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うらにわのこどもたち3 空中楼閣
THE STAR(2/5)
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コンコン、とドアをノックする音に、カイは詩集から顔を上げた。先程から同じ行の文字を何度も目で追っている。緊張は和らぐどころか一向に収まる気配がない。
「もうすぐ、皆来るからね」
現れた日野尾が来客を告げる。
ついにこの日がやってきた。待ちわびたこどもたちとの対面の日。頭痛はない。体調も万全だ。早鐘を打つ心臓が飛び出しそうな事以外は。
「緊張してるねぇ」
「…………うん」
自分でも顔がこわばっているのが分かる。どうにか笑顔を作ろうとするが上手く行かない。
「はいはい。深呼吸深呼吸」
思い切り息を吸って吐く。何度か繰り返すと身体の力が抜けるのが分かった。思っていたよりずっと浅い呼吸を繰り返していたらしい。開いていた詩集に栞を挟み、お守り代わりに腕に抱える。
暫くすると、再びドアを叩く音が聞こえた。返事をするとすぐに見知った少女が顔を出す。長い黒髪の少女はくりくりとした瞳をこちらへ向け、にかっと笑った。
「カイ、ひさしぶりだなー!」
「うん。真白、本当に久しぶり」
お互いに挨拶を交わす。久し振りに会う真白は相変わらず元気だ。太陽のように眩い笑顔から、自然と元気を貰える気がする。彼女がいるだけで周囲が明るくなるようだ。
真白を筆頭に、こどもたちが横一列に並ぶ。真白と同じ黒い髪の少年が三人。茶色の髪の少女が一人。この少女がいつか真白《ましろ》が言っていた「白雪」だろうか。ほとんど目が見えないという少女。大規の白衣を片手で握り、もう片手でクマのぬいぐるみを引きずっている。こうして会ってみると、自分の外見と他のこどもたちとの外見は随分と違った。色素の薄い自分の髪を触る。黒髪とは対称的な銀糸の髪。自分だけが皆と違う生き物のように思えて、カイは詩集を胸元で抱きしめる。
こんな不安を感じさせないよう、日野尾先生は僕を別々に生活させていたのだろうか。僕が皆とは違うから。
「あの、……はじめまして。カイです」
緊張した面持ちでぺこりと頭を下げる。顔を上げると柔和な雰囲気の少年がまず口を開いた。髪の端を青いピンでとめている。クリップ型のピンは青空の欠片のようだった。それから、カイは青い鳥を連想する。幸せの青い鳥はきっとこんな色をしている。
「僕は蒼一郎。よろしくね、カイくん」
差し出された手を握る。蒼一郎はふんわりと微笑み、それから手を離した。
次に、あまり表情のない少年。全員の中で一番背が高い。きりっとした雰囲気は何処か烏を連想させる。
「十歌だ。よろしく」
「よろしく……」
挨拶をする。近寄り難い印象がふっと和らいだ気がした。
最後に、自分と背丈がほぼ同じの黒縁眼鏡の少年。部屋に入ってからずっと、見定めるような目で見られている気がする。他のこどもたちに比べ、少し怖い。
「眠兎。……カイ、だから〝いーくん〟って呼べばいい?」
「……いーくん……?」
そう呼ばれるのは初めてだった。馴染みのない呼ばれ方に戸惑う。
「えっと……」
「冗談だよ。君って真に受けやすいのな」
馬鹿にした言い方。詩集を持つ手に力がこもる。
「それ、何の本?」
眠兎に尋ねられ、カイは詩集へ視線を落とす。古ぼけた裏表紙。表紙側が見えるよう向きを変える。表紙には流れるような書体で「Mother Goose」とタイトルが綴られていた。その部分が金の箔押しになっており、全体に上品な印象を与えている。
