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うらにわのこどもたち2 それから季節がひとつ、すぎる間のこと
番外 スプートニクの孤独(1/2)
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なんだか変な希望を抱いた人間が、時折この研究所で働きたい、とやって来る。そして、勝手に失望して辞めていく。
着いていけない、耐えられない。
そんな台詞は聞き飽きるほど聞いた。
志望者には、一ヶ月の研修期間を設けている。そこで、此処の仕事について詳しく知って覚えてもらい、無事に研修期間を終えてなお、ここで働きたいと言うのなら、晴れて本採用。というシステムをとってはいるが、本採用までの一ヶ月、耐えられたためしがない。早ければ三日、頑張っても半月持たない。そもそも私と相性が合わない。価値観の相違というのは仕方がないことだけど、鬼だの悪魔だの吐き捨てられても、困る。こちらは求人広告を出している訳でもないのだから、自分の期待したものと違うと怒るのはお門違いというものだと思うのだけど。
だから、彼がやって来た時も、どうせ続かないだろうと思っていた。
「……えーと、大槻くん?」
「大規、です」
目の前の青年が私の間違いを修正してくる。
すらりとした背に、光沢感のあるかっちりとした暗い紺色のスーツ。安っぽいリクルートスーツではない。服飾に関しては全く詳しくないが、素人目にもそれなりに高価なものなのがわかる。涼やかな目元、その奥の瞳は、真夜中を切り取ったようだ。清潔感のある黒髪は、濡れ羽色とでも言うのだろうか。前髪を整髪料で軽く分け、口元を白いマスクで覆っている。外見に違わない、うつくしく、落ち着いた声。
深夜の静寂を纏ったような男だな、と思った。それでいて、どこか無機質な、作り物じみた印象。なんというか、雰囲気が「閉じている」のだ。明確な線引きがあって、それ以上は絶対に踏み込ませない、という感じを受ける。自分の直感と観察眼は当たる方だと思っている。
「一応、マスク外してもらっていい? 本人確認したいから」
「はい」
彼は素直にマスクを外す。マスクの下には大きな傷が……あった訳ではなく、理知的な雰囲気の、整った顔立ちだった。履歴書の写真とも一致する。
「うん、ありがとう。戻していいよ」
私がそう言うと、彼はマスクをかけ直した。
「それ、どうしたの? 風邪かな?」
気になったので聞いてみた。私の問いに、彼はいえ、と言う。
「あまり好きではないんですよ。自分の顔」
「……ふうん?」
端正な顔立ちからその言葉を聞くのはやや意外に思ったけれど、深く詮索するのはやめた。コンプレックスは人それぞれだ。私も自分の顔は好きではないし、仕事に支障さえ出なければどうでもいい。
彼をソファーへと促し、私も反対側のソファーに腰掛ける。さらっと目を通した履歴書に申し分無し。前科もない。あまりに経歴が綺麗なので、来る場所を間違えていないか、私の方が心配になった。
「あのさあ。君、ここがどういう場所だか分かってきたんだよねぇ?」
「ええ」
彼は頷く。
「人の心のメカニズムを研究する目的で作られた施設だと聞いています。あとは、世間的にはあまり肯定的な場所ではないことも」
知ってて来たんだ、と思った。それはそれで問題だ。悪評を知ってなお志願してくる奴は大抵、肝試し半分の興味本位か、誇大妄想をこじらせた奴かのどちらかだ。「こんなおかしな場所に志願する自分は異端で特別な存在だ」なんて悦に浸る奴にちょっとしたトラウマを植え付けるくらいはまあ、可愛い仕返しだと思っている。心霊スポットにわざわざ赴く人間を相手にした幽霊も、同じ気分なのかもしれない。お互い大変だねえ、と心の中で信じてもいない存在に同情した。
