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うらにわのこどもたち3 空中楼閣
THE TOWER(2/2)
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十歌もまた、眠兎と話をしなければと考えていた。向こうの世界で起こった事。それを元に眠兎と意見を交わしたい。今後の重要な足がかりとする為に。
昼食後、蒼一郎は真白に連れられ庭へ出掛けたようだった。食事が終わってすぐに真白に腕を引っ張られていたのを思い出す。点滴が外れて以来、二人はよく一緒に遊んでいるのを見かける。蒼一郎の様子に変化はない。……「先生の意思が僕の意思だよ」と十歌に語った、あの時以外は。
眠兎の部屋へ向かおうと部屋を出る。ドアを開けた途端、大規と鉢合わせた。どうやら今まさにドアをノックしようとしていたらしい。
「ああ、十歌くん。丁度良かった。君に用事があったんだ」
「……何ですか?」
「うん。ちょっと二人で話したいなと思って。僕の部屋でこれからいいかな」
言い方こそ柔らかいが、こちらに拒否権がないのは明らかだった。
「……はい」
「良かった。じゃあ行こうか」
マスクの下、微笑んだ大規の後に続く。廊下を歩きながら十歌は窓の外を見た。風が強いのか木々の深い緑が揺れている。夏の終わりの光がさざ波のように大規の背中を照らしていた。
*
「どうぞ」
「失礼します」
大規に促され部屋へと入る。入った瞬間、ふわりとコーヒーの香りがした。パソコンの低い稼働音が聞こえる。室内を見渡す。デスクの上の三台のモニター。藍色のマグカップ。中には飲みかけのコーヒーが入っている。マグカップ横の小さな灰皿。恐らくはステンレス製のものだろう。黒色でシンプルな円形をしている。吸殻はない。印刷機が置いてある。木製の本棚に収まるのは学術書か何かだろうか。整然と並んだ本と、何枚かのレコード。窓の近くにレコードプレーヤーが見える。蓄音機のような形は趣味なのだろうか。
「珈琲は飲むかな?」
「……いえ」
大規はドアを閉め、椅子に座る。キャスターのついた黒の椅子。色彩を感じない男だなと十歌は思う。外見といい調度品といい、白と黒で構成された男。
「こうしてきちんと話すのは初めてだね。最近は皆とも仲良くしているようで、僕も安心してるよ」
「……はい」
「何か心配な事や、困っている事は?もし何かあれば、出来る限り改善するようにするよ」
「いえ、特には……」
「そっか。それならいいんだ」
人懐っこい声。優しく丁寧な響きに、十歌は警戒し身を固くする。
「それで、話って何ですか」
「ああ。うん。そうだね、本題に入ろう」
大規は太腿のあたりで指を組み、幾分真剣な眼差しをこちらへと向ける。
「君はこの研究施設をどう思う?」
「………………」
大規の意図が分からず、黙って様子を窺う。彼は肩を竦めた。
「僕はね。正直な所、この研究施設をよく思ってないんだよ」
「……え?」
「見せかけの幸福。見せかけの楽園。こんな歪でグロテスクなものがうつくしいわけがない。所長は満足そうにしてるけどね」
意外かな、と彼は微笑む。
「どうして俺にそんな話をするんですか」
「君は初めからこの研究にも研究施設にも否定的な個体だった。僕が君を生かしたのはそれが理由だよ。君ならこの世界を変えてくれる気がしてね。そして実際、変化は起きた。ずっと変わらずにいた研究施設が、君を中心に変わっていった。……本当に、十歌くんのお陰だよ。とても感謝しているんだ」
「……あなたは、この研究施設を変えたかった……?」
そうだよ、と彼は頷く。
「十歌くんは、空中楼閣という言葉を知っているかな?」
いえ、と返す。初めて耳にする言葉だった。
「空中楼閣というのは、元々は蜃気楼の事だよ。転じて――根拠の無い事や絵空事を指して言うんだ。まさに所長の描く理想や幸福そのものだと思わないかな」
十歌の黒曜石のような瞳と、大規の真夜中を切り取ったような瞳が交わる。冷めた瞳の色も、あまり感情を表さない顔も、特徴だけを切り取るなら二人はとても近かった。カードの表と裏のように、同じ特徴を持ち、決定的に違う性質を持つ、対照的な二人。