「えっと……マザーグースっていう、詩集なんだ。僕が〝こども〟になった時に、先生がくれた本」
すると眠兎はああ、と頷く。
「マザーグースって結構エグい唄も多いよね」
「……知ってるの?」
「教養としてはね」
眠兎は興味深そうに本を見つめている。他の皆は知らないようだ。互いに顔を見合せ首を横に振っている。
「まざーぐーす?」
「外国の、昔からの童謡を集めた本なんだって」
真白に説明する。真白はへー! と感心したように声を上げた。素直な反応にカイも微笑む。
「カイはどの唄が好きなの?」
眠兎の言葉に少し考え答える。
「うーん、ハンプティ・ダンプティとか、これはジャックの建てた家とか、かな」
「誰がこまどり殺したのは?」
「好き。……でも、こまどりが可哀想になっちゃう」
「可哀想? 何だよそれ」
鼻で笑うような、少し棘のある声のトーンだった。見かねたのか、黙っていた日野尾がこほんと咳払いする。眠兎が黙るその間を取り持つように、大規がカイに話しかけた。
「カイくん、この子が白雪ちゃん。仲良くしてあげてね」
「カイです。よろしくね、白雪ちゃん」
大規に背を支えられ、白雪は屈託のない笑みを浮かべる。緩く巻かれた髪が肩口で揺れる。
「か、い? ……よろ、……ねー?」
たどたどしい話し方。ほとんど会話として成立しないそれに何と返せばいいのか、言葉が上手く出てこない。助けを求めるように大規を見上げる。
「白雪ちゃんは、上手くお喋りが出来ないんだ。接し方が少し難しいかもしれないけど、少しずつ慣れていってくれたら嬉しいな」
「……はい」
背を押された白雪は大規の白衣を離し、カイの腕を握る。あまり焦点の合わない瞳が間近でカイを映し、嬉しそうに笑った。春先のたんぽぽのような可愛らしい微笑み。カイもつられて微笑む。
「よろしくね」
「ねー」
改めて挨拶をする。会話は上手く出来なくても、彼女の纏うふわふわとした雰囲気は傍にいるだけで心が安らぐ気がした。
「さてさて。今日は初めましてだから、まずは皆で仲良くなろう。後でおやつを持ってくるからね」
パンパン、と手を叩き、日野尾が全員に聞こえるよう声をかける。やったー!と真白が嬉しそうに飛び跳ねた。
「カイくんの部屋って広いんだね」
室内を見渡していた蒼一郎に話しかけられる。
「え……そう、なの?」
「うん。僕達の部屋二つ分くらいある気がする。白雪ちゃんの部屋と同じくらいかな」
「そうなんだ……」
知らなかった。部屋の大きさは皆同じだと思っていたからだ。腕を握ったままの白雪を見つめる。会話を聞いているのかいないのか、彼女は相変わらずにこにことしている。
「確か、白雪ちゃんの部屋はぬいぐるみがたくさんあるって」
「そう。今、白雪ちゃんの持ってるぬいぐるみもそのひとつだよ」
「クマだらけなんだぜ。どれもふかふかでかわいーんだ」
真白が会話に加わる。彼女は白雪の引きずるぬいぐるみを抱え、カイへと差し出した。頭の当たりをそっと触る。長い毛足に指が埋まる。ふわふわとした優しい手触りはずっと触っていたいくらいだ。
「……ほんとだ。ふかふかする」
「だろ? しらゆきのへやはふかふかでいっぱいなんだ」
「カイくんが白雪ちゃんの部屋を見たら、きっとびっくりするよ」
「わあ、いつか遊びに行ってみたいなぁ」
そんな事を話していると、眠兎に肩を叩かれる。
「なあ、本棚見ていい?」
彼は机横にある本棚を指差す。二つ並んだ本棚はさほど大きくはないものの、丁寧に本を収めている。
「うん。いいよ」
頷く。眠兎と十歌を見送り、気になっていた事を蒼一郎に尋ねる。