「念のために言うけど、此処は一般的な倫理観や道徳観を度外視したこともやるよ?」
「承知しているつもりです」
どうだか。同じことを言って三日も経たずに行方をくらませた奴を思い出す。彼はどのくらい持つだろう。綺麗な経歴、綺麗な顔。上品そうないでたち。やって行けるとは思えない。はあ、と溜息をひとつつく。面倒だけど、仕方がない。やる気がある青年をその足で帰らせるのも気が引ける。
「研修期間は一ヶ月。それでも尚、働きたいと思うなら、ここの研究員として本採用にする。……まあ、多分、続かないと思うけど」
よろしく、と差し出した手を、彼が握る。
久し振りに、ひとの体温に触れた。第一印象に違わない、ひんやりとした冷たい手だった。
この手が私の手を振り払うまで、何日かかるだろう。そう思うと、さみしいような楽しいような気持ちになった。
*
一週間目。
結論から言って、彼は非常に優秀だった。
まず、仕事の飲み込みが恐ろしく早い。一度言ったことはすぐに覚える。次に、パソコンを触るのが苦手な私とは逆に、彼はデータ管理が得意だった。私の手書きの資料を元に、彼がパソコンを立ち上げて整理し作成する資料は、文句のつけ所が無いほどによく纏まっている。作業効率もいい。てきぱきと優先順位を決めて仕事を片付けていく。あっという間に簡単な仕事なら最小限の指示でこなせるようになり、私の仕事の効率も上昇した。あえて難点を挙げるとしたら、やや時間にルーズな傾向があることくらいだった。彼という人材を欲しがる場所は星の数ほどありそうだというのに、彼がわざわざこの研究施設を選んでやって来た理由が分からないくらいだった。
休憩時間、私のいれた紅茶を飲みながら、改めて志望動機を聞くと、履歴書の通りですよ、と返された。
「未知の分野に興味を抱いたんです。心、という概念を具体的に解き明かすことが出来れば、様々な分野への応用が可能でしょう?」
「履歴書に本心を書く奴なんかいないよ」
そう軽口を叩くと、彼は苦笑した。
「そうですね、……人間への、興味と言ったところでしょうか」
「興味ねぇ」
興味、というだけなら、他の場所でもいくらでも満たせそうなものだが。
「どんな興味だか知らないけど、それはうちじゃないと満たせないようなものなのかな? 君の経歴、あれが本当なら、確実に傷がつくよ?」
ちょっとした親切心のつもりで言うと、彼はティーカップに手を添えたまま俯いた。
「承知しています。……経歴なんて、目的の為の手段に過ぎません」
そう口にした彼は、淋しげな、どこか張りつめた表情を浮かべていた。
「理想を捨てきれないんですよ」
そっけなく、彼は呟いた。感情のこもらない声音に、彼の心の傷跡を見た気がした。
*
二週間目。
「今日はこどもと会うからね」
朝、彼に一日のスケジュールと共にそのことを告げると、彼はファイリングした資料をぱっと開いた。
「ええと……一四一番ですか」
「一四一番、じゃなくて、カイ」
彼の言葉を訂正し、私は彼を睨む。
「いい? 二度と番号で呼ばないで。あの子はもうこどもなの。大切な物語を数列と同じに扱わないで」
怒鳴りはしないものの、ぐっと声に圧はかける。
「承りました……ですが、所長。一つ質問が」
「何さ」
「どうして個体番号ではなく、名前を?」
「そんなの決まってるじゃない」
あまりに単純明快な質問に、私は答える。
「素敵な物語には、素敵な名前が付いているものさ」
彼ははあ、と曖昧に頷く。
……とはいえ、この男を会わせても大丈夫だろうか。カイが怖がって泣き出したらと思うと不安は残る。
まあ、その時はそれを理由に不採用にしよう。