「誰もが幸せな世界を目指す。それ自体はとても大切な事だと僕だって思う。だけどこんなのおかしい。所長の研究――所長の欲望には果てがない。こんな狂った研究はやめるべきなんだ。君もそう思うでしょう?」
大規が十歌へと手を伸ばす。指先が手首を掴もうとした瞬間、それをとっさに振り払った。本能が危険を告げる。甘言に惑わされてはいけない。
こいつは嘘をついている。
「……どうしたのかな?」
「あなたの考えている事は、本当にそれが全てですか?」
静かに大規を問い詰める。彼は柔らかな雰囲気のまま困ったように笑った。
「僕はいつだって幸せを望んでいるよ?所長の抱く幸せの基準とは別の形だけど」
「そういう嘘はもういいです」
きっぱりと、十歌。
「あなたの話は真実がない。あなたの振る舞いも見せかけだ。いかにも優しそうに見せて、悪意しか感じない」
「悪意?」
大規は緩く首を傾げる。
「あなたの目的は何なんですか。変化はきっかけに過ぎない。あなたが変化を望んだのは、皆の幸福のためじゃない。もっと別の目的の為だ」
「……どうして、そう思うのかな?」
大規の瞳が、十歌を見上げる。十歌も瞳を逸らさずに答える。
「〝途切れた時間を元に戻すため〟……あなたが望んだのはそのための変化。違いますか?」
あの、眠兎の姿を借りた「何か」が語った言葉。それを口にした瞬間、大規の動きがぴたりと止まった。僅かに見開いた瞳に隠しきれない動揺が浮かぶ。直後、彼の瞳は動揺とは別の色を宿した。怒りと、憎悪と、嫉妬。それらをぐちゃぐちゃに濃縮して押し込めた瞳。その目が爬虫類のようにぐるんと動き、再び十歌を捉える。
「…………何を言っているのか分からないな」
あくまで穏やかな口調のまま、彼は続ける。
「仮に十歌くんの言う通りだったとしようか。どうしてそれが悪意や皆の幸せを望んでいない話に結びつくんだろう。流石にそれは話が飛躍しすぎじゃないかな」
「だったら、蒼一郎の記憶や薬物投与。それらはどう説明するんですか。個人の記憶を操作する行為や奪う行為に、悪意がないとはとても思えない。あなたの立場なら防ぐ事も出来た筈だ。それでも皆の幸せを願っているというなら、あなたの幸せの基準とは一体何なんですか」
「うーん、どうしよう……警戒されたものだなぁ……」
彼は苦笑し、息をつく。
「僕は研究者側の人間だからね。酷い事もしてきたし……仕方ないとはいえ、少しは信じて欲しいんだけどな」
「もう一度聞きます。あなたは何がしたいんですか。いや――何もかもを利用して何をするつもりなんですか」
「…………はぁ。…………参ったな」
揺るがない十歌の瞳に彼は降参したようにふっと微笑み、そして。
全ての演技を辞めた。
「君を利用して良かったよ。七二四一六番」
暗い、暗い、闇の底から響いてくるような声だった。およそ感情というものが抜け落ちた、穏やかなのに淡々として異質さの際立つ無機質で不気味な響き。夜を映した瞳からは何一つ感情を読み取れない。いや、そもそも感情らしい感情を何も向けられていないのだ。怒りも、哀しみも、悪意すらも。目の前に亡霊が座っているようだった。日野尾に頬を張られた時すら何も感じなかった自分から、すっと血の気が引くのが分かる。足の裏から根が生えたように、大規の前から動けない。
「何を勘違いしているんだろう。実験体に教える事なんてひとつも無いんだよ」
ごくり、と喉がなる音がやけに響いて聞こえた。意識しなければ呼吸すら忘れてしまいそうな、空気の重み。
「さて。話し込んでしまったね。今日の夕食は……どうしようかな。考えておくね、十歌くん」
再び優しげな雰囲気を纏い、大規は微笑む。話は終わり、という事なのだろう。彼の開けたドアに促されるように部屋を出る。
身体を掻きむしりたくなるような恐怖が、心にべったりと張り付いていた。自分の部屋へと足早に歩みを進める。一刻も早く大規の部屋から遠ざかりたかった。
*