「その、……身体は大丈夫? ずっと点滴をしてたって聞いてたから……」
「うん。最近はずっと調子がいいんだ。本当はもっと早く会いたかったのに……待たせちゃってごめんね」
「ううん。そんなこと……」
申し訳なさそうな蒼一郎に僕の方こそごめんと謝り返そうとした。しかし、謝り合うのも違う気がする。カイは思い直し、別の言葉を口にする。
「元気になってよかった。えっと……会えて、すごく嬉しいんだ」
「僕も。仲良く出来たらいいな」
ふわっと蒼一郎は微笑む。自分の顔が熱くなるのが分かった。嬉しいとも、恥ずかしいとも、こそばゆいとも取れる気持ちが込み上げる。同じこどもから優しく受け入れられる喜び。身体が甘く痺れるようだった。
「ねえ、カイの本棚って詩集中心なの?」
飛んできた眠兎の声に目を向ける。本棚の前、眠兎がこちらを見ていた。その横で十歌が本の背表紙を眺めている。
「う、うん」
「ふーん……」
興味があるのかないのか分からない声だった。確か、眠兎は本が好きだと真白から聞いた覚えがある。本棚の中身は大半が詩集だった。あとは童話が何冊か。彼からすれば、自分の本棚は退屈に見えたのかもしれない。和らいだ不安と緊張がまた顔を見せる。
「え、えっと、眠兎くんも、本が好きなんだよね……?」
恐る恐る声をかける。半分正解、と返事があった。
「正確には、知識をつけるのが好きなんだよ。知らない事を知るのが好き。だから本を読むってだけ」
「眠兎くんの部屋、本がたくさんあるんだよ」
横からそっと蒼一郎が口を挟む。
「僕も眠兎くんも本を読むのが好きだから、カイくんとも本の話ができるかなって楽しみにしてたんだよ」
ね、と蒼一郎が眠兎《みんと》に同意を促す。眠兎の態度はつれない。何か悪い事をしただろうか。カイは唇をきつく結ぶ。自分が気付かないだけで気に障る事をしてしまったのだろうか。瞳の奥から今にも涙があふれてきそうだった。
「……さっき二人が話していた唄は、どんな内容なんだ?こまどりの――……」
成り行きを見守っていた十歌が口を開く。それに答えようとして眠兎と目が合った。黒縁眼鏡の奥の瞳は友好的には程遠い。萎縮したカイを無視し、あああれね、と眠兎は答えた。
「〝誰がこまどり殺したの〟は、……鳥達が、殺されたこまどりの葬式をする唄だよ」
*
カイとの初対面はその後無事に終了した。それぞれが自分の部屋に戻り、夕食までを過ごす。十歌は眠兎の部屋にいた。室内に重い空気が流れている。
「………………」
ベッドに腰掛け、息を吐く。流石に大人二人を前に、カイに〝姉さん達〟の話は出来なかった。眠兎は先程から椅子に座りがりがりと親指の爪を噛んでいる。苛立っているのは火を見るより明らかだ。互いに言葉を発する事なく時間が過ぎる。
「……あいつ、〝いーくん〟って単語に反応しなかった」
眠兎が呟く。〝いーくん〟は向こうの世界の眠兎がカイを呼ぶ時の呼び名だ。眠兎がそう呼んだ時、カイはきょとんとした顔をしていた。初めて聞く呼び名に戸惑っているように見えた。
再び、沈黙。
「まだ、一度目だ。蒼一郎の様子も気になる。これから回数を重ねれば――……」
「うるさいなあ分かってる分かってる分かってるよそんな事!!」
十歌の言葉を遮り、眠兎が喚く。振り絞るような声。そこには焦りだけではない、切実な思いが宿っているように思えた。
「悠長に仲良しごっこなんてやってられないんだよ!! 今だって僕の認識はおかしくなっていってるのかもしれないのに!! ……僕は……」
眠兎は怒りに引き攣った顔を十歌へと向ける。傷付いた目をしていた。