ところが、カイを前にした彼は、印象をがらりと変えてみせた。
「こんにちは。大規、と言います。よろしくね、カイくん」
カイに目線の高さを合わせ、人懐っこい笑みを浮かべた彼は、柔らかで優しい雰囲気を纏っていた。つい信用したくなるような好青年。初めて見る彼の一面だった。普段は大人しく、人見知りをするカイがほっとしたようにはにかんだ笑顔を見せる。初対面の相手に、カイがこういう反応を見せるのは珍しかった。大抵は怯えて、私の後ろに隠れてしまうのに。
「……カイ、です。よろしくお願いします」
古びた詩集を胸の辺りでぎゅっと抱きしめたまま、カイはぺこりと頭を下げる。
「此処ではカイくんの方が先輩だね。色々教えてくれると嬉しいな」
「……! ……は、はい……!」
顔を上げたカイは嬉しそうに彼の顔を見る。まるでつぼみが綻んだ花のようだ。その花に注ぐ陽光のような暖かい雰囲気を、彼は終始、崩さなかった。
「君は役者かなにかなのかい」
廊下を歩きながら、私は彼に言った。
「まさか」
くすくすと彼は笑う。先程の好青年の微笑みとは違う、やや意地の悪い冷たい笑い方だった。
「優しく接した方が、怖がらせないで済むかと思いまして」
「だとしても、雰囲気変わりすぎじゃない? ちょっとびっくりした」
「臨機応変な対応は心得ておりますので」
「……君は本当に読みにくい人だねえ」
本当に、驚かされてばかりだ。隣を歩く彼の顔を盗み見る。冷めた瞳からは、感情がどうにも読みにくい。言葉も、態度も、全てが表面的なもののように感じる。第一印象は間違っていなかったな、と思う。
けれど、理想を捨てきれないと呟いた、あれは。あの時、彼の瞳に浮かんだ自嘲の色は。偽りのない本心、だったのではないかと、思う。
「偽りはお嫌いですか?」
「うん。嫌い。大嫌い」
嘘はつくのもつかれるのも嫌いだ。だから平然と自分を偽るこの男も嫌いだ。嫌いなはずだ。
「でも、あの子への対応としては、正解」
「それは良かったです」
一体、彼の本心はどこにあるのだろう。きっちりと線引きされたその向こうに、どんな感情を抱えているのだろう。そう考えてから、私は彼に、少なからぬ興味を抱いていることに気付いた。
*
三週間が経過しても、彼は逃げ出すことなく研修を続けていた。おおよその仕事を覚え、カイとも良好な関係を築いている。
「逃げないんだね」
薬品を触りながら、からかうように言う。
「どうしてですか?」
「そういう奴ばっかりだったからかなぁ。君も三日もすれば音を上げて逃げ出すと思ってた。長くて一週間」
「心外ですね」
口ではそう言いながらも、彼の口調は柔らかい。
「逃げ出す程度の覚悟で研究者を名乗るとは、全く嘆かわしいです」
「言うねぇ」
思わず笑ってしまった。なかなか挑発的な物言いだ。しかし確かに、彼の言う通りだ。研究職は努力と忍耐の積み重ね。ぱっと成果が出るものではないし、努力が必ずしも報われるものでもない。どんな物事にでも言えることだが、何かを成すには苦労も困難も付き物なのだ。時には、やりたくない事も。
「まあうちはちょっと特殊だからなぁ……。一応説明はするし、実験体も見せるんだけどね。そこで大体、皆逃げる」
「人のかたちをしているからですか?」
「そういう事。自分と同じかたちをしているものを実験体として扱うことは、生理的に難しいんだろうね」
「成程」
頷いた彼は自分の手元の試験管を見ている。その瞳には何故か、静かな怒りが浮かんでいるように見えた。
「……どうして怒ってるの?」
不思議に思って聞くと、彼は目を閉じる。
「いえ、少し。……怒る、と言うより、人間の醜さと身勝手さに呆れました。何事も代償の上に成り立っていると考えられないのでしょうね」