十歌は自室のドアを閉め、机の引き出しからノートを取り出す。椅子には座らずページをめくり文字を辿る。眠兎と同盟を結んだ日。蒼一郎の点滴が外れた日。スイカ割りをした午後。カイと対面した暑い日。日々の些細な事。汗で湿った指先が紙に吸い付くようだった。
役割の終焉。
十歌はそれを強く感じていた。本当に役割が終わるその前に、まだ出来る事がある筈だ。日々の記録の中に、日々の記憶の中に、十歌は手掛かりを探す。ほんの些細なことでもいい。それを見つけて眠兎に託さなければ。
嫌な予感ばかりが膨らむ。気持ちの悪い汗が背中を伝うのが分かった。
と、背後でドアが開く音に振り返る。蒼一郎が立っていた。こちらへ近付いてくる。
「あ、探したんだよ。十歌《とうた》くん」
「ああ、何か用――……」
瞬間。
どん、という衝撃があった。腹部が熱い。熱くて、重くて、痛い。近い痛みを知っていた。母親にフォークを突き立てられた、あれよりもっと強い衝撃。思考が状況に追いつかない。
――今、何が起こった?
蒼一郎の名前を呼ぼうとした。蒼一郎は瞬きひとつせず十歌を見ている。いつもと変わらない穏やかな表情。
「ぼくはせんせいのてんしなんだ」
蒼一郎のくちびるが動く。彼の瞳の中に呆然とした自分の顔が映っている。
蒼一郎の手には肉厚のナイフが握られていた。血にまみれたそれで更に十歌を突き刺す。どうにかナイフを持つ手を掴もうとする。腕に向けて切っ先が線を描いた。焼けるような痛み。腕についた線は赤く色付き、血が滴る。白いシャツを汚す痛々しい程鮮やかな赤。
バランスを崩し、しりもちをつく。馬乗りになった蒼一郎は尚もナイフを振り下ろす。そこに一切の慈悲も躊躇もなかった。ナイフが血で滑るのか、蒼一郎の手が傷付いているのが分かる。混ざり合う赤。痛みに気付かないのか勢いが弱まることはない。衝撃と重い痛みが身体を襲う。白かった互いの服は真っ赤に染まっていた。込み上げる吐き気。思わず咳き込む。口内に血の味が広がって溢れる。視界が暗い。耳鳴りがする。身体が重い。意識が掠れていく。
蒼一郎は穏やかな顔でナイフを振り下ろし続ける。腕に。腹部に。胸部に。
そして最期に、首元に向かって振り下ろされるナイフの先端を、十歌の視界は捉えていた。
*
「何をするつもりなのか、か……」
ひとりきりの室内。椅子に座ったまま、大規はぼんやりと十歌の言葉を反芻する。遠くでこどもたちの笑い声が聞こえる。仄かなオレンジ色の日差しが窓辺に射し込む。光の加減で室内が色褪せて見えた。
彼はおもむろに立ち上がり、棚からレコードを取り出す。その中の一枚をプレーヤーにセットし、静かに針を落とした。鐘の音を思わせるピアノの音が部屋に響く。
モーリス・ラヴェルのピアノ組曲「夜のガスパール」第二曲――変ホ短調の重々しいテンポで構成された曲。その音楽を聴きながら、大規は机の引き出しに閉まった煙草を取り出し、火をつける。約六分のピアノの音色に合わせ、ゆっくりと紫煙を吐き出し、灰皿へと灰を落とす。
最後の一音の余韻に浸りながら、力無く椅子に座り宙を仰ぐ。そっと閉じた瞳。その瞳が再び世界を映す。決意と陶酔。その両方を宿して。
「そうだね。待っていたよ。ずっと。ずっとね」
彼はどろりとした優しい声で囁く。煙草が入っていた引き出しの奥から一冊の詩集を取り出し、デスクの上に置いた。古びた表紙を愛おしそうに撫でる。
表紙には、流れるようなうつくしい書体でタイトルが書いてある。大規は金の箔押しで書かれたタイトルを優しく指でなぞり、ふふ、と幸せそうに微笑んだ。
――「Mother Goose」
十歌もまた、眠兎と話をしなければと考えていた。向こうの世界で起こった事。それを元に眠兎と意見を交わしたい。今後の重要な足がかりとする為に。
昼食後、蒼一郎は真白に連れられ庭へ出掛けたようだった。食事が終わってすぐに真白に腕を引っ張られていたのを思い出す。点滴が外れて以来、二人はよく一緒に遊んでいるのを見かける。蒼一郎の様子に変化はない。……「先生の意思が僕の意思だよ」と十歌に語った、あの時以外は。
眠兎の部屋へ向かおうと部屋を出る。ドアを開けた途端、大規と鉢合わせた。どうやら今まさにドアをノックしようとしていたらしい。
