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うらにわのこどもたち
番外 ひめごと(2/2)
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「煙草……煙草ねぇ」
長い方の吸殻を、親指と人差し指でつまんで持ち上げ、まじまじと見つめる。
「吸ったことないから分かんないけど、そんなにいいものなのかなぁ……あんまり美味しそうに思えないけど」
「気になります?」
「興味はある」
言うと、大規くんはくすっと笑って、机の引き出しから煙草の箱とライターを取り出した。片手で器用に一本、煙草を抜いてこちらへ差し出す。
「試してみますか?」
「吸い方分かんないよ」
「教えますよ」
おずおずと、煙草を受け取る。
「吸い口に近い辺りを、人差し指と中指で挟んで持ってみて下さい。もし、持ちにくいようでしたら、親指を添えてみて」
「こ、こう?」
「そんなに握らなくて大丈夫です」
ペンを握るように煙草を握り込むと、大規くんの細くて長い指先が、私の指の位置を直す。白く、ひんやりとした、冷たい手。
「これくらい」
耳触りのいい声が、いつもより近くで聴こえる。
「火をつける時は、できる限り優しく、吸い口を吸ってみて下さい。強く吸うとむせますから、気をつけて下さいね」
「んん……」
慣れない手つきで煙草を持つ私に、大規くんがライターの火を差し出す。優しく吸おうとして――喉の奥に煙が入った瞬間、酷くむせた。口の中にじわじわと苦味が広がる。
「……っ! げほっ、げほ……なに、これ……っ!」
「できる限り優しく、と言ったじゃないですか」
「や、げほっ……! 優しく吸ったって!」
「もっと優しく、です」
私の手から取り上げた煙草を、大規くんが吸ってみせる。薄暗い部屋に、微かな赤い火が灯り、煙草の先端を焦がしてゆく。ゆっくりと、口から煙を吐き出し、彼はどこか余裕のある笑みを浮かべた。
「いかがでした? 初めての煙草の味は」
「苦い。不味い。あと、喉がひりひりする」
違和感を感じる喉をさする。
「喫煙者の気持ちが分かるかと思ったんだけどねぇ……逆に一層、分からなくなったよ」
「それは残念」
大規くんは灰皿の縁に煙草を置き、白衣のポケットから何かを取り出すと、私の手に渡した。見ると、市販品ののど飴だった。開封して、口の中に放り込む。甘酸っぱい、はちみつレモンの味。
「また興味が湧いたら、いつでも教えて差し上げますよ。今度はもう少し、丁寧に」
「気が向いたらね」
からころと、のど飴を転がしながら答える。少なくとも今は、煙草の味よりのど飴の方が自分に合っているようだ。
とっくに役目を果たして静かになった印刷機から資料を取り出し、論文の入った封筒と一緒に小脇に抱える。
「それじゃ、邪魔したね」
部屋を出ようとドアノブに手を掛けようとして――背後から資料を持つ手をぐい、と引っ張られた。ばさばさと資料が床に落ちる。反射的に自分の白衣のポケットにある折り畳みナイフを掴むが、その手も押えられ、身体をドアに叩きつけられる。身体を密着させられているせいで、蹴りを入れることもできない。背中と後頭部に鈍い痛みを感じつつ、大規くんを睨む。目が合うと、彼は表情のない顔で、口元だけに笑みを作ってみせた。
「ひとつ、ご忠告を」
大規くんの顔がそのまま近付き、耳元でぴたりと止まる。
「……こんな時間に異性の部屋を訪れるのは、不用心にも程がありますよ、愛々さん」
「その名前嫌いだっつってんだろサイコ野郎」
からかうように囁く大規くんの顔を見ずに吐き捨てる。
愛々。
大嫌いな自分の名前。世界で一番不愉快な、自分の呼び名。
「君のせいで資料が落ちたじゃないか。全く……」
声を和らげ、溜息をつく。彼の身体が私から離れ、足元の書類を拾う。
(本当に、この男は……)
戯れに、こういう事をする。一々本気でムキになっていたら、彼の首はいくつあっても足りないし、私の精神もいくつあっても持たない。
掴まれていた手首をさする。薄闇の中でも、うっすらと赤くなっているのが見て取れた。
(うん、こりゃ他所ではやっていけないなぁ)
改めて、実感する。
彼にせよ。私にせよ。ここでやって行けるのは、ろくでもないやつばかりだ。
*
縁に置いたまま、すっかり燃え尽きてしまった煙草を灰皿に落とす。
日野尾に渡したデータを表示させたままのモニター。キーボードで長い文字列を打ち込むと、画面が切り替わり、別の資料が表示される。
油断も隙もあったものじゃない。
この資料は――「日野尾愛々」に関する資料は、誰にも見られるわけにいかないのだ。
しかし、と、大規は頭の中で、先程までこの部屋にいた日野尾の様子を反芻する。
想定外の出来事のおかげで面白いものを見ることができた。煙草にむせて涙目になる日野尾の表情。あれは、中々。
「愛らしかったですよ、愛々さん」
ぼそりと呟いて、口元を指先で覆う。
「おっと」
顎下にかけたままになっていたマスクを定位置に戻す。それから、またいくつかの文章を資料に書き加え、パソコンの電源を落とす。
