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うらにわのこどもたち2 それから季節がひとつ、すぎる間のこと
ひとりぼっちの神様
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「それで先生、どうしてなの?」
「あー……えーとね……それは……」
純粋な目が心に痛い。カイの澄んだ眼差しから逃れるように、日野尾は目線をそらす。
「先生にも、分からないくらい、難しいこと……なの?」
「いや、何と言うか、そうじゃないんだけどね……どう説明しようかなぁ……」
こんな時、大規がいれば、適当な嘘をそれらしくでっち上げるのだと思う。だが、今はカイと二人きり。嘘をつくのは日野尾の主義に反するし、そもそも嘘をつくこと自体得意ではない。あれもひとつの才能だなぁ。そんな事を思いつつ、彼女は窓の外を見る。
外の世界は相変わらずの梅雨空で、しとしとと雨が降っている。窓際のてるてる坊主も、黙ってこちらに微笑むだけだ。
(……全く、雨続きっていうのも考えものだなぁ……)
*
話は数分前に遡る。
二人での昼食を終え、他愛のない雑談に興じていた時だ。
「そういえば、最近はどんなこと考えてるの?」
話の流れで、そんなことを聞いた。
以前、雨の日はあまり好きではない、と言ったカイに対し、考え事をするにはいい日だと答えたのを思い出したからだった。特に深い意味もなく口にした問いだったのだが、カイはどことなく神妙な顔をして、自分の身体を見てから、日野尾の顔をまじまじと見つめる。
「ねえ先生、僕は男……で、日野尾先生は女のひと、だよね?」
「うん? ……うん、そうだねえ」
「姉さん達も女の子、だよね?」
「そう……まあ、そうねえ」
なんで性別の確認? と日野尾が思っていると、カイは真面目な顔をして言ったのだった。
「先生、どうして人間には、男と女がいるの?」
「…………えぇ?」
そして、今に至る。
*
(ああ、なんだろうこの感じ……。どうしてこうなった? みたいな?)
端的に言えば、「生殖のため」なのだろう。が、それを「こども」に教えるのは躊躇われる。余計な知識を与えたくないのだ。性全般に関わる知識などもっての外である。だからこそ、この「施設」では、情報の中でも特に、性にまつわる情報は徹底的に排除している。「こども」の純粋性を重視する故、というのも勿論あるが、日野尾自身の性的な知識や行為に対する生理的嫌悪感という部分も大きい。
返答に詰まっていると、カイの表情が曇る。
「……その、ごめんなさい。僕、やっぱり変なこと聞いた……? 先生のこと、困らせちゃった……?」
「えっ、あぁ、困って……はいるけど……それはそうじゃなくて、本当に、どんな風に答えようかなぁって。それだけだから、ね?」
慌てて答える。とはいえ、一体どう説明したものか。
日野尾はあれこれと思案した後、人差し指をぴっと立てた。
「よし! その疑問に答えるべく、今日は先生が、ひとつお話をしてあげよう!」
「お話? どんなお話?」
「……ひとりぼっちの神様が、ひとりぼっちじゃなくなるお話さ」
*
「むかーしむかし、あるところに、ひとりぼっちの神様がいました。神様のまわりは真っ暗で、なんにもありません。そんな世界で、神様はずっと長い間暮らしていました」
「なんにも?」
「そう、なんにも。だけどね、神様は色んなことを知っていたし、とっても想像力があったんだ。だから、ひとりぼっちなのが寂しくてたまらなかったのさ」
「なんにもないのに、色んなことを知っていたの? なんにもなくて、誰もいないのに?」
本もないのに? と、不思議そうに首を傾げるカイに、日野尾はふふ、と優しく笑う。
「不思議だよねえ。神様もきっと、どうしてなんだろうって不思議に思っていたと思うよ。……いや、不思議に思うこともなかったのかもしれないねぇ。気付いた時にはもう、知らないことまで知っていたんだから。それが神様にとっての普通のことになってしまっていたのかも」
