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第2章 黒船来航

9 寅次郎、密航を決意す

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 この頃、象山と寅次郎は浦賀から久里浜まで足を運んで、国書受理の一部始終を見聞し、江戸に帰るべく浦賀道を歩いている途中であった。
「僕はてっきし幕府は国書の受理を断固拒むものと思うちょったのに、まさか受理してしまうとは夢にも思わんかった!」
 国書を受理した幕府に対して、寅次郎が憤慨している。
「これではまるでかの阿片戦争の時に清の埼善きぜんがエゲレスのエリオットに屈し、香港の割譲や多額の賠償金の支払いを認めさせられたときと同じじゃ! 全く幕府の役人達は揃いも揃って腰抜けばかりじゃ!」
 寅次郎は怒りに任せて道端の砂利を思いっきり何度も踏みつけた。
「そう頭に血を上げるな、寅次郎よ。確かに此度のメリケンの横暴は目に余るものがあるが、今のままの日本では勝てぬのもまた事実。奴らに太刀打ちするには、江戸湾岸中にメリケンの大砲にも匹敵する大砲を設置し、メリケンの蒸気船に勝るとも劣らぬ船を数多備えた海軍を創設すること以外に道はないのじゃ」
 象山は冷静さを失った寅次郎に宥めるようにして言う。
「先生は以前からそねー仰られますが、一体どねーにしてメリケンにも匹敵する大砲や海軍を作ろうというのですか? 今の日本にはメリケンに匹敵する大砲や船を作る技芸はもちろん、それらを操る技芸を持っちょる者など一人もおらぬのが現実ではありませんか!」
 象山に宥めれれてもなお怒りが収まらない寅次郎が噛みつく。
「確かにお前の申す通りじゃ。日本一の大天才であるこの儂でもメリケンに匹敵する大砲や船を作る技芸はもちろん、それらを操る技芸など持ちあわせてはおらぬ」
 象山はあっけらかんとした様子で自画自賛ともとれる事を口にした。
「じゃったら方法は一つ、メリケンを始とした文明が栄えている国に留学すればよいのじゃ。かつて文明が遅れた国であったオロシアは、ペートル大帝自らが文明の栄えていたエゲレスに留学して技芸を学び、その技芸を持ち帰ったことにより他の西洋列強と肩を並べる程に強くなったと聞く。日本も今こそ才能のある者を西洋に留学させて、西洋式の海軍や大砲を作る技芸や操作する技芸を学ばねばならんのじゃ」
 と兼ねてからの持論を寅次郎に滔々と語る。
「なるほど、先生の仰られることは最もな事だと存じます。ですが幕府は海外への渡航を国禁と定めております。一体どねーにして西洋に人を派遣なさるおつもりなのですか?」
 象山の持論を聴いて少し頭が冷えてきたのか、寅次郎は落ち着きを取り戻し始めた。
「異国船に密航させるより他はないじゃろう。かつての儂の主君で今は亡き幸貫公が老中を務めておったころ、何度も海外渡航の禁を解くよう幕府に建言したが全く受け入れられなかった。頑迷で石頭な馬鹿共が幕府内で幅を利かせている限り、正攻法で西洋に行くことはできん」
 象山は諦めたように首を横にふっている。
「じゃが密航は国禁を犯す大罪、見つかれば間違いなく死罪は免れぬじゃろうし、何より異国船がいつどこに現れるか分からぬ以上そう容易いことではない」
 象山は大きな溜息をついて、自由に海外に行けない日本の現状を嘆いた。
「確かに容易い方法ではありませんが、異国船に密航して西洋の技芸を学ぶ以外に日本を守る術はないのでしょう? でしたら例え危険が伴ったとしても西洋に密航すべきです!」
 寅次郎は何かを決断したような顔つきで力強く言った。
「寅次郎、お前まさか本気で密航しようなどと考えているのではあるまいな? 今の話はほんの戯れで申したことじゃぞ」
 象山は狼狽している。
「本気です! 私のことなら心配には及びませぬ! 先年出奔した罪で世録も士籍も剥奪されちょる身の上、失うものはせいぜい命ぐらいしかありませぬから」
 寅次郎は微笑しながら言った。
 



 寅次郎はこの後、ペリーに引き続いてロシアのプチャーチンが四隻の軍艦を率いて長崎に来航したという知らせを江戸で聞き、ロシアの軍艦に密航すべく長崎へ向かうも、入れ替わりでプチャーチンが長崎を出港してしまったため失敗に終わった。


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