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うらにわのこどもたち
エピローグ
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「行くのかい?」
滞在期間を終え、荷物を纏めていると、日野尾所長がひょっこりと顔を出した。初対面で赤黒く汚れていた白衣も、今日は綺麗な白色だ。頷くと、「そっか」と微笑む。
「どうだった?私の〝はこにわ〟は」
この研究所に来て、実際に彼等と接する中で、様々な発見があったように思う。良い部分も、悪い部分も、貴重な経験になった。そう、素直に感想を述べる。すると所長は、少しだけ驚いた顔をして、
「……君は本当に、変わってるね」
と、小さく呟いた。彼女の大きな瞳に、戸惑いの色を見る。
「私はてっきり、倫理や道徳を問われると思ったよ。非難されたり、悪く言われるのを覚悟してた。実際、そう言われても仕方の無い事をしているのは、承知しているからね」
首を振る。自分は、倫理や道徳を糾弾するために来た訳では無い。
彼女はふっと笑う。
「大規くんが迎えを呼んでるから、私もお見送りするよ。それと、……ありがとう。君はいい客人だった。もし、またうちに来たくなったら、連絡ちょうだい。もうちょっとランクの高い茶葉を用意して、待ってるから」
差し出された所長の手を握る。
彼女の小さな手は、やはり〝普通の女性〟と変わりなかった。
*
荷物を持って、所長と玄関まで行くと、一台の車が止まっていた。その手前で、大規研究員と、知らない青年が、立ち話をしている。
「あれ、迎えって君かぁ」
「あっ、どーも所長さん! いつもお世話になっておりますー!」
所長に対し、青年がぺこりと頭を下げる。肩より少し長い髪を、後ろで一括りにし、糸目の顔に人懐っこい笑みを浮かべている。年齢は、大学生くらいだろうか?随分と若い印象を受ける。
「ああ、この子ね、うちに出入りしてる業者の子なの」
こちらの表情に気付いた所長が、青年について説明してくれた。主に医療器具の販売や洗浄を中心に、この施設の幅広いニーズに応えてくれる業者、らしい。
「そーなんですよー! いつもご贔屓にして下さって、僕もホント、助かってるんですー!」
ありがたいですねー! と笑う青年。見ていると、こちらの心までほっこりしてくる。大人だけではなく、子供受けも良さそうだ。もし、将来は保育士になりたい、と言われても、彼ならやっていけそうな印象を持つ。
「では、この方をよろしくお願いしますね。忘れ物はありませんか?」
大規研究員に言われ、頷く。
「じゃあね、気をつけて帰るんだよ」
「御機嫌よう」
こちらこそ、お世話になりました、と、二人に頭を下げ、車の助手席に乗り込む。シートベルトを締めてから窓の外を見ると、小さく手を振る所長と、隣に立つ大規研究員の姿が見えた。
「じゃ、出発しますよー!」
短いクラクションを鳴らして、車が走り出す。段々と、研究所が小さくなってゆく。
*
「どうでした? 研究所! 皆さん優しかったでしょー! あ、お茶飲みます? どーぞ!」
機嫌良く運転する青年が、ペットボトルのお茶を手渡してくれる。どうも、と言って、開封し、口をつける。
「お客さんが来てるって聞いた時はびっくりでしたよー! えーあの所長さんがオッケー出したのー!? って。でもねー、きっとお客さんが、いい人だからオッケーしたんでしょーねー! ホントに珍しいんですよー! 強運の持ち主ですよー!」
そうおだてられると照れてしまう。頭を掻きつつ、また機会があれば、伺いたい旨を告げる。
「そーですか!」
彼はにこにこと人懐っこい笑みを浮かべたまま、
「無理ですね!」
と言った。
………………?