「でも、知らないことを知ってても、まわりになんにもなかったら、見たことも聞いたこともないことになるよね?」
「うん。そういうことになるね。全ては神様の頭の中にしかないこと。どこまでも想像することはできるけれど、実際に見たり聞いたり触ったりしたことは、神様にはなかった」
日野尾はカイの頭を撫でる。さらさらとした、月の光を紡いだような銀の髪。少しだけ眩しく思えて、思わず目を細める。
「だからね、神様はある日、思いついたんだ。〝そうだ、頭の中にあるこの世界を、この真っ暗でなにもない世界に創ったらどうだろう。きっとひとりぼっちじゃなくなる。それはなんて素敵なことだろう〟って。それで、まず光を創った。頭の中に広がる明るい世界を、真っ先に見たかったんだろうねぇ。それから、空とか海とか大地とかを創って、更にそこにいる生き物達を創ったのさ。そして最後に、自分の姿によく似た生き物――一番はじまりの「人間」を創った。男と、女を、一人ずつね」
「どうして片方だけじゃいけなかったの?」
「うーん、そうだなぁ……」
窓の外、少しだけ遠くを見つめて、その問いに答える。
「神様自身が、ひとりぼっちで寂しい思いをしたからかもね。話し相手がいるって、とっても幸せなことなんだよって、人間に教えたかったのかもしれない。だからわざと、男だけ、女だけでは不完全になるように……お互いに足りないところを補ったり、助け合ったりできるように、創ったのかもしれないね」
「そっか、だから、人間には男と女があるんだね」
「そういうこと。納得した?」
カイは安心したように、こくりと頷く。
「納得したし、それに……神様はもう、ひとりぼっちじゃないんだなぁって思ったら、なんだかほっとした」
「……そうだね」
そうだろうか。
自分で話しておきながら、日野尾は自問自答する。本当に、神は独りではなくなったのだろうか。素直に純粋に、話の顛末に喜ぶカイ。ひとりぼっちではなくなった神様。カイは知らない。禁忌を犯した人間が、やがて楽園を追われたことを。
神は再び、孤独になった。それは、孤独を体験する前よりも、深い傷。一瞬でも幸福を経験した故の痛みと苦しみ。
しかし、そもそも、想像する世界を創造した神は、真の意味で対等な相手を持てたのだろうか。自らの創造物が対等な相手になりうることなど有り得るのだろうか。それで孤独は癒えるのだろうか。孤独に耐えかねた神の見る幻覚として、存在する世界。誰も自身の知覚する世界が妄想と幻覚によって成立したものでは無いと証明できない。
日野尾の思いをよそに、カイはぱっと何かを思い付いたような顔をして、くすくすと笑う。
「なーに? 何を考えたのかなぁ?」
「ううん、だって……何だかそのお話を聞いてたらね」
無邪気に。無垢に。故に残酷に。カイは思い付きを口に出す。
「それって、何だかこのはこにわのことみたい、って……」
「………………」
日野尾の瞳に、複雑な感情が宿る。
「この施設も、僕や姉さん達も、先生が創ったものでしょう?何だかその神様みたい。……あ、でも、先生には大規先生もいるから、ひとりぼっちじゃないね」
「神様、……私が神様ねぇ」
自嘲気味に呟いて、彼女は笑い返す。
楽園の模造品。
つくりものの実験体。
小さな世界の所長である自分。
ああ、確かに自分は神を騙るに相応しい。失っても失っても、私は理想の物語を諦められずに手を伸ばす。
数多の実験体と、数多の物語を失った。
自滅する「こども」。反逆する「こども」。否定する「こども」。拒絶する「こども」。禁忌を犯す「こども」。
かつて神が築こうとした楽園の物語。その歪んだ再現のようだ。
だとしたら、自分のやっていることは結局何もかもが徒労に終わるのだろうか。在りし日の、神と人間の関係性が破綻したように。
そんなの、悪い冗談にも程がある。
夢見る理想がある。成し遂げたい願望がある。幸福への執着。その為の犠牲も対価もいくらでも払ってやる。亡者のような自分が、神を騙って小さな世界を統括する。なんという皮肉だろう。「普通」からの逸脱が、自分をこの役割へと押し上げた。
ひとりぼっちの神様。ひとりぼっちの、偽物の神様。
(――上等だ!)
