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うらにわのこどもたち2 それから季節がひとつ、すぎる間のこと
波紋(2/2)
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丁度その頃。
日野尾の研究室の前に、大規は一人、立っていた。ノックをして声を掛ける。
「所長」
無論、返事はない。それは大規も承知している。彼女が白雪の元にいることを知っていて、形式的に声を掛けたに過ぎない。
「…………」
ドアノブを回し、主人不在の部屋の中に足を踏み入れる。
付けっぱなしになった蛍光灯は一部が切れかかっているのか、僅かな明滅を繰り返している。そのあかりの下、周囲を見渡す。いつも打ち合わせを行うテーブルの上から山積みの資料が崩れ、辺りに散らばっている。そこに、倒れたままのティーカップから紅茶がこぼれて、濡れた資料に茶の染みができている。浸食される白。彼はそれを一瞥した後、床に転がっているクリップボードを拾い上げた。日野尾の書く、やや右上がりの癖字に目を通し、床へと戻す。
「……はぁ……」
やれやれ、と、ため息をついて、大規は目を細める。
「……ああ…………まだ、かな……」
呟く大規の様子は。
どこか苦しそうで。
どこか悲しそうで。
どこか楽しそうで。
どこか嬉しそうで。
冷めているようで、慈悲深いようで、残酷なようで、慈愛に満ちているようで、何かに期待しているようで、何かに絶望しているようで、そのどれもが当てはまるようで、そのどれもが当てはまらないようで。
夜の底を映したような彼の瞳は何も語らない。
そして彼は何事も無かったかのように踵を返す。
夕食を待つ、こどもたちのために。
*
その夜、いつものように仕事を終えた日野尾は、眠りにつこうとしていた。散らばっていた資料は適当に纏めてテーブルの隅に積み、倒れていた茶器類も綺麗に洗って、今は小さな戸棚の中に収まっている。闇の中、ブランケットを引っ掛けて、ソファーに丸まって目を閉じる。
彼女はいつもソファーで眠る。他の部屋とは違い、彼女の部屋にはベッドが無い。研究室と扉で隔たれた私室にも置いていない。独りで眠れるなら何処でも良かったし、私室より研究室の方が落ち着いた。微かに聞こえる秒針の音を子守唄に、次第にやってくる眠気に身を任せる。
いつも通りの静かな夜。目が覚めれば、いつも通りの朝がやって来る。今日もその筈だった。
眠りの中で、彼女は奇妙なものを見た。
青い光。暗闇に輝く、たくさんの青。
無機質で、透明な、冷たく青い光。
ああ、モニターの光だ、と彼女は思った。その光をとても、懐かしいと感じた。
目が覚めたとき、日野尾が覚えていたのはそれだけだ。目覚めてから暫くは、眠りの中の感覚が抜けきらずに、ソファーで丸まったままになっていた。まるで映画の中の登場人物になったかのような感覚。もしくは、小説の読了感がずっと続いているような、不思議な感覚だった。
「…………?」
身体の感覚を確かめるのに、自分の手を握ったり開いたりしてみる。ふわふわとした眠りの中の感覚の名残なのか、身体の感覚にも微妙なズレがあるような気がした。
これが、夢なのだろうか。眠りの中で見たもの。人々が、夜毎に見る物語。
「……へんなの」
立ち上がり、大きく伸びをする。
薄曇りの世界は今日も、柔らかな霧雨に包まれていた。
日野尾の研究室の前に、大規は一人、立っていた。ノックをして声を掛ける。
「所長」
無論、返事はない。それは大規も承知している。彼女が白雪の元にいることを知っていて、形式的に声を掛けたに過ぎない。
「…………」
ドアノブを回し、主人不在の部屋の中に足を踏み入れる。
付けっぱなしになった蛍光灯は一部が切れかかっているのか、僅かな明滅を繰り返している。そのあかりの下、周囲を見渡す。いつも打ち合わせを行うテーブルの上から山積みの資料が崩れ、辺りに散らばっている。そこに、倒れたままのティーカップから紅茶がこぼれて、濡れた資料に茶の染みができている。浸食される白。彼はそれを一瞥した後、床に転がっているクリップボードを拾い上げた。日野尾の書く、やや右上がりの癖字に目を通し、床へと戻す。
「……はぁ……」
やれやれ、と、ため息をついて、大規は目を細める。
「……ああ…………まだ、かな……」
呟く大規の様子は。
どこか苦しそうで。
どこか悲しそうで。
どこか楽しそうで。
どこか嬉しそうで。
冷めているようで、慈悲深いようで、残酷なようで、慈愛に満ちているようで、何かに期待しているようで、何かに絶望しているようで、そのどれもが当てはまるようで、そのどれもが当てはまらないようで。
夜の底を映したような彼の瞳は何も語らない。
そして彼は何事も無かったかのように踵を返す。
夕食を待つ、こどもたちのために。
*
その夜、いつものように仕事を終えた日野尾は、眠りにつこうとしていた。散らばっていた資料は適当に纏めてテーブルの隅に積み、倒れていた茶器類も綺麗に洗って、今は小さな戸棚の中に収まっている。闇の中、ブランケットを引っ掛けて、ソファーに丸まって目を閉じる。
彼女はいつもソファーで眠る。他の部屋とは違い、彼女の部屋にはベッドが無い。研究室と扉で隔たれた私室にも置いていない。独りで眠れるなら何処でも良かったし、私室より研究室の方が落ち着いた。微かに聞こえる秒針の音を子守唄に、次第にやってくる眠気に身を任せる。
いつも通りの静かな夜。目が覚めれば、いつも通りの朝がやって来る。今日もその筈だった。
眠りの中で、彼女は奇妙なものを見た。
青い光。暗闇に輝く、たくさんの青。
無機質で、透明な、冷たく青い光。
ああ、モニターの光だ、と彼女は思った。その光をとても、懐かしいと感じた。
目が覚めたとき、日野尾が覚えていたのはそれだけだ。目覚めてから暫くは、眠りの中の感覚が抜けきらずに、ソファーで丸まったままになっていた。まるで映画の中の登場人物になったかのような感覚。もしくは、小説の読了感がずっと続いているような、不思議な感覚だった。
「…………?」
身体の感覚を確かめるのに、自分の手を握ったり開いたりしてみる。ふわふわとした眠りの中の感覚の名残なのか、身体の感覚にも微妙なズレがあるような気がした。
これが、夢なのだろうか。眠りの中で見たもの。人々が、夜毎に見る物語。
「……へんなの」
立ち上がり、大きく伸びをする。
薄曇りの世界は今日も、柔らかな霧雨に包まれていた。
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