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第3章 松陰密航
1 晋作と小五郎
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嘉永七(一八五四)年二月十六日。
一か月近くの旅の末、晋作を含む騄尉の行列は江戸に到着した。
一行は桜田にあった長州藩の藩邸に入り、騄尉はそこで慶親と供に、将軍に御目見えすべく身支度を整えていくことが決まった。
晋作は江戸に着いたこの日から父小忠太の言いつけで、信濃高遠藩士であった星野葛山の著書『武学拾粋』の読書及び写本をすることになった。
「ええか、晋作。侍たるもの、いつ腹を切ることになったとしても見苦しい様だけは決して見せてはならぬ。じゃけぇそのためにも今のうちから切腹の作法を学んじょく必要があるんじゃ。江戸に滞在しちょる間、この本を読んでしっかり作法を頭にたたきこんじょけ」
小忠太から『武学拾粋』を渡された晋作は、藩邸内にあった読書教場で、ただひたすらこの本を読む日々を送っていた。
最初のうちは江戸に来ることができたうれしさもあり意気揚々と読書に励んでいたが、父との約束で藩邸から一歩も外に出ることができなかったため、次第に物足りなさを感じるようになっていった。
本を読み始めてから数週間が経ったある日、藩邸内の風呂に入るべく晋作が長屋の廊下を歩いていると、一人の青年とすれ違ってふいに声をかけられた。
「久しぶりじゃの! 晋作」
背丈が六尺近くあるその青年は、晋作に対しニッコリ笑っている。
「か、桂さん! お久しぶりです!」
晋作は驚いたような表情でその青年の顔を見ながら言った。この青年の名は桂小五郎といい、後に維新三傑の一人に名を連ねることになる木戸孝允その人である。
「まさか桂さんとこねーな所でお会いすることになるとは! 一体いつごろから江戸におられたのですか?」
晋作は桂と再会できたのがよほど嬉しかったのかうきうきしたしながら尋ねた。桂は高杉家の屋敷がある菊屋横丁の隣町である江戸屋横丁で生まれ育ったため、晋作とは昔からの顔なじみであった。
「二年程前からじゃ。江戸には剣術修行の名目で新太郎先生と供に参府したからの!」
桂も幼馴染の晋作に久しぶりに会えてうれしそうにしている。
「今では名誉ある練兵館の塾頭を務めちょる。そのせいか僕の名は他藩でもすっかり有名になっちょるみたいなんじゃ」
自信満々に桂が言った。
「おお! 桂さんがあの江戸三大道場の一つに数えられちょる練兵館の塾頭だったとは! わしもぜひ一度桂さんと手合せしたいものじゃ!」
晋作も剣術を極めようとする者の一人であったためか、ますます興奮した様子だ。
「はは、そうじゃな。近いうちに手合せできたらええの」
桂は笑いながら言うと急に真面目な顔つきになって
「ところで晋作、今度僕と一緒に横浜村へ行ってペルリの黒船でも見物せんか?」
と言って晋作を誘った。
「え? ペルリの黒船の見物をですか?」
唐突に桂から誘われた晋作は驚き困惑した表情で尋ねる。
「何じゃ、ペルリが一か月以上前に浦賀に再度来航して、今は横浜におるのを知らんかったのか?」
今度は桂が驚いたような表情になると、再び真面目な顔つきに戻り、
「実は僕が今江戸におるのは剣術修行するためだけではないっちゃ。先年ペルリの黒船が浦賀に来航して以降、日本では西洋の技術の需要が急速に高まっちょるけぇ、僕もこれを機に西洋の技術や文明を学ぼうと思うちょるんじゃ。その一環で今横浜に来航しちょるペルリの黒船を見物にしに行くつもりなのじゃ!」
と自身の意気込みを熱く語った。
「どうじゃ? 晋作。ペルリの黒船を真近で見れるええ機会じゃぞ! 横浜に行きたいとは思わんか?」
桂は何とかして晋作を一緒に連れていこうと必死になっている。
「……誘ってくれたのはありがたいですが一緒に行くことはできませぬ」
晋作はしばらく考えこんだ後、苦渋に満ちた表情で言った。
「何故じゃ? ペルリの黒船には興味がないんか?」
桂は不思議そうな顔をしながら晋作に尋ねる。
「わしは今回、父上に藩邸から外に一歩も出ないことを約束したことで特別に江戸行きを許されちょる身の上です。もしわしが桂さんと供に横浜村に参れば父上との約束を違えることになります。どうかご勘弁下さい」
晋作の心の中は桂への申し訳なさと、横浜へ行きたくても行けない歯がゆさで一杯になっている。
「なるほど、そねーな事情があったんか……それでは致し方ないのう」