日野尾の心に、ゆらりと仄暗い炎が立ち上がる。その炎の名前を、日野尾は知らない。怒り、なのか、衝動、なのか。それともまだ誰にも命名されていない感情なのか。それでも、この炎が心にある限り、自分は自分として在り続けることが出来る気がした。
「ありがと。でもそれ、大規先生には言っちゃ駄目だよ」
「そうなの? どうして?」
「調子に乗るから」
わざとおどけて答えて、二人で笑い合う。
いつの間にか雨は小雨になり、灰色の雲から薄日が差し込んでいる。
長かった梅雨も、もうすぐ終わる。
「あー……えーとね……それは……」
純粋な目が心に痛い。カイの澄んだ眼差しから逃れるように、日野尾は目線をそらす。
「先生にも、分からないくらい、難しいこと……なの?」
「いや、何と言うか、そうじゃないんだけどね……どう説明しようかなぁ……」
こんな時、大規がいれば、適当な嘘をそれらしくでっち上げるのだと思う。だが、今はカイと二人きり。嘘をつくのは日野尾の主義に反するし、そもそも嘘をつくこと自体得意ではない。あれもひとつの才能だなぁ。そんな事を思いつつ、彼女は窓の外を見る。
外の世界は相変わらずの梅雨空で、しとしとと雨が降っている。窓際のてるてる坊主も、黙ってこちらに微笑むだけだ。
(……全く、雨続きっていうのも考えものだなぁ……)
*
話は数分前に遡る。
二人での昼食を終え、他愛のない雑談に興じていた時だ。
「そういえば、最近はどんなこと考えてるの?」
話の流れで、そんなことを聞いた。
以前、雨の日はあまり好きではない、と言ったカイに対し、考え事をするにはいい日だと答えたのを思い出したからだった。特に深い意味もなく口にした問いだったのだが、カイはどことなく神妙な顔をして、自分の身体を見てから、日野尾の顔をまじまじと見つめる。
「ねえ先生、僕は男……で、日野尾先生は女のひと、だよね?」
「うん? ……うん、そうだねえ」
「姉さん達も女の子、だよね?」
「そう……まあ、そうねえ」
なんで性別の確認? と日野尾が思っていると、カイは真面目な顔をして言ったのだった。
「先生、どうして人間には、男と女がいるの?」
「…………えぇ?」
そして、今に至る。
*
(ああ、なんだろうこの感じ……。どうしてこうなった? みたいな?)
端的に言えば、「生殖のため」なのだろう。が、それを「こども」に教えるのは躊躇われる。余計な知識を与えたくないのだ。性全般に関わる知識などもっての外である。だからこそ、この「施設」では、情報の中でも特に、性にまつわる情報は徹底的に排除している。「こども」の純粋性を重視する故、というのも勿論あるが、日野尾自身の性的な知識や行為に対する生理的嫌悪感という部分も大きい。
返答に詰まっていると、カイの表情が曇る。
「……その、ごめんなさい。僕、やっぱり変なこと聞いた……? 先生のこと、困らせちゃった……?」
「えっ、あぁ、困って……はいるけど……それはそうじゃなくて、本当に、どんな風に答えようかなぁって。それだけだから、ね?」
慌てて答える。とはいえ、一体どう説明したものか。
日野尾はあれこれと思案した後、人差し指をぴっと立てた。
「よし! その疑問に答えるべく、今日は先生が、ひとつお話をしてあげよう!」
「お話? どんなお話?」
「……ひとりぼっちの神様が、ひとりぼっちじゃなくなるお話さ」
*
「むかーしむかし、あるところに、ひとりぼっちの神様がいました。神様のまわりは真っ暗で、なんにもありません。そんな世界で、神様はずっと長い間暮らしていました」
「なんにも?」
「そう、なんにも。だけどね、神様は色んなことを知っていたし、とっても想像力があったんだ。だから、ひとりぼっちなのが寂しくてたまらなかったのさ」
「なんにもないのに、色んなことを知っていたの? なんにもなくて、誰もいないのに?」
本もないのに? と、不思議そうに首を傾げるカイに、日野尾はふふ、と優しく笑う。
「不思議だよねえ。神様もきっと、どうしてなんだろうって不思議に思っていたと思うよ。……いや、不思議に思うこともなかったのかもしれないねぇ。気付いた時にはもう、知らないことまで知っていたんだから。それが神様にとっての普通のことになってしまっていたのかも」
「でも、知らないことを知ってても、まわりになんにもなかったら、見たことも聞いたこともないことになるよね?」
「うん。そういうことになるね。全ては神様の頭の中にしかないこと。どこまでも想像することはできるけれど、実際に見たり聞いたり触ったりしたことは、神様にはなかった」