「ああ、十歌くん。丁度良かった。君に用事があったんだ」
「……何ですか?」
「うん。ちょっと二人で話したいなと思って。僕の部屋でこれからいいかな」
言い方こそ柔らかいが、こちらに拒否権がないのは明らかだった。
「……はい」
「良かった。じゃあ行こうか」
マスクの下、微笑んだ大規の後に続く。廊下を歩きながら十歌は窓の外を見た。風が強いのか木々の深い緑が揺れている。夏の終わりの光がさざ波のように大規の背中を照らしていた。
*
「どうぞ」
「失礼します」
大規に促され部屋へと入る。入った瞬間、ふわりとコーヒーの香りがした。パソコンの低い稼働音が聞こえる。室内を見渡す。デスクの上の三台のモニター。藍色のマグカップ。中には飲みかけのコーヒーが入っている。マグカップ横の小さな灰皿。恐らくはステンレス製のものだろう。黒色でシンプルな円形をしている。吸殻はない。印刷機が置いてある。木製の本棚に収まるのは学術書か何かだろうか。整然と並んだ本と、何枚かのレコード。窓の近くにレコードプレーヤーが見える。蓄音機のような形は趣味なのだろうか。
「珈琲は飲むかな?」
「……いえ」
大規はドアを閉め、椅子に座る。キャスターのついた黒の椅子。色彩を感じない男だなと十歌は思う。外見といい調度品といい、白と黒で構成された男。
「こうしてきちんと話すのは初めてだね。最近は皆とも仲良くしているようで、僕も安心してるよ」
「……はい」
「何か心配な事や、困っている事は?もし何かあれば、出来る限り改善するようにするよ」
「いえ、特には……」
「そっか。それならいいんだ」
人懐っこい声。優しく丁寧な響きに、十歌は警戒し身を固くする。
「それで、話って何ですか」
「ああ。うん。そうだね、本題に入ろう」
大規は太腿のあたりで指を組み、幾分真剣な眼差しをこちらへと向ける。
「君はこの研究施設をどう思う?」
「………………」
大規の意図が分からず、黙って様子を窺う。彼は肩を竦めた。
「僕はね。正直な所、この研究施設をよく思ってないんだよ」
「……え?」
「見せかけの幸福。見せかけの楽園。こんな歪でグロテスクなものがうつくしいわけがない。所長は満足そうにしてるけどね」
意外かな、と彼は微笑む。
「どうして俺にそんな話をするんですか」
「君は初めからこの研究にも研究施設にも否定的な個体だった。僕が君を生かしたのはそれが理由だよ。君ならこの世界を変えてくれる気がしてね。そして実際、変化は起きた。ずっと変わらずにいた研究施設が、君を中心に変わっていった。……本当に、十歌くんのお陰だよ。とても感謝しているんだ」
「……あなたは、この研究施設を変えたかった……?」
そうだよ、と彼は頷く。
「十歌くんは、空中楼閣という言葉を知っているかな?」
いえ、と返す。初めて耳にする言葉だった。
「空中楼閣というのは、元々は蜃気楼の事だよ。転じて――根拠の無い事や絵空事を指して言うんだ。まさに所長の描く理想や幸福そのものだと思わないかな」
十歌の黒曜石のような瞳と、大規の真夜中を切り取ったような瞳が交わる。冷めた瞳の色も、あまり感情を表さない顔も、特徴だけを切り取るなら二人はとても近かった。カードの表と裏のように、同じ特徴を持ち、決定的に違う性質を持つ、対照的な二人。
「誰もが幸せな世界を目指す。それ自体はとても大切な事だと僕だって思う。だけどこんなのおかしい。所長の研究――所長の欲望には果てがない。こんな狂った研究はやめるべきなんだ。君もそう思うでしょう?」
大規が十歌へと手を伸ばす。指先が手首を掴もうとした瞬間、それをとっさに振り払った。本能が危険を告げる。甘言に惑わされてはいけない。
こいつは嘘をついている。
「……どうしたのかな?」
「あなたの考えている事は、本当にそれが全てですか?」
静かに大規を問い詰める。彼は柔らかな雰囲気のまま困ったように笑った。
「僕はいつだって幸せを望んでいるよ?所長の抱く幸せの基準とは別の形だけど」
「そういう嘘はもういいです」
きっぱりと、十歌。
「あなたの話は真実がない。あなたの振る舞いも見せかけだ。いかにも優しそうに見せて、悪意しか感じない」
