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第3章 松陰密航
4 別れの酒宴
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嘉永七(一八五四)年三月三日、アメリカ使節のペリーと林大学頭との間で日米和親条約が締結されることが決定した。
その条約では箱館と下田を開港することや、難破船の乗組員の救助をすること、アメリカ船に食料や薪水を供給することなどが定められており、二百年近く続いた鎖国体制が遂に終わりを迎えることとなった。
その頃、江戸京橋のとある酒楼では吉田寅次郎が旧友達を呼び集め酒宴を催していた。
その酒宴には桂小五郎や宮部鼎蔵、来原良蔵、梅田雲浜、白井小助などの顔ぶれが揃っており、皆神妙な面持ちで酒を飲んでいた。
「みなもう既に知っちょると思うが、僕はこれから横浜村に滞在しちょるペルリの黒船に乗り込んでメリケンへ行くつもりじゃ!」
寅次郎は赤みを帯びた顔で自身の覚悟を語った。周りの者達はみな寅次郎の話を黙って聞いている。
「メリケンへ行って西洋の技芸や文明を学んでこようと思うのじゃ! じゃが国禁を犯すことになるけぇ、もしかしたら君達とは此度の酒宴が今生の別れになるやもしれぬ」
寅次郎は酔いが回ったのか、気分がかなり高揚しているようだ。
「なら僕もぜひ同行させて頂けないでしょうか? 先生!」
桂は寅次郎に対し頭を畳にこすりつけながら懇願した。桂は寅次郎がかつて明倫館の兵学師範を務めていた頃の教え子の一人であった。
「僕も先生と一緒にメリケンへ行って西洋の技芸を学びたく存じます! どうか僕が同行することをお許しください!」
「それはならぬ。僕の大切な弟子をこねー危険な旅に巻き込むことはできぬ。僕の気持ちを分かってはくれぬか? 桂君」
寅次郎が優しげな口調でそう言うと桂は酔っていたこともあってか、感極まって泣き出した。
「ばってん密航するっち言うても、メリケン側に乗船を拒否されたら一体どげんするつもりったい?」
泣いている桂をよそに、今年で三十五になる肥後藩士の宮部鼎蔵が心配そうな口調で寅次郎に尋ねる。
「いや、それどころか密航する前に幕府の役人に取り押さえられるかもしれんたい。密航は二年前の東北旅行とは訳が違うばい。もう一度考え直した方がよか」
宮部は何としてでも寅次郎の密航を阻止する心積もりだ。
「それも覚悟の上じゃ。例え密航が失敗に終わろうとも、ここで何もせんかったら僕という人間は死ぬんじゃ。僕にとって密航はこの日本を異国から守るための急務なのじゃ!」
寅次郎は宮部に対してというよりも、まるで自分自身に言い聞かせるようにして語った。
「もう分かっちょるじゃろう、宮部殿。寅次郎の覚悟は本物じゃ。もう誰にも止めることはできん。儂等に今できることは寅次郎の背中を押してやるぐらいのことだけじゃ」
今まで沈黙を守っていた来原が悟ったような口調で宮部に言うと、梅田雲浜等他の面々もそれに同調するようにうなづく。
「じゃが寅次郎、此度の酒宴は今生の別れのためではないっちゃ。儂はお前が密航に成功して、ほんで生きてメリケンから戻ってきよる事を信じちょる。その時は儂等に西洋の文化や技芸のことを教えてくれんかの?」
来原が寅次郎ににっこり笑いながら言った。
「もちろんじゃ! その為の密航じゃからな。必ずや密航してメリケンへ行ってみせるけぇのう!」
寅次郎もにっこり笑いながら言う。
「来原殿の申す通り、これ以上引止めようとするんは野暮以外の何物でもないったい。儂にはこげんことしかできんがせめてもの気持ちばい」
宮部は涙ぐみながらそう言うと、腰に帯びていた佩刀を寅次郎に渡した。
「かたじけない、宮部殿。思えば貴方には東北旅行の時からずっと世話になりっぱなしじゃったのう。これは僕からのせめてもの心付けです」
寅次郎は神妙な面持ちで言うと、腰に差していた脇差を宮部に手渡す。