「……済まない」
呟く。
「俺は、お前の気持ちをきちんと理解していなかった。だから、済まない」
彼は暫く機嫌が悪そうにしていたが、やがて癖のある短髪をがしがしと掻き、ゆっくりと息を吐き出した。
「……僕さ、はこにわの外に出たいんだよね」
ぽつりとこぼれた言葉を、十歌は沈黙したまま聞く。
「向こうの世界では色んな場所を知ってる。でも、今の僕はこのはこにわの中しか知らない。この施設の外にどんな景色が広がっているのか。それは向こうの世界とどう違ってどう同じなのか、僕は何も知らない。……僕は〝僕〟として実際に外の世界に触れてみたいんだ。もし、僕が〝僕〟じゃなくなったら、この思いも消えてしまうかもしれない。それは嫌だ。僕は〝僕〟を無くしたくない……」
眠兎の声はいつになく力ない。微かに震える声。普段は背伸びをしている彼の、等身大の側面だった。
「くだらないだろ。笑えよ」
「笑わない」
俯いたまま自嘲する眠兎に向け、静かに、はっきりと答える。
「お前の意志を、俺は笑わない」
眠兎はちら、と目線だけを向ける。
「君に何かあったところで、僕は悲しまないからな」
「悲しんでもらおうなんて思ってないさ」
「……ばっかじゃないの」
眠兎はそう言って視線をそらす。拗ねたような声。そこに先程までの刺々しい苛立ちはなかった。
「俺は変えたいと望んだ。お前も自分を守ろうと決めた。目に見える成果はなくても、今俺達は手掛かりを見つけつつある。望まなければ気付かなかったものを。……先の事は分からないが、この〝結果〟は信じてもいいと俺は思う」
「それは……僕達の意志が結果に繋がるって信じろってこと?」
「願っても叶わないかもしれないが、願わなければ何も変わりはしないだろう?」
「…………君ってやっぱり、お人好しだよ」
俯いた眠兎の口元が僅かに微笑む。張り詰めた空気が緩むのを感じ、十歌もふと微笑んだ。
コンコン、とドアをノックする音に、カイは詩集から顔を上げた。先程から同じ行の文字を何度も目で追っている。緊張は和らぐどころか一向に収まる気配がない。
「もうすぐ、皆来るからね」
現れた日野尾が来客を告げる。
ついにこの日がやってきた。待ちわびたこどもたちとの対面の日。頭痛はない。体調も万全だ。早鐘を打つ心臓が飛び出しそうな事以外は。
「緊張してるねぇ」
「…………うん」
自分でも顔がこわばっているのが分かる。どうにか笑顔を作ろうとするが上手く行かない。
「はいはい。深呼吸深呼吸」
思い切り息を吸って吐く。何度か繰り返すと身体の力が抜けるのが分かった。思っていたよりずっと浅い呼吸を繰り返していたらしい。開いていた詩集に栞を挟み、お守り代わりに腕に抱える。
暫くすると、再びドアを叩く音が聞こえた。返事をするとすぐに見知った少女が顔を出す。長い黒髪の少女はくりくりとした瞳をこちらへ向け、にかっと笑った。
「カイ、ひさしぶりだなー!」
「うん。真白、本当に久しぶり」
お互いに挨拶を交わす。久し振りに会う真白は相変わらず元気だ。太陽のように眩い笑顔から、自然と元気を貰える気がする。彼女がいるだけで周囲が明るくなるようだ。
真白を筆頭に、こどもたちが横一列に並ぶ。真白と同じ黒い髪の少年が三人。茶色の髪の少女が一人。この少女がいつか真白《ましろ》が言っていた「白雪」だろうか。ほとんど目が見えないという少女。大規の白衣を片手で握り、もう片手でクマのぬいぐるみを引きずっている。こうして会ってみると、自分の外見と他のこどもたちとの外見は随分と違った。色素の薄い自分の髪を触る。黒髪とは対称的な銀糸の髪。自分だけが皆と違う生き物のように思えて、カイは詩集を胸元で抱きしめる。
