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ブラック企業に勤める社畜OLが異世界トリップして騎士の妻になるそうです

あま~い!と叫んで砂を吐く

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―――事は、寝室にみはるの悲鳴が響き渡る、その数時間前に遡る。
既に夕刻を大分過ぎたところであったが、一人の客人が領主館を訪れたのである。
「父の友人のセイン殿だ。少し早いが、私達の祝いに駆けつけてくれたそうだ」
「みはるです。初めまして」
結婚を知らせるリュートからの手紙を受け取り、急いで駆けつけてきたらしい。
こんな時間に突然屋敷の扉を叩かれた事には驚いたが、そんな事情なら仕方ない。
「よろしくな、嬢ちゃん」
「こちらこそ」
挨拶のつもりか、右手を差し出され、反射的にみはるもその手を握りかえした。
リュートにも言えることだが、この人もまた剣を持つ人間の手だ、とその掌に触れて感じる。
分厚く、いくつもの傷が刻まれた、ゴツゴツとした男の人の手。
リュートの父親の友人ということは、若く見積もっても40代後半から50代といったところか。
顔には年相応のシワが刻まれてもいるが、琥珀色の瞳を細め、にやりと笑うその表情にはどこか悪童めいたものが見受けられ、実年齢よりもずっと若々しい印象を受ける。
少し赤みがかった茶髪は、鉄錆色とでもいうのだろうか、彼のおどけた雰囲気にはよく似合う。
「こんな時間に悪いなぁ。
昔から息子みたいに可愛がってた坊主がとうとう身を固めるってんで、つい気がせっちまって。
取るもの取らずこっちに来ちまったもんで、宿もとってねぇんだわ」
ここんちに止めてくれ、悪びれもなく話すセインに、もちろん否はない。
「ミハル。どこか、今日すぐに泊まれそうな部屋は…」
「大丈夫です。客室をいくつか片付けてありますからそこに泊まってもらえば問題ありません。
夕食は、こちらでリュート様と共に召し上がりますか?」
仕度はもちろん二人分しかしていないが、工夫すれば今からでも一人分くらいなんとかなる。
「いや、そこまで迷惑はかけられんさ。寝床だけ貸してもらえりゃあ、後は適当にそのへんの店で食ってくるよ。
このあたりにゃ、最近旨い酒ができたって話だし、酒場めぐりも乙なもんだろ。
どっかおすすめの飯屋がありゃ、それだけ教えてもらえると助かるんだが」
「それでしたら、ここから南に下ったところにある、レガリア食堂って店がオススメですよ。
お酒もあそこでしたら地酒が複数常備されてるはずです」
くいっと、手酌で酒を飲む素振りをしつつ尋ねるセインに、日頃付き合いのある食堂の名を告げると、嬉しそうに破顔する。
「ありがてぇ」
「本当なら一緒に食事をと勧めたいところなんですがね…」
リュートが困ったように苦笑するが、それにはワケがある。
実は、この領主館には彼の望む酒がほとんど置かれていないのだ。
残業が百時間を越すブラック企業に勤めていたみはるは、飲み会やコンパといった酒の席にとんと縁がなく、また会社自身もほとんどそう言った催しを開くことがなかったため、酒のつきあい、というものを全く知らずにここまで来ている。
流石に、まったくアルコールを飲んだことがない、というわけではないが、それでもせいぜいスーパーで売られている缶中ハイ程度のものだ。酒飲みの友人に言わせればあんなものジュースである。
それに対してこの国の酒というのは、ほぼ日本酒か芋焼酎のようなものに近い。
しかも果汁を入れてせっかくのアルコール度数を下げるような勿体無い真似はしないとあって、飲み慣れないみはるには、かなりきつい代物だ。
また、意外なことにリュートもほとんど酒を飲まない。
飲めないわけではないのだろうが、未だかつて彼が好んで酒を用意している姿、というのは一度も見たことがない。
付き合い程度になら嗜むようだから、リュートが彼に付き合うというのなら今から酒を仕入れてきてもいいのだが、リュートの表情を見る限り、やめておいたほうが無難だろう。
どうやら結構な酒好きらしく、軽く嗜む程度の酒では相手にもならないようだ。
