人の路也、これらの孟子の言葉はよくよく味わうべきものなのであります」
 寅次郎は自身が幽閉されている四畳半の一室に、梅太郎と百合之助、叔父の文之進、五郎左衛門を呼び集め『孟子』の講義を行っていた。
「仁は即ち人の心、人の心は即ち仁なのであり、人の心を一つ一つ省察すれば、仁が体の外に出るということはなく、忠孝友悌はもちろん、不善不正であっても其の因る所が仁でないものはないのであります。また人を殺すのは不仁でありますが、殺すという心は仁であります。というのも仁は愛を主としているため、他人を愛そうが己を愛そうが同じ仁に該当するからであります。悪事が露見するのを恐れて人を殺すのも、虚仮にされたことに怒って人を殺すのもみな己を愛する故に起こることであり、もし愛がなければ人を殺すことも憎むこともないのであります」
 寅次郎は滔々と『孟子』の講義を行い、呼び集められた百合之助一同はただ黙って講義を聴いている。
「そして義は即ち人の行う所、人の行う所即ち義なのであり、君子も小人も共に日々行う所に義から出ないものはないのであります。また盗みそのものは不義でありますが、盗みを行うことは義であります。盗みといえども、金畠を盗んで自らを利するだけでなく、ある時はその同朋に分け与え、ある時はその妻子を養い、ある時は食貨を貪り、ある時は債責を塞ぐ、これ等はみな義でないものはないのであります。もし義でなければ、そもそも盗むことを必要としないのであります」
 寅次郎は講義を終えると、持っていた『孟子』の本を畳の上に置いた。
「今日の講義もなかなか奥が深い内容だのう、寅次」
 父の百合之助が感心した様子で言うと、叔父の文之進もその通りじゃと言わんばかりに何度も頷いた。
「父上が仰られる通りじゃ。恐らくそれも野山獄に入牢したお蔭で、寅次の学問がますます進んだからかもしれんのう」
 兄の梅太郎も父や叔父に賛同しているようだ。
「ありがとうございます。あの獄であの囚人達と過ごした日々こそ、僕の学問の糧であります。そして今、親兄弟を相手に学問の講義ができることは誠に幸せな事と存じちょります」
 寅次郎は自身の講義を聴いてくれた親族一同に対し、感謝の意を述べる。
「寅次郎殿に一つお頼み申したいことが御座いますがよろしいかのう?」
 どこか疲れた様子の五郎左衛門が寅次郎に尋ねた。
「何でしょうか? 久保殿」
 寅次郎は心配そうな様子で五郎左衛門に尋ね返す。
「儂が文之進殿から塾を引き継いで十余年、子供達にずっと学問を教えてきたことは寅次郎殿も御存じの事じゃと思うが、儂も今年でもう五十四、それに元々病気がちなこの身体には荷が重くて仕方ないのじゃ。そこでじゃ、儂が文之進殿から引き継いだ塾を寅次郎殿に継いで欲しいと思うちょるのじゃが如何かのう?」
 五郎左衛門は深々と寅次郎に頭を下げる。
「止してくだされ! 僕は野山獄を出たとはいえ、藩から実家に蟄居謹慎するよう申しつけられちょる罪人でございます! こうして貴方方に学問の講義をできるだけでも感謝せねばならぬ身の僕に塾の経営などとても……」
 寅次郎は慌てふためきながら五郎左衛門の申し出を断った。
「五郎左衛門殿の申し出を受けんさい、寅次郎」 
 文之進が寅次郎を叱りつけるようにして言う。
「前に文で儂に申しておったことを忘れたんか? もし獄の長となれた暁には福堂策を実施して、囚人達に学問や習字、その他諸芸を習わせるとそねー申しちょったぞ。獄の長になって囚人達に学問を施すことは敵わんかったもしれんが、その代わりにこの松本村の子供達に学問を施すことは今のお前ならきっとできるはずじゃ。なのにその好機を自ら投げる真似をするとは一体何事じゃ!」
 文之進が寅次郎にきつく説教する。文之進の威圧に気圧されたのか、寅次郎を含めその場に居た者達はみな黙りこくった。
 そしてしばらく沈黙が続いた後、その沈黙を破るようにして寅次郎が喋り始めた。
「叔父上が仰られる通りです。確かに僕は以前、獄の長になれたら福堂策を実施して、囚人達に学問を施すと申し上げました。そして獄を出ることが決まったときには、ある一人の囚人から真の福堂はこの獄の外にあると申されました」
 寅次郎の記憶には、半年近く前の大深虎之丞の言葉が鮮明に残っている。
「そしてその時にその囚人は、私の事を人を照らす光だとも申しちょりました。じゃが私は自身の事を光だと思うたことは一度も御座いません。僕の目からすれば、あの獄の囚人達こそ人を照らす光じゃと思うちょります。僕はあの囚人達から、人が発する光は人それぞれ違いはあれど、みなどれもまばゆいものであることを教えられました。もし罪人の私が久保殿の塾を継承するのであれば、私が光となって塾の者達を照らすのではなく、塾の者達の光によって私自身を照らしてもらいたいと存じちょります。それでもよろしければ是非貴方様の塾を私にお任せ頂けないでしょうか? 久保殿」
 塾を継ぐ決心がついた寅次郎は久保同様深々と頭を下げる。
「もちろんじゃ。もちろんで御座いますとも。誠に感謝致しまする、寅次郎殿」
 久保は涙を流しながら寅次郎に感謝の意を述べた。
 寅次郎が久保から受け継いだこの塾こそ、後に松下村塾と呼ばれるようになる塾そのものであった。
 
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