こんな不安を感じさせないよう、日野尾先生は僕を別々に生活させていたのだろうか。僕が皆とは違うから。
「あの、……はじめまして。カイです」
緊張した面持ちでぺこりと頭を下げる。顔を上げると柔和な雰囲気の少年がまず口を開いた。髪の端を青いピンでとめている。クリップ型のピンは青空の欠片のようだった。それから、カイは青い鳥を連想する。幸せの青い鳥はきっとこんな色をしている。
「僕は蒼一郎。よろしくね、カイくん」
差し出された手を握る。蒼一郎はふんわりと微笑み、それから手を離した。
次に、あまり表情のない少年。全員の中で一番背が高い。きりっとした雰囲気は何処か烏を連想させる。
「十歌だ。よろしく」
「よろしく……」
挨拶をする。近寄り難い印象がふっと和らいだ気がした。
最後に、自分と背丈がほぼ同じの黒縁眼鏡の少年。部屋に入ってからずっと、見定めるような目で見られている気がする。他のこどもたちに比べ、少し怖い。
「眠兎。……カイ、だから〝いーくん〟って呼べばいい?」
「……いーくん……?」
そう呼ばれるのは初めてだった。馴染みのない呼ばれ方に戸惑う。
「えっと……」
「冗談だよ。君って真に受けやすいのな」
馬鹿にした言い方。詩集を持つ手に力がこもる。
「それ、何の本?」
眠兎に尋ねられ、カイは詩集へ視線を落とす。古ぼけた裏表紙。表紙側が見えるよう向きを変える。表紙には流れるような書体で「Mother Goose」とタイトルが綴られていた。その部分が金の箔押しになっており、全体に上品な印象を与えている。
「えっと……マザーグースっていう、詩集なんだ。僕が〝こども〟になった時に、先生がくれた本」
すると眠兎はああ、と頷く。
「マザーグースって結構エグい唄も多いよね」
「……知ってるの?」
「教養としてはね」
眠兎は興味深そうに本を見つめている。他の皆は知らないようだ。互いに顔を見合せ首を横に振っている。
「まざーぐーす?」
「外国の、昔からの童謡を集めた本なんだって」
真白に説明する。真白はへー! と感心したように声を上げた。素直な反応にカイも微笑む。
「カイはどの唄が好きなの?」
眠兎の言葉に少し考え答える。
「うーん、ハンプティ・ダンプティとか、これはジャックの建てた家とか、かな」
「誰がこまどり殺したのは?」
「好き。……でも、こまどりが可哀想になっちゃう」
「可哀想? 何だよそれ」
鼻で笑うような、少し棘のある声のトーンだった。見かねたのか、黙っていた日野尾がこほんと咳払いする。眠兎が黙るその間を取り持つように、大規がカイに話しかけた。
「カイくん、この子が白雪ちゃん。仲良くしてあげてね」
「カイです。よろしくね、白雪ちゃん」
大規に背を支えられ、白雪は屈託のない笑みを浮かべる。緩く巻かれた髪が肩口で揺れる。
「か、い? ……よろ、……ねー?」
たどたどしい話し方。ほとんど会話として成立しないそれに何と返せばいいのか、言葉が上手く出てこない。助けを求めるように大規を見上げる。
「白雪ちゃんは、上手くお喋りが出来ないんだ。接し方が少し難しいかもしれないけど、少しずつ慣れていってくれたら嬉しいな」
「……はい」
背を押された白雪は大規の白衣を離し、カイの腕を握る。あまり焦点の合わない瞳が間近でカイを映し、嬉しそうに笑った。春先のたんぽぽのような可愛らしい微笑み。カイもつられて微笑む。
「よろしくね」
「ねー」
改めて挨拶をする。会話は上手く出来なくても、彼女の纏うふわふわとした雰囲気は傍にいるだけで心が安らぐ気がした。