嘆かわしい、と彼は呟く。再び試験管を映した彼の瞳から目を逸らし、私はぼそりと言った。
「皆、そんなものだよ」
着いていけない、耐えられない。
そんな台詞は聞き飽きるほど聞いた。
志望者には、一ヶ月の研修期間を設けている。そこで、此処の仕事について詳しく知って覚えてもらい、無事に研修期間を終えてなお、ここで働きたいと言うのなら、晴れて本採用。というシステムをとってはいるが、本採用までの一ヶ月、耐えられたためしがない。早ければ三日、頑張っても半月持たない。そもそも私と相性が合わない。価値観の相違というのは仕方がないことだけど、鬼だの悪魔だの吐き捨てられても、困る。こちらは求人広告を出している訳でもないのだから、自分の期待したものと違うと怒るのはお門違いというものだと思うのだけど。
だから、彼がやって来た時も、どうせ続かないだろうと思っていた。
「……えーと、大槻くん?」
「大規、です」
目の前の青年が私の間違いを修正してくる。
すらりとした背に、光沢感のあるかっちりとした暗い紺色のスーツ。安っぽいリクルートスーツではない。服飾に関しては全く詳しくないが、素人目にもそれなりに高価なものなのがわかる。涼やかな目元、その奥の瞳は、真夜中を切り取ったようだ。清潔感のある黒髪は、濡れ羽色とでも言うのだろうか。前髪を整髪料で軽く分け、口元を白いマスクで覆っている。外見に違わない、うつくしく、落ち着いた声。
深夜の静寂を纏ったような男だな、と思った。それでいて、どこか無機質な、作り物じみた印象。なんというか、雰囲気が「閉じている」のだ。明確な線引きがあって、それ以上は絶対に踏み込ませない、という感じを受ける。自分の直感と観察眼は当たる方だと思っている。
「一応、マスク外してもらっていい? 本人確認したいから」
「はい」
彼は素直にマスクを外す。マスクの下には大きな傷が……あった訳ではなく、理知的な雰囲気の、整った顔立ちだった。履歴書の写真とも一致する。
「うん、ありがとう。戻していいよ」
私がそう言うと、彼はマスクをかけ直した。
「それ、どうしたの? 風邪かな?」
気になったので聞いてみた。私の問いに、彼はいえ、と言う。
「あまり好きではないんですよ。自分の顔」
「……ふうん?」
端正な顔立ちからその言葉を聞くのはやや意外に思ったけれど、深く詮索するのはやめた。コンプレックスは人それぞれだ。私も自分の顔は好きではないし、仕事に支障さえ出なければどうでもいい。
彼をソファーへと促し、私も反対側のソファーに腰掛ける。さらっと目を通した履歴書に申し分無し。前科もない。あまりに経歴が綺麗なので、来る場所を間違えていないか、私の方が心配になった。
「あのさあ。君、ここがどういう場所だか分かってきたんだよねぇ?」
「ええ」
彼は頷く。
「人の心のメカニズムを研究する目的で作られた施設だと聞いています。あとは、世間的にはあまり肯定的な場所ではないことも」
知ってて来たんだ、と思った。それはそれで問題だ。悪評を知ってなお志願してくる奴は大抵、肝試し半分の興味本位か、誇大妄想をこじらせた奴かのどちらかだ。「こんなおかしな場所に志願する自分は異端で特別な存在だ」なんて悦に浸る奴にちょっとしたトラウマを植え付けるくらいはまあ、可愛い仕返しだと思っている。心霊スポットにわざわざ赴く人間を相手にした幽霊も、同じ気分なのかもしれない。お互い大変だねえ、と心の中で信じてもいない存在に同情した。
「念のために言うけど、此処は一般的な倫理観や道徳観を度外視したこともやるよ?」
「承知しているつもりです」