「僕もほんの僅かですがこれを路銀の足しにしてください」
酔いが醒め落ち着きを取り戻した桂は、懐から二両をとり出して寅次郎に渡した。
「桂君! いくら君の家が裕福じゃゆうても、江戸への遊学は全て私費で余裕など全くなかったはずじゃ! 本当にこねーな大金もろうてもええんか?」
寅次郎は驚いたような様子で桂に尋ねる。
「ええんです。これが僕の気持ちです。どうか先生御無事で」
桂は祈るような気持ちで言った。
「これは儂からの餞別代わりじゃ。受け取ってくれ、寅次郎」
梅田が懐から二分銀をとり出すと、他の者達もみな続々と銀や銅銭をとり出して寅次郎に手渡した。
「みんな……僕のために…本当にかたじけない……かたじけない」
寅次郎は気持ちを抑えられなくなったのか、すすり泣きながら銀や銅銭を受け取った。
その条約では箱館と下田を開港することや、難破船の乗組員の救助をすること、アメリカ船に食料や薪水を供給することなどが定められており、二百年近く続いた鎖国体制が遂に終わりを迎えることとなった。
その頃、江戸京橋のとある酒楼では吉田寅次郎が旧友達を呼び集め酒宴を催していた。
その酒宴には桂小五郎や宮部鼎蔵、来原良蔵、梅田雲浜、白井小助などの顔ぶれが揃っており、皆神妙な面持ちで酒を飲んでいた。
「みなもう既に知っちょると思うが、僕はこれから横浜村に滞在しちょるペルリの黒船に乗り込んでメリケンへ行くつもりじゃ!」
寅次郎は赤みを帯びた顔で自身の覚悟を語った。周りの者達はみな寅次郎の話を黙って聞いている。
「メリケンへ行って西洋の技芸や文明を学んでこようと思うのじゃ! じゃが国禁を犯すことになるけぇ、もしかしたら君達とは此度の酒宴が今生の別れになるやもしれぬ」
寅次郎は酔いが回ったのか、気分がかなり高揚しているようだ。
「なら僕もぜひ同行させて頂けないでしょうか? 先生!」
桂は寅次郎に対し頭を畳にこすりつけながら懇願した。桂は寅次郎がかつて明倫館の兵学師範を務めていた頃の教え子の一人であった。
「僕も先生と一緒にメリケンへ行って西洋の技芸を学びたく存じます! どうか僕が同行することをお許しください!」
「それはならぬ。僕の大切な弟子をこねー危険な旅に巻き込むことはできぬ。僕の気持ちを分かってはくれぬか? 桂君」
寅次郎が優しげな口調でそう言うと桂は酔っていたこともあってか、感極まって泣き出した。
「ばってん密航するっち言うても、メリケン側に乗船を拒否されたら一体どげんするつもりったい?」
泣いている桂をよそに、今年で三十五になる肥後藩士の宮部鼎蔵が心配そうな口調で寅次郎に尋ねる。
「いや、それどころか密航する前に幕府の役人に取り押さえられるかもしれんたい。密航は二年前の東北旅行とは訳が違うばい。もう一度考え直した方がよか」
宮部は何としてでも寅次郎の密航を阻止する心積もりだ。
「それも覚悟の上じゃ。例え密航が失敗に終わろうとも、ここで何もせんかったら僕という人間は死ぬんじゃ。僕にとって密航はこの日本を異国から守るための急務なのじゃ!」
寅次郎は宮部に対してというよりも、まるで自分自身に言い聞かせるようにして語った。
「もう分かっちょるじゃろう、宮部殿。寅次郎の覚悟は本物じゃ。もう誰にも止めることはできん。儂等に今できることは寅次郎の背中を押してやるぐらいのことだけじゃ」
今まで沈黙を守っていた来原が悟ったような口調で宮部に言うと、梅田雲浜等他の面々もそれに同調するようにうなづく。
「じゃが寅次郎、此度の酒宴は今生の別れのためではないっちゃ。儂はお前が密航に成功して、ほんで生きてメリケンから戻ってきよる事を信じちょる。その時は儂等に西洋の文化や技芸のことを教えてくれんかの?」
来原が寅次郎ににっこり笑いながら言った。
「もちろんじゃ! その為の密航じゃからな。必ずや密航してメリケンへ行ってみせるけぇのう!」
寅次郎もにっこり笑いながら言う。
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