日野尾はカイの頭を撫でる。さらさらとした、月の光を紡いだような銀の髪。少しだけ眩しく思えて、思わず目を細める。
「だからね、神様はある日、思いついたんだ。〝そうだ、頭の中にあるこの世界を、この真っ暗でなにもない世界に創ったらどうだろう。きっとひとりぼっちじゃなくなる。それはなんて素敵なことだろう〟って。それで、まず光を創った。頭の中に広がる明るい世界を、真っ先に見たかったんだろうねぇ。それから、空とか海とか大地とかを創って、更にそこにいる生き物達を創ったのさ。そして最後に、自分の姿によく似た生き物――一番はじまりの「人間」を創った。男と、女を、一人ずつね」
「どうして片方だけじゃいけなかったの?」
「うーん、そうだなぁ……」
窓の外、少しだけ遠くを見つめて、その問いに答える。
「神様自身が、ひとりぼっちで寂しい思いをしたからかもね。話し相手がいるって、とっても幸せなことなんだよって、人間に教えたかったのかもしれない。だからわざと、男だけ、女だけでは不完全になるように……お互いに足りないところを補ったり、助け合ったりできるように、創ったのかもしれないね」
「そっか、だから、人間には男と女があるんだね」
「そういうこと。納得した?」
カイは安心したように、こくりと頷く。
「納得したし、それに……神様はもう、ひとりぼっちじゃないんだなぁって思ったら、なんだかほっとした」
「……そうだね」
そうだろうか。
自分で話しておきながら、日野尾は自問自答する。本当に、神は独りではなくなったのだろうか。素直に純粋に、話の顛末に喜ぶカイ。ひとりぼっちではなくなった神様。カイは知らない。禁忌を犯した人間が、やがて楽園を追われたことを。
神は再び、孤独になった。それは、孤独を体験する前よりも、深い傷。一瞬でも幸福を経験した故の痛みと苦しみ。
しかし、そもそも、想像する世界を創造した神は、真の意味で対等な相手を持てたのだろうか。自らの創造物が対等な相手になりうることなど有り得るのだろうか。それで孤独は癒えるのだろうか。孤独に耐えかねた神の見る幻覚として、存在する世界。誰も自身の知覚する世界が妄想と幻覚によって成立したものでは無いと証明できない。
日野尾の思いをよそに、カイはぱっと何かを思い付いたような顔をして、くすくすと笑う。
「なーに? 何を考えたのかなぁ?」
「ううん、だって……何だかそのお話を聞いてたらね」
無邪気に。無垢に。故に残酷に。カイは思い付きを口に出す。
「それって、何だかこのはこにわのことみたい、って……」
「………………」
日野尾の瞳に、複雑な感情が宿る。
「この施設も、僕や姉さん達も、先生が創ったものでしょう?何だかその神様みたい。……あ、でも、先生には大規先生もいるから、ひとりぼっちじゃないね」
「神様、……私が神様ねぇ」
自嘲気味に呟いて、彼女は笑い返す。
楽園の模造品。
つくりものの実験体。
小さな世界の所長である自分。
ああ、確かに自分は神を騙るに相応しい。失っても失っても、私は理想の物語を諦められずに手を伸ばす。
数多の実験体と、数多の物語を失った。
自滅する「こども」。反逆する「こども」。否定する「こども」。拒絶する「こども」。禁忌を犯す「こども」。
かつて神が築こうとした楽園の物語。その歪んだ再現のようだ。
だとしたら、自分のやっていることは結局何もかもが徒労に終わるのだろうか。在りし日の、神と人間の関係性が破綻したように。
そんなの、悪い冗談にも程がある。
夢見る理想がある。成し遂げたい願望がある。幸福への執着。その為の犠牲も対価もいくらでも払ってやる。亡者のような自分が、神を騙って小さな世界を統括する。なんという皮肉だろう。「普通」からの逸脱が、自分をこの役割へと押し上げた。
ひとりぼっちの神様。ひとりぼっちの、偽物の神様。
(――上等だ!)
日野尾の心に、ゆらりと仄暗い炎が立ち上がる。その炎の名前を、日野尾は知らない。怒り、なのか、衝動、なのか。それともまだ誰にも命名されていない感情なのか。それでも、この炎が心にある限り、自分は自分として在り続けることが出来る気がした。
「ありがと。でもそれ、大規先生には言っちゃ駄目だよ」
「そうなの? どうして?」
「調子に乗るから」
わざとおどけて答えて、二人で笑い合う。
いつの間にか雨は小雨になり、灰色の雲から薄日が差し込んでいる。
長かった梅雨も、もうすぐ終わる。
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