どうだか。同じことを言って三日も経たずに行方をくらませた奴を思い出す。彼はどのくらい持つだろう。綺麗な経歴、綺麗な顔。上品そうないでたち。やって行けるとは思えない。はあ、と溜息をひとつつく。面倒だけど、仕方がない。やる気がある青年をその足で帰らせるのも気が引ける。
「研修期間は一ヶ月。それでも尚、働きたいと思うなら、ここの研究員として本採用にする。……まあ、多分、続かないと思うけど」
よろしく、と差し出した手を、彼が握る。
久し振りに、ひとの体温に触れた。第一印象に違わない、ひんやりとした冷たい手だった。
この手が私の手を振り払うまで、何日かかるだろう。そう思うと、さみしいような楽しいような気持ちになった。
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一週間目。
結論から言って、彼は非常に優秀だった。
まず、仕事の飲み込みが恐ろしく早い。一度言ったことはすぐに覚える。次に、パソコンを触るのが苦手な私とは逆に、彼はデータ管理が得意だった。私の手書きの資料を元に、彼がパソコンを立ち上げて整理し作成する資料は、文句のつけ所が無いほどによく纏まっている。作業効率もいい。てきぱきと優先順位を決めて仕事を片付けていく。あっという間に簡単な仕事なら最小限の指示でこなせるようになり、私の仕事の効率も上昇した。あえて難点を挙げるとしたら、やや時間にルーズな傾向があることくらいだった。彼という人材を欲しがる場所は星の数ほどありそうだというのに、彼がわざわざこの研究施設を選んでやって来た理由が分からないくらいだった。
休憩時間、私のいれた紅茶を飲みながら、改めて志望動機を聞くと、履歴書の通りですよ、と返された。
「未知の分野に興味を抱いたんです。心、という概念を具体的に解き明かすことが出来れば、様々な分野への応用が可能でしょう?」
「履歴書に本心を書く奴なんかいないよ」
そう軽口を叩くと、彼は苦笑した。
「そうですね、……人間への、興味と言ったところでしょうか」
「興味ねぇ」
興味、というだけなら、他の場所でもいくらでも満たせそうなものだが。
「どんな興味だか知らないけど、それはうちじゃないと満たせないようなものなのかな? 君の経歴、あれが本当なら、確実に傷がつくよ?」
ちょっとした親切心のつもりで言うと、彼はティーカップに手を添えたまま俯いた。
「承知しています。……経歴なんて、目的の為の手段に過ぎません」
そう口にした彼は、淋しげな、どこか張りつめた表情を浮かべていた。
「理想を捨てきれないんですよ」
そっけなく、彼は呟いた。感情のこもらない声音に、彼の心の傷跡を見た気がした。
*
二週間目。
「今日はこどもと会うからね」
朝、彼に一日のスケジュールと共にそのことを告げると、彼はファイリングした資料をぱっと開いた。
「ええと……一四一番ですか」
「一四一番、じゃなくて、カイ」
彼の言葉を訂正し、私は彼を睨む。
「いい? 二度と番号で呼ばないで。あの子はもうこどもなの。大切な物語を数列と同じに扱わないで」
怒鳴りはしないものの、ぐっと声に圧はかける。
「承りました……ですが、所長。一つ質問が」
「何さ」
「どうして個体番号ではなく、名前を?」
「そんなの決まってるじゃない」
あまりに単純明快な質問に、私は答える。
「素敵な物語には、素敵な名前が付いているものさ」
彼ははあ、と曖昧に頷く。
……とはいえ、この男を会わせても大丈夫だろうか。カイが怖がって泣き出したらと思うと不安は残る。
まあ、その時はそれを理由に不採用にしよう。
ところが、カイを前にした彼は、印象をがらりと変えてみせた。
「こんにちは。大規、と言います。よろしくね、カイくん」