彼の言葉の意図するところが分からない。彼は何故、そんな事を言うのか。
「うちですねー、よそではちょっと引き受けられないなー、ってお仕事もしてるんですねー? 今日は僕、そのちょっと引き受けられないなーってお仕事で来てるんですよ」
ちょっと引き受けられない仕事。
まさか……身体から、すっと血の気が引く。どういう事だ。所長は、確かに約束した筈だ。生きて帰すと。また待っている、と。
「んー、それは間違っていませんねー。所長さんは嘘つく人じゃないですからねー。でも、今回の依頼は大規さんから受けてるんですよー。不履行はお互いの信頼に関わりますからねー」
ご贔屓さんを敵に回したくはないですからねー! と、青年は笑う。
シートベルトを外そうとする。外れない。がちゃがちゃと、金具の音だけが虚しく響く。ドアのロックも、解除できない。
「あっ! ダメですよ! 運転中ですよ! 外れないから安心して諦めてください!」
そう言われて易々と諦められるものか。助手席からハンドルに手を伸ばす。
「うわっ!」
青年が慌ててハンドルを切る。車が大きく揺れて、路肩に止まった。今だ。今のうちに、どうにかして逃げなければ……。
シートベルトを緩め、どうにか脱出できないかと試みる。焦れば焦るほど、手にかいた汗でシートベルトが滑る。嫌だ。どうしてこんな目に……。
その時、側頭部に強い痛みと衝撃が走った。視界が赤く染まる。青年を見ると、彼の手にはいつの間にか金槌のようなものが握られている。
「もー! 危ないじゃないですかー! ちょっと寝ててください!」
……青年の声が、次第に遠くなっていく。駄目だ。こんな所で、意識を失うわけには……。
…………。
……………………。
「全くもー! こっちはゴールド免許目指してるのにー!」
ぐったりとして、動かなくなった客人に、青年はぶつぶつと文句を言う。
それから、サイドブレーキを下ろし、再び緩やかに車を発進させる。
「さーて、お仕事! お仕事!」
陽気な青年と、静かになった客人を乗せた車は、今度こそ本当に、見えなくなっていった。
*
客人が去った後の研究所。
「……随分と、ご機嫌ですね」
いつになく機嫌のいい日野尾を前に、大規は呟く。
「いいお客さんだったからね。また来て……くれるかどうかは分からないけど、たまには世間と関わってもいいかなーとは思ったよ」
「……そうですね」
「その時にはもうちょっと、きちんとおもてなししようと思うよ。少しいい茶葉も揃えておいてさ」
「ええ」
日野尾は何も知らない。今頃、客人がどんな運命を辿っているのか。本当に何も知らず、無邪気に言葉を紡ぐばかりだ。彼女の大きな瞳が輝く度、大規の胸中は温かい感情と残酷な感情でいっぱいになる。そのどちらの感情にしても、大規は〝満ち足りている〟と、認識し、判断する。
客人の運命について、日野尾に明かすつもりは無い。業者の青年もまた、余計なことを口にすることは無いだろう。
「でも、どうして業者くん? タクシー呼べばよかったんじゃない?」
「良い方だったからこそ、信頼のおける人に送り届けて頂いた方が、確実じゃないですか」
「タクシーの運転手だって、ちゃんと仕事すると思うけどなぁ……」
日野尾は大規の顔を見上げる。彼の夜を映したような瞳は、相変わらず感情が読みにくく、口元は白いマスクで隠れていて、表情を窺い知れない。
「……まぁ、確かに彼なら安心か」
もっともらしい大規の嘘に、日野尾は頷いて、客人へと思いを馳せる。
「今頃は、もう家に着いてるかなぁ。まだ帰り道かな」
「どうでしょう」
「今日寝る前とかにさ、うちのこと思い出してくれたらいいねぇ」
「きっと、思い出して下さいますよ」