「悪意?」
大規は緩く首を傾げる。
「あなたの目的は何なんですか。変化はきっかけに過ぎない。あなたが変化を望んだのは、皆の幸福のためじゃない。もっと別の目的の為だ」
「……どうして、そう思うのかな?」
大規の瞳が、十歌を見上げる。十歌も瞳を逸らさずに答える。
「〝途切れた時間を元に戻すため〟……あなたが望んだのはそのための変化。違いますか?」
あの、眠兎の姿を借りた「何か」が語った言葉。それを口にした瞬間、大規の動きがぴたりと止まった。僅かに見開いた瞳に隠しきれない動揺が浮かぶ。直後、彼の瞳は動揺とは別の色を宿した。怒りと、憎悪と、嫉妬。それらをぐちゃぐちゃに濃縮して押し込めた瞳。その目が爬虫類のようにぐるんと動き、再び十歌を捉える。
「…………何を言っているのか分からないな」
あくまで穏やかな口調のまま、彼は続ける。
「仮に十歌くんの言う通りだったとしようか。どうしてそれが悪意や皆の幸せを望んでいない話に結びつくんだろう。流石にそれは話が飛躍しすぎじゃないかな」
「だったら、蒼一郎の記憶や薬物投与。それらはどう説明するんですか。個人の記憶を操作する行為や奪う行為に、悪意がないとはとても思えない。あなたの立場なら防ぐ事も出来た筈だ。それでも皆の幸せを願っているというなら、あなたの幸せの基準とは一体何なんですか」
「うーん、どうしよう……警戒されたものだなぁ……」
彼は苦笑し、息をつく。
「僕は研究者側の人間だからね。酷い事もしてきたし……仕方ないとはいえ、少しは信じて欲しいんだけどな」
「もう一度聞きます。あなたは何がしたいんですか。いや――何もかもを利用して何をするつもりなんですか」
「…………はぁ。…………参ったな」
揺るがない十歌の瞳に彼は降参したようにふっと微笑み、そして。
全ての演技を辞めた。
「君を利用して良かったよ。七二四一六番」
暗い、暗い、闇の底から響いてくるような声だった。およそ感情というものが抜け落ちた、穏やかなのに淡々として異質さの際立つ無機質で不気味な響き。夜を映した瞳からは何一つ感情を読み取れない。いや、そもそも感情らしい感情を何も向けられていないのだ。怒りも、哀しみも、悪意すらも。目の前に亡霊が座っているようだった。日野尾に頬を張られた時すら何も感じなかった自分から、すっと血の気が引くのが分かる。足の裏から根が生えたように、大規の前から動けない。
「何を勘違いしているんだろう。実験体に教える事なんてひとつも無いんだよ」
ごくり、と喉がなる音がやけに響いて聞こえた。意識しなければ呼吸すら忘れてしまいそうな、空気の重み。
「さて。話し込んでしまったね。今日の夕食は……どうしようかな。考えておくね、十歌くん」
再び優しげな雰囲気を纏い、大規は微笑む。話は終わり、という事なのだろう。彼の開けたドアに促されるように部屋を出る。
身体を掻きむしりたくなるような恐怖が、心にべったりと張り付いていた。自分の部屋へと足早に歩みを進める。一刻も早く大規の部屋から遠ざかりたかった。
*
十歌は自室のドアを閉め、机の引き出しからノートを取り出す。椅子には座らずページをめくり文字を辿る。眠兎と同盟を結んだ日。蒼一郎の点滴が外れた日。スイカ割りをした午後。カイと対面した暑い日。日々の些細な事。汗で湿った指先が紙に吸い付くようだった。
役割の終焉。
十歌はそれを強く感じていた。本当に役割が終わるその前に、まだ出来る事がある筈だ。日々の記録の中に、日々の記憶の中に、十歌は手掛かりを探す。ほんの些細なことでもいい。それを見つけて眠兎に託さなければ。
嫌な予感ばかりが膨らむ。気持ちの悪い汗が背中を伝うのが分かった。
と、背後でドアが開く音に振り返る。蒼一郎が立っていた。こちらへ近付いてくる。
「あ、探したんだよ。十歌《とうた》くん」
「ああ、何か用――……」
瞬間。
どん、という衝撃があった。腹部が熱い。熱くて、重くて、痛い。近い痛みを知っていた。母親にフォークを突き立てられた、あれよりもっと強い衝撃。思考が状況に追いつかない。
――今、何が起こった?