カイに目線の高さを合わせ、人懐っこい笑みを浮かべた彼は、柔らかで優しい雰囲気を纏っていた。つい信用したくなるような好青年。初めて見る彼の一面だった。普段は大人しく、人見知りをするカイがほっとしたようにはにかんだ笑顔を見せる。初対面の相手に、カイがこういう反応を見せるのは珍しかった。大抵は怯えて、私の後ろに隠れてしまうのに。
「……カイ、です。よろしくお願いします」
古びた詩集を胸の辺りでぎゅっと抱きしめたまま、カイはぺこりと頭を下げる。
「此処ではカイくんの方が先輩だね。色々教えてくれると嬉しいな」
「……! ……は、はい……!」
顔を上げたカイは嬉しそうに彼の顔を見る。まるでつぼみが綻んだ花のようだ。その花に注ぐ陽光のような暖かい雰囲気を、彼は終始、崩さなかった。
「君は役者かなにかなのかい」
廊下を歩きながら、私は彼に言った。
「まさか」
くすくすと彼は笑う。先程の好青年の微笑みとは違う、やや意地の悪い冷たい笑い方だった。
「優しく接した方が、怖がらせないで済むかと思いまして」
「だとしても、雰囲気変わりすぎじゃない? ちょっとびっくりした」
「臨機応変な対応は心得ておりますので」
「……君は本当に読みにくい人だねえ」
本当に、驚かされてばかりだ。隣を歩く彼の顔を盗み見る。冷めた瞳からは、感情がどうにも読みにくい。言葉も、態度も、全てが表面的なもののように感じる。第一印象は間違っていなかったな、と思う。
けれど、理想を捨てきれないと呟いた、あれは。あの時、彼の瞳に浮かんだ自嘲の色は。偽りのない本心、だったのではないかと、思う。
「偽りはお嫌いですか?」
「うん。嫌い。大嫌い」
嘘はつくのもつかれるのも嫌いだ。だから平然と自分を偽るこの男も嫌いだ。嫌いなはずだ。
「でも、あの子への対応としては、正解」
「それは良かったです」
一体、彼の本心はどこにあるのだろう。きっちりと線引きされたその向こうに、どんな感情を抱えているのだろう。そう考えてから、私は彼に、少なからぬ興味を抱いていることに気付いた。
*
三週間が経過しても、彼は逃げ出すことなく研修を続けていた。おおよその仕事を覚え、カイとも良好な関係を築いている。
「逃げないんだね」
薬品を触りながら、からかうように言う。
「どうしてですか?」
「そういう奴ばっかりだったからかなぁ。君も三日もすれば音を上げて逃げ出すと思ってた。長くて一週間」
「心外ですね」
口ではそう言いながらも、彼の口調は柔らかい。
「逃げ出す程度の覚悟で研究者を名乗るとは、全く嘆かわしいです」
「言うねぇ」
思わず笑ってしまった。なかなか挑発的な物言いだ。しかし確かに、彼の言う通りだ。研究職は努力と忍耐の積み重ね。ぱっと成果が出るものではないし、努力が必ずしも報われるものでもない。どんな物事にでも言えることだが、何かを成すには苦労も困難も付き物なのだ。時には、やりたくない事も。
「まあうちはちょっと特殊だからなぁ……。一応説明はするし、実験体も見せるんだけどね。そこで大体、皆逃げる」
「人のかたちをしているからですか?」
「そういう事。自分と同じかたちをしているものを実験体として扱うことは、生理的に難しいんだろうね」
「成程」
頷いた彼は自分の手元の試験管を見ている。その瞳には何故か、静かな怒りが浮かんでいるように見えた。
「……どうして怒ってるの?」
不思議に思って聞くと、彼は目を閉じる。
「いえ、少し。……怒る、と言うより、人間の醜さと身勝手さに呆れました。何事も代償の上に成り立っていると考えられないのでしょうね」
嘆かわしい、と彼は呟く。再び試験管を映した彼の瞳から目を逸らし、私はぼそりと言った。
「皆、そんなものだよ」
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