「さてさて。今日は初めましてだから、まずは皆で仲良くなろう。後でおやつを持ってくるからね」
パンパン、と手を叩き、日野尾が全員に聞こえるよう声をかける。やったー!と真白が嬉しそうに飛び跳ねた。
「カイくんの部屋って広いんだね」
室内を見渡していた蒼一郎に話しかけられる。
「え……そう、なの?」
「うん。僕達の部屋二つ分くらいある気がする。白雪ちゃんの部屋と同じくらいかな」
「そうなんだ……」
知らなかった。部屋の大きさは皆同じだと思っていたからだ。腕を握ったままの白雪を見つめる。会話を聞いているのかいないのか、彼女は相変わらずにこにことしている。
「確か、白雪ちゃんの部屋はぬいぐるみがたくさんあるって」
「そう。今、白雪ちゃんの持ってるぬいぐるみもそのひとつだよ」
「クマだらけなんだぜ。どれもふかふかでかわいーんだ」
真白が会話に加わる。彼女は白雪の引きずるぬいぐるみを抱え、カイへと差し出した。頭の当たりをそっと触る。長い毛足に指が埋まる。ふわふわとした優しい手触りはずっと触っていたいくらいだ。
「……ほんとだ。ふかふかする」
「だろ? しらゆきのへやはふかふかでいっぱいなんだ」
「カイくんが白雪ちゃんの部屋を見たら、きっとびっくりするよ」
「わあ、いつか遊びに行ってみたいなぁ」
そんな事を話していると、眠兎に肩を叩かれる。
「なあ、本棚見ていい?」
彼は机横にある本棚を指差す。二つ並んだ本棚はさほど大きくはないものの、丁寧に本を収めている。
「うん。いいよ」
頷く。眠兎と十歌を見送り、気になっていた事を蒼一郎に尋ねる。
「その、……身体は大丈夫? ずっと点滴をしてたって聞いてたから……」
「うん。最近はずっと調子がいいんだ。本当はもっと早く会いたかったのに……待たせちゃってごめんね」
「ううん。そんなこと……」
申し訳なさそうな蒼一郎に僕の方こそごめんと謝り返そうとした。しかし、謝り合うのも違う気がする。カイは思い直し、別の言葉を口にする。
「元気になってよかった。えっと……会えて、すごく嬉しいんだ」
「僕も。仲良く出来たらいいな」
ふわっと蒼一郎は微笑む。自分の顔が熱くなるのが分かった。嬉しいとも、恥ずかしいとも、こそばゆいとも取れる気持ちが込み上げる。同じこどもから優しく受け入れられる喜び。身体が甘く痺れるようだった。
「ねえ、カイの本棚って詩集中心なの?」
飛んできた眠兎の声に目を向ける。本棚の前、眠兎がこちらを見ていた。その横で十歌が本の背表紙を眺めている。
「う、うん」
「ふーん……」
興味があるのかないのか分からない声だった。確か、眠兎は本が好きだと真白から聞いた覚えがある。本棚の中身は大半が詩集だった。あとは童話が何冊か。彼からすれば、自分の本棚は退屈に見えたのかもしれない。和らいだ不安と緊張がまた顔を見せる。
「え、えっと、眠兎くんも、本が好きなんだよね……?」
恐る恐る声をかける。半分正解、と返事があった。
「正確には、知識をつけるのが好きなんだよ。知らない事を知るのが好き。だから本を読むってだけ」
「眠兎くんの部屋、本がたくさんあるんだよ」
横からそっと蒼一郎が口を挟む。
「僕も眠兎くんも本を読むのが好きだから、カイくんとも本の話ができるかなって楽しみにしてたんだよ」
ね、と蒼一郎が眠兎《みんと》に同意を促す。眠兎の態度はつれない。何か悪い事をしただろうか。カイは唇をきつく結ぶ。自分が気付かないだけで気に障る事をしてしまったのだろうか。瞳の奥から今にも涙があふれてきそうだった。
「……さっき二人が話していた唄は、どんな内容なんだ?こまどりの――……」