蒼一郎の名前を呼ぼうとした。蒼一郎は瞬きひとつせず十歌を見ている。いつもと変わらない穏やかな表情。
「ぼくはせんせいのてんしなんだ」
蒼一郎のくちびるが動く。彼の瞳の中に呆然とした自分の顔が映っている。
蒼一郎の手には肉厚のナイフが握られていた。血にまみれたそれで更に十歌を突き刺す。どうにかナイフを持つ手を掴もうとする。腕に向けて切っ先が線を描いた。焼けるような痛み。腕についた線は赤く色付き、血が滴る。白いシャツを汚す痛々しい程鮮やかな赤。
バランスを崩し、しりもちをつく。馬乗りになった蒼一郎は尚もナイフを振り下ろす。そこに一切の慈悲も躊躇もなかった。ナイフが血で滑るのか、蒼一郎の手が傷付いているのが分かる。混ざり合う赤。痛みに気付かないのか勢いが弱まることはない。衝撃と重い痛みが身体を襲う。白かった互いの服は真っ赤に染まっていた。込み上げる吐き気。思わず咳き込む。口内に血の味が広がって溢れる。視界が暗い。耳鳴りがする。身体が重い。意識が掠れていく。
蒼一郎は穏やかな顔でナイフを振り下ろし続ける。腕に。腹部に。胸部に。
そして最期に、首元に向かって振り下ろされるナイフの先端を、十歌の視界は捉えていた。
*
「何をするつもりなのか、か……」
ひとりきりの室内。椅子に座ったまま、大規はぼんやりと十歌の言葉を反芻する。遠くでこどもたちの笑い声が聞こえる。仄かなオレンジ色の日差しが窓辺に射し込む。光の加減で室内が色褪せて見えた。
彼はおもむろに立ち上がり、棚からレコードを取り出す。その中の一枚をプレーヤーにセットし、静かに針を落とした。鐘の音を思わせるピアノの音が部屋に響く。
モーリス・ラヴェルのピアノ組曲「夜のガスパール」第二曲――変ホ短調の重々しいテンポで構成された曲。その音楽を聴きながら、大規は机の引き出しに閉まった煙草を取り出し、火をつける。約六分のピアノの音色に合わせ、ゆっくりと紫煙を吐き出し、灰皿へと灰を落とす。
最後の一音の余韻に浸りながら、力無く椅子に座り宙を仰ぐ。そっと閉じた瞳。その瞳が再び世界を映す。決意と陶酔。その両方を宿して。
「そうだね。待っていたよ。ずっと。ずっとね」
彼はどろりとした優しい声で囁く。煙草が入っていた引き出しの奥から一冊の詩集を取り出し、デスクの上に置いた。古びた表紙を愛おしそうに撫でる。
表紙には、流れるようなうつくしい書体でタイトルが書いてある。大規は金の箔押しで書かれたタイトルを優しく指でなぞり、ふふ、と幸せそうに微笑んだ。
――「Mother Goose」
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