観測者のいない部屋の中、彼の口元がどんな表情を描いているかは、誰も知らない。
長い方の吸殻を、親指と人差し指でつまんで持ち上げ、まじまじと見つめる。
「吸ったことないから分かんないけど、そんなにいいものなのかなぁ……あんまり美味しそうに思えないけど」
「気になります?」
「興味はある」
言うと、大規くんはくすっと笑って、机の引き出しから煙草の箱とライターを取り出した。片手で器用に一本、煙草を抜いてこちらへ差し出す。
「試してみますか?」
「吸い方分かんないよ」
「教えますよ」
おずおずと、煙草を受け取る。
「吸い口に近い辺りを、人差し指と中指で挟んで持ってみて下さい。もし、持ちにくいようでしたら、親指を添えてみて」
「こ、こう?」
「そんなに握らなくて大丈夫です」
ペンを握るように煙草を握り込むと、大規くんの細くて長い指先が、私の指の位置を直す。白く、ひんやりとした、冷たい手。
「これくらい」
耳触りのいい声が、いつもより近くで聴こえる。
「火をつける時は、できる限り優しく、吸い口を吸ってみて下さい。強く吸うとむせますから、気をつけて下さいね」
「んん……」
慣れない手つきで煙草を持つ私に、大規くんがライターの火を差し出す。優しく吸おうとして――喉の奥に煙が入った瞬間、酷くむせた。口の中にじわじわと苦味が広がる。
「……っ! げほっ、げほ……なに、これ……っ!」
「できる限り優しく、と言ったじゃないですか」
「や、げほっ……! 優しく吸ったって!」
「もっと優しく、です」
私の手から取り上げた煙草を、大規くんが吸ってみせる。薄暗い部屋に、微かな赤い火が灯り、煙草の先端を焦がしてゆく。ゆっくりと、口から煙を吐き出し、彼はどこか余裕のある笑みを浮かべた。
「いかがでした? 初めての煙草の味は」
「苦い。不味い。あと、喉がひりひりする」
違和感を感じる喉をさする。
「喫煙者の気持ちが分かるかと思ったんだけどねぇ……逆に一層、分からなくなったよ」
「それは残念」
大規くんは灰皿の縁に煙草を置き、白衣のポケットから何かを取り出すと、私の手に渡した。見ると、市販品ののど飴だった。開封して、口の中に放り込む。甘酸っぱい、はちみつレモンの味。
「また興味が湧いたら、いつでも教えて差し上げますよ。今度はもう少し、丁寧に」
「気が向いたらね」
からころと、のど飴を転がしながら答える。少なくとも今は、煙草の味よりのど飴の方が自分に合っているようだ。
とっくに役目を果たして静かになった印刷機から資料を取り出し、論文の入った封筒と一緒に小脇に抱える。
「それじゃ、邪魔したね」
部屋を出ようとドアノブに手を掛けようとして――背後から資料を持つ手をぐい、と引っ張られた。ばさばさと資料が床に落ちる。反射的に自分の白衣のポケットにある折り畳みナイフを掴むが、その手も押えられ、身体をドアに叩きつけられる。身体を密着させられているせいで、蹴りを入れることもできない。背中と後頭部に鈍い痛みを感じつつ、大規くんを睨む。目が合うと、彼は表情のない顔で、口元だけに笑みを作ってみせた。
「ひとつ、ご忠告を」
大規くんの顔がそのまま近付き、耳元でぴたりと止まる。
「……こんな時間に異性の部屋を訪れるのは、不用心にも程がありますよ、愛々さん」
「その名前嫌いだっつってんだろサイコ野郎」
からかうように囁く大規くんの顔を見ずに吐き捨てる。
愛々。
大嫌いな自分の名前。世界で一番不愉快な、自分の呼び名。
「君のせいで資料が落ちたじゃないか。全く……」
声を和らげ、溜息をつく。彼の身体が私から離れ、足元の書類を拾う。
(本当に、この男は……)
戯れに、こういう事をする。一々本気でムキになっていたら、彼の首はいくつあっても足りないし、私の精神もいくつあっても持たない。
掴まれていた手首をさする。薄闇の中でも、うっすらと赤くなっているのが見て取れた。
(うん、こりゃ他所ではやっていけないなぁ)
改めて、実感する。
彼にせよ。私にせよ。ここでやって行けるのは、ろくでもないやつばかりだ。
*
縁に置いたまま、すっかり燃え尽きてしまった煙草を灰皿に落とす。
日野尾に渡したデータを表示させたままのモニター。キーボードで長い文字列を打ち込むと、画面が切り替わり、別の資料が表示される。
油断も隙もあったものじゃない。
この資料は――「日野尾愛々」に関する資料は、誰にも見られるわけにいかないのだ。
しかし、と、大規は頭の中で、先程までこの部屋にいた日野尾の様子を反芻する。
想定外の出来事のおかげで面白いものを見ることができた。煙草にむせて涙目になる日野尾の表情。あれは、中々。
「愛らしかったですよ、愛々さん」
ぼそりと呟いて、口元を指先で覆う。
「おっと」
顎下にかけたままになっていたマスクを定位置に戻す。それから、またいくつかの文章を資料に書き加え、パソコンの電源を落とす。
観測者のいない部屋の中、彼の口元がどんな表情を描いているかは、誰も知らない。
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