大規の言葉に、日野尾は思春期の少女のような、可憐な花のような、ふわりとした微笑みを浮かべる。喜びを噛み締めるように、小さく何度か頷いて、それからはっと自分の表情と行動に気付き、誤魔化すように小さく咳払いをした。
「……仕事に、戻ろうか」
「そうしましょう」
斯くして。
小さな世界の日常は、続いていく。
その実態を、世間に知られることなく。
滞在期間を終え、荷物を纏めていると、日野尾所長がひょっこりと顔を出した。初対面で赤黒く汚れていた白衣も、今日は綺麗な白色だ。頷くと、「そっか」と微笑む。
「どうだった?私の〝はこにわ〟は」
この研究所に来て、実際に彼等と接する中で、様々な発見があったように思う。良い部分も、悪い部分も、貴重な経験になった。そう、素直に感想を述べる。すると所長は、少しだけ驚いた顔をして、
「……君は本当に、変わってるね」
と、小さく呟いた。彼女の大きな瞳に、戸惑いの色を見る。
「私はてっきり、倫理や道徳を問われると思ったよ。非難されたり、悪く言われるのを覚悟してた。実際、そう言われても仕方の無い事をしているのは、承知しているからね」
首を振る。自分は、倫理や道徳を糾弾するために来た訳では無い。
彼女はふっと笑う。
「大規くんが迎えを呼んでるから、私もお見送りするよ。それと、……ありがとう。君はいい客人だった。もし、またうちに来たくなったら、連絡ちょうだい。もうちょっとランクの高い茶葉を用意して、待ってるから」
差し出された所長の手を握る。
彼女の小さな手は、やはり〝普通の女性〟と変わりなかった。
*
荷物を持って、所長と玄関まで行くと、一台の車が止まっていた。その手前で、大規研究員と、知らない青年が、立ち話をしている。
「あれ、迎えって君かぁ」
「あっ、どーも所長さん! いつもお世話になっておりますー!」
所長に対し、青年がぺこりと頭を下げる。肩より少し長い髪を、後ろで一括りにし、糸目の顔に人懐っこい笑みを浮かべている。年齢は、大学生くらいだろうか?随分と若い印象を受ける。
「ああ、この子ね、うちに出入りしてる業者の子なの」
こちらの表情に気付いた所長が、青年について説明してくれた。主に医療器具の販売や洗浄を中心に、この施設の幅広いニーズに応えてくれる業者、らしい。
「そーなんですよー! いつもご贔屓にして下さって、僕もホント、助かってるんですー!」
ありがたいですねー! と笑う青年。見ていると、こちらの心までほっこりしてくる。大人だけではなく、子供受けも良さそうだ。もし、将来は保育士になりたい、と言われても、彼ならやっていけそうな印象を持つ。
「では、この方をよろしくお願いしますね。忘れ物はありませんか?」
大規研究員に言われ、頷く。
「じゃあね、気をつけて帰るんだよ」
「御機嫌よう」
こちらこそ、お世話になりました、と、二人に頭を下げ、車の助手席に乗り込む。シートベルトを締めてから窓の外を見ると、小さく手を振る所長と、隣に立つ大規研究員の姿が見えた。
「じゃ、出発しますよー!」
短いクラクションを鳴らして、車が走り出す。段々と、研究所が小さくなってゆく。
*
「どうでした? 研究所! 皆さん優しかったでしょー! あ、お茶飲みます? どーぞ!」
機嫌良く運転する青年が、ペットボトルのお茶を手渡してくれる。どうも、と言って、開封し、口をつける。
「お客さんが来てるって聞いた時はびっくりでしたよー! えーあの所長さんがオッケー出したのー!? って。でもねー、きっとお客さんが、いい人だからオッケーしたんでしょーねー! ホントに珍しいんですよー! 強運の持ち主ですよー!」
そうおだてられると照れてしまう。頭を掻きつつ、また機会があれば、伺いたい旨を告げる。
「そーですか!」
彼はにこにこと人懐っこい笑みを浮かべたまま、
「無理ですね!」
と言った。
………………?
