上 下
27 / 152
第3章 松陰密航

4 別れの酒宴

しおりを挟む
 嘉永七(一八五四)年三月三日、アメリカ使節のペリーと林大学頭との間で日米和親条約が締結されることが決定した。
 その条約では箱館と下田を開港することや、難破船の乗組員の救助をすること、アメリカ船に食料や薪水を供給することなどが定められており、二百年近く続いた鎖国体制が遂に終わりを迎えることとなった。
 



 その頃、江戸京橋のとある酒楼では吉田寅次郎が旧友達を呼び集め酒宴を催していた。
 その酒宴には桂小五郎や宮部鼎蔵みやべていぞう来原良蔵くるはらりょうぞう梅田雲浜うめだうんぴん、白井小助などの顔ぶれが揃っており、皆神妙な面持ちで酒を飲んでいた。
「みなもう既に知っちょると思うが、僕はこれから横浜村に滞在しちょるペルリの黒船に乗り込んでメリケンへ行くつもりじゃ!」
 寅次郎は赤みを帯びた顔で自身の覚悟を語った。周りの者達はみな寅次郎の話を黙って聞いている。
「メリケンへ行って西洋の技芸や文明を学んでこようと思うのじゃ! じゃが国禁を犯すことになるけぇ、もしかしたら君達とは此度の酒宴が今生の別れになるやもしれぬ」
 寅次郎は酔いが回ったのか、気分がかなり高揚しているようだ。
「なら僕もぜひ同行させて頂けないでしょうか? 先生!」
 桂は寅次郎に対し頭を畳にこすりつけながら懇願した。桂は寅次郎がかつて明倫館の兵学師範を務めていた頃の教え子の一人であった。
「僕も先生と一緒にメリケンへ行って西洋の技芸を学びたく存じます! どうか僕が同行することをお許しください!」
「それはならぬ。僕の大切な弟子をこねー危険な旅に巻き込むことはできぬ。僕の気持ちを分かってはくれぬか? 桂君」
 寅次郎が優しげな口調でそう言うと桂は酔っていたこともあってか、感極まって泣き出した。
「ばってん密航するっち言うても、メリケン側に乗船を拒否されたら一体どげんするつもりったい?」
 泣いている桂をよそに、今年で三十五になる肥後藩士の宮部鼎蔵が心配そうな口調で寅次郎に尋ねる。
「いや、それどころか密航する前に幕府の役人に取り押さえられるかもしれんたい。密航は二年前の東北旅行とは訳が違うばい。もう一度考え直した方がよか」
 宮部は何としてでも寅次郎の密航を阻止する心積もりだ。
「それも覚悟の上じゃ。例え密航が失敗に終わろうとも、ここで何もせんかったら僕という人間は死ぬんじゃ。僕にとって密航はこの日本を異国から守るための急務なのじゃ!」
 寅次郎は宮部に対してというよりも、まるで自分自身に言い聞かせるようにして語った。
「もう分かっちょるじゃろう、宮部殿。寅次郎の覚悟は本物じゃ。もう誰にも止めることはできん。儂等に今できることは寅次郎の背中を押してやるぐらいのことだけじゃ」 
 今まで沈黙を守っていた来原が悟ったような口調で宮部に言うと、梅田雲浜等他の面々もそれに同調するようにうなづく。
「じゃが寅次郎、此度の酒宴は今生の別れのためではないっちゃ。儂はお前が密航に成功して、ほんで生きてメリケンから戻ってきよる事を信じちょる。その時は儂等に西洋の文化や技芸のことを教えてくれんかの?」
 来原が寅次郎ににっこり笑いながら言った。
「もちろんじゃ! その為の密航じゃからな。必ずや密航してメリケンへ行ってみせるけぇのう!」
 寅次郎もにっこり笑いながら言う。
「来原殿の申す通り、これ以上引止めようとするんは野暮以外の何物でもないったい。儂にはこげんことしかできんがせめてもの気持ちばい」
 宮部は涙ぐみながらそう言うと、腰に帯びていた佩刀はいとうを寅次郎に渡した。
「かたじけない、宮部殿。思えば貴方には東北旅行の時からずっと世話になりっぱなしじゃったのう。これは僕からのせめてもの心付けです」
 寅次郎は神妙な面持ちで言うと、腰に差していた脇差を宮部に手渡す。
「僕もほんの僅かですがこれを路銀の足しにしてください」
 酔いが醒め落ち着きを取り戻した桂は、懐から二両をとり出して寅次郎に渡した。
「桂君! いくら君の家が裕福じゃゆうても、江戸への遊学は全て私費で余裕など全くなかったはずじゃ! 本当にこねーな大金もろうてもええんか?」
 寅次郎は驚いたような様子で桂に尋ねる。
「ええんです。これが僕の気持ちです。どうか先生御無事で」 
 桂は祈るような気持ちで言った。
「これは儂からの餞別代わりじゃ。受け取ってくれ、寅次郎」
 梅田が懐から二分銀をとり出すと、他の者達もみな続々と銀や銅銭をとり出して寅次郎に手渡した。
「みんな……僕のために…本当にかたじけない……かたじけない」
 寅次郎は気持ちを抑えられなくなったのか、すすり泣きながら銀や銅銭を受け取った。


しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

土方歳三ら、西南戦争に参戦す

山家
歴史・時代
 榎本艦隊北上せず。  それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。  生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。  また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。  そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。  土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。  そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。 (「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です) 

陸のくじら侍 -元禄の竜-

陸 理明
歴史・時代
元禄時代、江戸に「くじら侍」と呼ばれた男がいた。かつて武士であるにも関わらず鯨漁に没頭し、そして誰も知らない理由で江戸に流れてきた赤銅色の大男――権藤伊佐馬という。海の巨獣との命を削る凄絶な戦いの果てに会得した正確無比な投げ銛術と、苛烈なまでの剛剣の使い手でもある伊佐馬は、南町奉行所の戦闘狂の美貌の同心・青碕伯之進とともに江戸の悪を討ちつつ、日がな一日ずっと釣りをして生きていくだけの暮らしを続けていた…… 

アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)

三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。 佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。 幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。 ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。 又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。 海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。 一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。 事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。 果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。 シロの鼻が真実を追い詰める! 別サイトで発表した作品のR15版です。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

お江戸を舞台にスイーツが取り持つ、 ~天狐と隼人の恋道場~

赤井ちひろ
歴史・時代
小さな頃に一膳飯やの隼人に拾われた、みなしご天ちゃん。 天ちゃんと隼人の周りでおこる、幕末を舞台にした恋物語。 土方歳三の初恋・沖田総司の最後の恋・ペリー来航で海の先をみた女性の恋と短編集になってます。 ラストが沖田の最後の恋です。

夢の終わり ~蜀漢の滅亡~

久保カズヤ
歴史・時代
「───────あの空の極みは、何処であろうや」  三国志と呼ばれる、戦国時代を彩った最後の英雄、諸葛亮は五丈原に沈んだ。  蜀漢の皇帝にして、英雄「劉備」の血を継ぐ「劉禅」  最後の英雄「諸葛亮」の志を継いだ「姜維」  ── 天下統一  それを志すには、蜀漢はあまりに小さく、弱き国である。  国を、民を背負い、後の世で暗君と呼ばれることになる劉禅。  そして、若き天才として国の期待を一身に受ける事になった姜維。  二人は、沈みゆく祖国の中で、何を思い、何を目指し、何に生きたのか。  志は同じであっても、やがてすれ違い、二人は、離れていく。  これは、そんな、覚めゆく夢を描いた、寂しい、物語。 【 毎日更新 】 【 表紙は hidepp(@JohnnyHidepp) 様に描いていただきました 】

処理中です...