「合鍵を渡しておきますから、ごゆっくりどうぞ」
「おぅ。積もる話と、お前さんのノロケ話ってやつは、また後でじっくり聞かせてもらうぜ」
ひらひらと手を振り、早速館を出てゆくセイン。
再び二人きりになった領主館で、リュートはなぜかみはるをジッと見つめる。
「?どうしたました?」
「いや…」
なにかおかしなところでもあったろうか。
キョロキョロとあたりを見回し、それから一周くるりと回って自分の服を見る。
どこもおかしなところはなさそうだが。
「…妙なことを聞くと思うだろうが…」
「はい」
「…ミハル、君はあの人のことをどう思う?」
「…はい?」
初めに前置きをつけるあたり自覚はあるようだが、真面目な顔で、妙なことを言い出すものだ。
「どう思うって…それは」
未来の夫(確定)の父親の友人で、子供の頃からお世話になっている人。
つまり、無下にはできない相手である。
「いい人そうだな~とは思いましたけど」
ちょいワルおやじ系だな、と思ったことは内緒だ。
「他には?」
「…他って…具体的にどんなもので?」
―――これは、一体何を求められているのだろうか。
今までそれなりの付き合いを続けてきたが、今日ほど意図のわからない質問はこれまでない。
もしかして、浮気を疑われているとかそういうことだろうか。
「何も、感じはしなかったか」
「…それはどういう意味でしょうか」
あれか。目があった瞬間ビビッっときちゃった的な事を言っているのか。
だとしたら全く見当違いだと困ったように問いかけ返すみはるに、「何もないならいいんだ」とリュートはあっさり発言を翻す。
「それよりミハル。君はもう寝る時間じゃないのか?アイリーンとの約束の時間だ」
「はっ。そうでしたっ!少しでも遅れるとなぜかバレて後で怒られるんですよね~」
あれから時々領主館にやって来てはみはるのケアをしてくれていアイリーンだが、ちょっとした不摂生にもすぐに気がつき、教育的指導が入る。
式を間近に控えたここ最近の力の入れようは、生半ではない。
「明日はセイン殿を昼食に招待しよう。
昼までに、酒をいくつか見繕っておいてくれるか」
昼間なら、まだそれほど飲まないだろうから、との意図をにじませてかけられた声に、「了解です」といつもの調子で答える。
「あぁ、それと」
「まだ何かありましたか?リュート様」
「…そろそろ、そのリュート様、というはやめ時かと思うんだが」
「う」
―――以前から言われていたことだが、なぜ今ぶっこんできた。
「私たちは数日後には夫婦になるんだ。リュート、と呼び捨てにすればいい」
「まぁそうなんですけど…。私の故郷では年上の男性を呼び捨てにするというのは相当な失礼に当たることで…」
「夫のことも、呼び捨てにしないのか?」
「いえ。…いや、呼び捨てじゃない夫婦もいますけど…まぁ、夫婦の形はいろいろですから、私たちも私達なりの関係でいいんじゃないかと…」
「だが、私は呼んで欲しい。なんなら『あなた』でもいいが」
「ハードルが一気に跳ね上がった!」
ひぃ、とすくみあがったみはるは、「それはまた後で考えさせてもらいますので、今日はもう休みます!」と逃げを打つ。
問題の先送りだが、日本人にとって「検討しておきます」はお断りの常套句だ。
それがわからないリュートではなかろうが、どうやら今日はそれ以上の追求はせずにおいてくれるらしい。
ほっと肩をなでおろしたところで、立ち去ろうとするみはるの腕を掴み、リュートが囁く。
「お休みの挨拶は?」
「…くっ!今日も忘れてなかったかっ!」
今日はいけると思ったのに、と叫びながら、何かを吹っ切るようにリュートを見上げたみはるは、彼の大きな胸に、思い切って抱きつく。
「おやすみなさい、リュート様!」
チュッ。
「あぁ、おやすみ」
ほんの少し、頬の横を掠めるだけの、子供だましな口づけをして、すぐに彼から離れる。
名残惜しそうだが、ひとまずはそれで妥協することにしたのか、ぽんとその頭に手を乗せたリュートは今度は自分からミハルの頬に口づける。
「また、明日」
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