彼の言葉の意図するところが分からない。彼は何故、そんな事を言うのか。
「うちですねー、よそではちょっと引き受けられないなー、ってお仕事もしてるんですねー? 今日は僕、そのちょっと引き受けられないなーってお仕事で来てるんですよ」
ちょっと引き受けられない仕事。
まさか……身体から、すっと血の気が引く。どういう事だ。所長は、確かに約束した筈だ。生きて帰すと。また待っている、と。
「んー、それは間違っていませんねー。所長さんは嘘つく人じゃないですからねー。でも、今回の依頼は大規さんから受けてるんですよー。不履行はお互いの信頼に関わりますからねー」
ご贔屓さんを敵に回したくはないですからねー! と、青年は笑う。
シートベルトを外そうとする。外れない。がちゃがちゃと、金具の音だけが虚しく響く。ドアのロックも、解除できない。
「あっ! ダメですよ! 運転中ですよ! 外れないから安心して諦めてください!」
そう言われて易々と諦められるものか。助手席からハンドルに手を伸ばす。
「うわっ!」
青年が慌ててハンドルを切る。車が大きく揺れて、路肩に止まった。今だ。今のうちに、どうにかして逃げなければ……。
シートベルトを緩め、どうにか脱出できないかと試みる。焦れば焦るほど、手にかいた汗でシートベルトが滑る。嫌だ。どうしてこんな目に……。
その時、側頭部に強い痛みと衝撃が走った。視界が赤く染まる。青年を見ると、彼の手にはいつの間にか金槌のようなものが握られている。
「もー! 危ないじゃないですかー! ちょっと寝ててください!」
……青年の声が、次第に遠くなっていく。駄目だ。こんな所で、意識を失うわけには……。
…………。
……………………。
「全くもー! こっちはゴールド免許目指してるのにー!」
ぐったりとして、動かなくなった客人に、青年はぶつぶつと文句を言う。
それから、サイドブレーキを下ろし、再び緩やかに車を発進させる。
「さーて、お仕事! お仕事!」
陽気な青年と、静かになった客人を乗せた車は、今度こそ本当に、見えなくなっていった。
*
客人が去った後の研究所。
「……随分と、ご機嫌ですね」
いつになく機嫌のいい日野尾を前に、大規は呟く。
「いいお客さんだったからね。また来て……くれるかどうかは分からないけど、たまには世間と関わってもいいかなーとは思ったよ」
「……そうですね」
「その時にはもうちょっと、きちんとおもてなししようと思うよ。少しいい茶葉も揃えておいてさ」
「ええ」
日野尾は何も知らない。今頃、客人がどんな運命を辿っているのか。本当に何も知らず、無邪気に言葉を紡ぐばかりだ。彼女の大きな瞳が輝く度、大規の胸中は温かい感情と残酷な感情でいっぱいになる。そのどちらの感情にしても、大規は〝満ち足りている〟と、認識し、判断する。
客人の運命について、日野尾に明かすつもりは無い。業者の青年もまた、余計なことを口にすることは無いだろう。
「でも、どうして業者くん? タクシー呼べばよかったんじゃない?」
「良い方だったからこそ、信頼のおける人に送り届けて頂いた方が、確実じゃないですか」
「タクシーの運転手だって、ちゃんと仕事すると思うけどなぁ……」
日野尾は大規の顔を見上げる。彼の夜を映したような瞳は、相変わらず感情が読みにくく、口元は白いマスクで隠れていて、表情を窺い知れない。
「……まぁ、確かに彼なら安心か」
もっともらしい大規の嘘に、日野尾は頷いて、客人へと思いを馳せる。
「今頃は、もう家に着いてるかなぁ。まだ帰り道かな」
「どうでしょう」
「今日寝る前とかにさ、うちのこと思い出してくれたらいいねぇ」
「きっと、思い出して下さいますよ」
大規の言葉に、日野尾は思春期の少女のような、可憐な花のような、ふわりとした微笑みを浮かべる。喜びを噛み締めるように、小さく何度か頷いて、それからはっと自分の表情と行動に気付き、誤魔化すように小さく咳払いをした。
「……仕事に、戻ろうか」
「そうしましょう」
斯くして。
小さな世界の日常は、続いていく。
その実態を、世間に知られることなく。
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