成り行きを見守っていた十歌が口を開く。それに答えようとして眠兎と目が合った。黒縁眼鏡の奥の瞳は友好的には程遠い。萎縮したカイを無視し、あああれね、と眠兎は答えた。
「〝誰がこまどり殺したの〟は、……鳥達が、殺されたこまどりの葬式をする唄だよ」
*
カイとの初対面はその後無事に終了した。それぞれが自分の部屋に戻り、夕食までを過ごす。十歌は眠兎の部屋にいた。室内に重い空気が流れている。
「………………」
ベッドに腰掛け、息を吐く。流石に大人二人を前に、カイに〝姉さん達〟の話は出来なかった。眠兎は先程から椅子に座りがりがりと親指の爪を噛んでいる。苛立っているのは火を見るより明らかだ。互いに言葉を発する事なく時間が過ぎる。
「……あいつ、〝いーくん〟って単語に反応しなかった」
眠兎が呟く。〝いーくん〟は向こうの世界の眠兎がカイを呼ぶ時の呼び名だ。眠兎がそう呼んだ時、カイはきょとんとした顔をしていた。初めて聞く呼び名に戸惑っているように見えた。
再び、沈黙。
「まだ、一度目だ。蒼一郎の様子も気になる。これから回数を重ねれば――……」
「うるさいなあ分かってる分かってる分かってるよそんな事!!」
十歌の言葉を遮り、眠兎が喚く。振り絞るような声。そこには焦りだけではない、切実な思いが宿っているように思えた。
「悠長に仲良しごっこなんてやってられないんだよ!! 今だって僕の認識はおかしくなっていってるのかもしれないのに!! ……僕は……」
眠兎は怒りに引き攣った顔を十歌へと向ける。傷付いた目をしていた。
「……済まない」
呟く。
「俺は、お前の気持ちをきちんと理解していなかった。だから、済まない」
彼は暫く機嫌が悪そうにしていたが、やがて癖のある短髪をがしがしと掻き、ゆっくりと息を吐き出した。
「……僕さ、はこにわの外に出たいんだよね」
ぽつりとこぼれた言葉を、十歌は沈黙したまま聞く。
「向こうの世界では色んな場所を知ってる。でも、今の僕はこのはこにわの中しか知らない。この施設の外にどんな景色が広がっているのか。それは向こうの世界とどう違ってどう同じなのか、僕は何も知らない。……僕は〝僕〟として実際に外の世界に触れてみたいんだ。もし、僕が〝僕〟じゃなくなったら、この思いも消えてしまうかもしれない。それは嫌だ。僕は〝僕〟を無くしたくない……」
眠兎の声はいつになく力ない。微かに震える声。普段は背伸びをしている彼の、等身大の側面だった。
「くだらないだろ。笑えよ」
「笑わない」
俯いたまま自嘲する眠兎に向け、静かに、はっきりと答える。
「お前の意志を、俺は笑わない」
眠兎はちら、と目線だけを向ける。
「君に何かあったところで、僕は悲しまないからな」
「悲しんでもらおうなんて思ってないさ」
「……ばっかじゃないの」
眠兎はそう言って視線をそらす。拗ねたような声。そこに先程までの刺々しい苛立ちはなかった。
「俺は変えたいと望んだ。お前も自分を守ろうと決めた。目に見える成果はなくても、今俺達は手掛かりを見つけつつある。望まなければ気付かなかったものを。……先の事は分からないが、この〝結果〟は信じてもいいと俺は思う」
「それは……僕達の意志が結果に繋がるって信じろってこと?」
「願っても叶わないかもしれないが、願わなければ何も変わりはしないだろう?」
「…………君ってやっぱり、お人好しだよ」
俯いた眠兎の口元が僅かに微笑む。張り詰めた空気が緩むのを感じ、十歌もふと微笑んだ。
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