桂は余程がっかりしたのか落胆したような表情で呟いた。
「僕はこれから道場へ戻らねばならぬからこれにて失礼する。また機会があったら会おう」
桂がその場から足早に去って行くと、晋作はその姿が見えなくなるまでずっと見つめ続けた。
一か月近くの旅の末、晋作を含む騄尉の行列は江戸に到着した。
一行は桜田にあった長州藩の藩邸に入り、騄尉はそこで慶親と供に、将軍に御目見えすべく身支度を整えていくことが決まった。
晋作は江戸に着いたこの日から父小忠太の言いつけで、信濃高遠藩士であった星野葛山の著書『武学拾粋』の読書及び写本をすることになった。
「ええか、晋作。侍たるもの、いつ腹を切ることになったとしても見苦しい様だけは決して見せてはならぬ。じゃけぇそのためにも今のうちから切腹の作法を学んじょく必要があるんじゃ。江戸に滞在しちょる間、この本を読んでしっかり作法を頭にたたきこんじょけ」
小忠太から『武学拾粋』を渡された晋作は、藩邸内にあった読書教場で、ただひたすらこの本を読む日々を送っていた。
最初のうちは江戸に来ることができたうれしさもあり意気揚々と読書に励んでいたが、父との約束で藩邸から一歩も外に出ることができなかったため、次第に物足りなさを感じるようになっていった。
本を読み始めてから数週間が経ったある日、藩邸内の風呂に入るべく晋作が長屋の廊下を歩いていると、一人の青年とすれ違ってふいに声をかけられた。
「久しぶりじゃの! 晋作」
背丈が六尺近くあるその青年は、晋作に対しニッコリ笑っている。
「か、桂さん! お久しぶりです!」
晋作は驚いたような表情でその青年の顔を見ながら言った。この青年の名は桂小五郎といい、後に維新三傑の一人に名を連ねることになる木戸孝允その人である。
「まさか桂さんとこねーな所でお会いすることになるとは! 一体いつごろから江戸におられたのですか?」
晋作は桂と再会できたのがよほど嬉しかったのかうきうきしたしながら尋ねた。桂は高杉家の屋敷がある菊屋横丁の隣町である江戸屋横丁で生まれ育ったため、晋作とは昔からの顔なじみであった。
「二年程前からじゃ。江戸には剣術修行の名目で新太郎先生と供に参府したからの!」
桂も幼馴染の晋作に久しぶりに会えてうれしそうにしている。
「今では名誉ある練兵館の塾頭を務めちょる。そのせいか僕の名は他藩でもすっかり有名になっちょるみたいなんじゃ」
自信満々に桂が言った。
「おお! 桂さんがあの江戸三大道場の一つに数えられちょる練兵館の塾頭だったとは! わしもぜひ一度桂さんと手合せしたいものじゃ!」
晋作も剣術を極めようとする者の一人であったためか、ますます興奮した様子だ。
「はは、そうじゃな。近いうちに手合せできたらええの」
桂は笑いながら言うと急に真面目な顔つきになって
「ところで晋作、今度僕と一緒に横浜村へ行ってペルリの黒船でも見物せんか?」
と言って晋作を誘った。
「え? ペルリの黒船の見物をですか?」
唐突に桂から誘われた晋作は驚き困惑した表情で尋ねる。
「何じゃ、ペルリが一か月以上前に浦賀に再度来航して、今は横浜におるのを知らんかったのか?」
今度は桂が驚いたような表情になると、再び真面目な顔つきに戻り、
「実は僕が今江戸におるのは剣術修行するためだけではないっちゃ。先年ペルリの黒船が浦賀に来航して以降、日本では西洋の技術の需要が急速に高まっちょるけぇ、僕もこれを機に西洋の技術や文明を学ぼうと思うちょるんじゃ。その一環で今横浜に来航しちょるペルリの黒船を見物にしに行くつもりなのじゃ!」
と自身の意気込みを熱く語った。
「どうじゃ? 晋作。ペルリの黒船を真近で見れるええ機会じゃぞ! 横浜に行きたいとは思わんか?」
桂は何とかして晋作を一緒に連れていこうと必死になっている。
「……誘ってくれたのはありがたいですが一緒に行くことはできませぬ」
晋作はしばらく考えこんだ後、苦渋に満ちた表情で言った。
「何故じゃ? ペルリの黒船には興味がないんか?」
桂は不思議そうな顔をしながら晋作に尋ねる。
「わしは今回、父上に藩邸から外に一歩も出ないことを約束したことで特別に江戸行きを許されちょる身の上です。もしわしが桂さんと供に横浜村に参れば父上との約束を違えることになります。どうかご勘弁下さい」
晋作の心の中は桂への申し訳なさと、横浜へ行きたくても行けない歯がゆさで一杯になっている。
「なるほど、そねーな事情があったんか……それでは致し方ないのう」
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