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うらにわのこどもたち
番外 ひめごと(1/2)
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昔から、ひとつのものに集中すると、他のことが見えなくなる癖がある。時間を忘れて、体力が尽きるギリギリまで物事にのめり込むのは、……まあ社会適応に多大な影響はあったが、研究職には向いている特性、だと思う。
こどもたちの就寝後、途中だった資料のまとめをやり切ってしまおうと思い立って数時間。やっと終わったと思いふと時計を見ると、既に深夜二時を回っていた。座ったままペンを放り出して伸びをする。途端に一日の疲労が身体を巡る。
「んー……」
軽い目眩と共に、やっちゃったなぁという思いと、まあいいかという思いが同時に湧き上がって、まあいいかが勝った。仕事は終わったわけだし。前向きに考えよう。
椅子から立ち上がり、乾いた喉を潤そうと、棚からティーポットを取り出す。いくつかストックしてある茶葉からどれにしようかしばし迷い、ローカフェインのアップルティーを選ぶ。小さなコンロにヤカンをかける。お湯が湧く音が、眠気を誘う。
茶葉とお湯を、温めたティーポットに入れて、砂時計をひっくり返す。音もなく落ちていく砂。夜中のしんとした室内に、時計の秒針の音だけが響く。
(まるでここにしか世界が存在しないみたいだ)
柄にもなく少女じみたことを考えて笑ってしまう。外は真っ暗で、明かりのついたこの部屋だけが世界から切り取られ、取り残されているような。
(だとしたら、無くなったのは外の世界なのか、この部屋なのか、どっちなんだろうねぇ)
頭の中で言葉遊びに興じていると、砂時計の砂がいつの間にか全て下に落ちていた。ティーポットを回して、出来上がったばかりの紅茶をカップに注ぐ。香りを楽しめど、手は出さない。猫舌の私には、まだ少しばかり熱すぎる。
適温になった紅茶を片手に、ふと窓の下を見ると、暗闇の中にぼんやりと明かりがひとつ。どうやらここ以外にも世界は存在したようだ。あれは、大規くんの部屋の位置。
「仕事熱心だねぇ」
呟く。本当に、彼は仕事熱心だ。器用で、頭の回転も速くて、嘘も上手い。ここじゃなくてもどこでもやっていけそうなのに。私と違って。
だけど、ここの仕事に仕事熱心である、という時点で、やっぱりどこか間違えているのだろう。人として。
ここでの「仕事」は、普通の人の言うところの、まともな倫理道徳の下ではやっていけない。
起きているなら丁度いい。資料を渡してしまおうと、私は残った紅茶を飲み干す。ふあぁ、と欠伸を一つして、もう一つの世界を目指す。
*
「大規くーん。入るよー」
コンコンコン、と三回ノックして、大規くんの部屋に入る。少し照明を落とした薄暗い部屋の中で、パソコンのモニターが三つ、煌々と光っている。その前に、こちらに背を向けて部屋の主が座っていた。整頓された机の上に、濃い藍色のマグカップがひとつ。コーヒーの香りの中に、うっすらと煙草の匂いが混じっている。
大規くんは椅子に座ったまま、首だけでちらりとこちらを見た後に、咥えていた煙草を灰皿に押し込んだ。それから、立ち上がってこちらに向き直る。
「お疲れ様です」
「お疲れ様。起きてるようだったから、資料届けに来た」
「……こんな時間まで作っていたんですか?」
「お互い様でしょ」
言いながら、資料を渡す。どうも、と言って、大規くんが早速資料に目を通し始める。
煙草を吸っていたそのままのせいで、普段は口元を覆っているマスクが顎下にかかったままだ。整った顔立ちに、あまり光のない冷めた目。ややしわのよった白衣。照明と時間帯も相まって、昼間の彼にはない気だるげな色気を感じる。
(……モテそう)
何となく、そんな気がする。思えば彼を採用してこの方、異性として意識したことは無かったが、同年代の恋愛対象としては、多分、とても、好ましい。少なくとも、外見は。
もしくはちょっと頭のおかしな殺人鬼、ってところだろうか。サイコホラーに適役。
「成程。承りました」
「よろしく。私は何か持ってくものあるかな?」
「ではこれを。お探しの研究論文を入手できたので。それと、実験体の研究データを纏めたので、ご確認下さい」
渡された封筒を開ける。分厚い紙の束は、確かに探していたものだった。
「……驚いた。よくまあ、うちなんかに回して貰えたねぇ」
「そこは蛇の道は蛇。色々とルートを駆使して」
「優秀な研究員がいて助かるよ」
「お褒めに預かり光栄です」
大規くんは一礼して、モニターにいくつかの資料を表示させる。実験体のデータが整理され、非常にわかりやすく纏まっていた。いつも通り、文句の付けようがない。
「問題がなければ、出力してお渡しします」
「うん。明日……もう今日か。午後、これを元に打ち合わせしよう」
「分かりました」
カチカチ、とマウスのクリック音が響いた後、印刷機が重い音を立てて起動する。
「……吸うんだね、煙草」
机の上の灰皿を触る。黒い円形の灰皿の中に、吸殻がふたつ。三分の一くらいの長さのものと、半分くらいの長さのもの。さっき咥えていたのは、後者の方だろうか。
「君から煙草の匂いなんてしたことなかったから、知らなかった」
大規くんの匂い。糊のきいた、清潔な白衣の匂い。薬品の匂い。それから。
(血の匂い)
「日常的に吸う訳では無いですからね。それに、……煙草の匂いは子供に毒だ」
「そりゃそうだ」
小さく肩をすくめる大規くんに苦笑する。血の匂いについては言及するのはやめた。私からも、きっと同じ匂いがする。
こどもたちの就寝後、途中だった資料のまとめをやり切ってしまおうと思い立って数時間。やっと終わったと思いふと時計を見ると、既に深夜二時を回っていた。座ったままペンを放り出して伸びをする。途端に一日の疲労が身体を巡る。
「んー……」
軽い目眩と共に、やっちゃったなぁという思いと、まあいいかという思いが同時に湧き上がって、まあいいかが勝った。仕事は終わったわけだし。前向きに考えよう。
椅子から立ち上がり、乾いた喉を潤そうと、棚からティーポットを取り出す。いくつかストックしてある茶葉からどれにしようかしばし迷い、ローカフェインのアップルティーを選ぶ。小さなコンロにヤカンをかける。お湯が湧く音が、眠気を誘う。
茶葉とお湯を、温めたティーポットに入れて、砂時計をひっくり返す。音もなく落ちていく砂。夜中のしんとした室内に、時計の秒針の音だけが響く。
(まるでここにしか世界が存在しないみたいだ)
柄にもなく少女じみたことを考えて笑ってしまう。外は真っ暗で、明かりのついたこの部屋だけが世界から切り取られ、取り残されているような。
(だとしたら、無くなったのは外の世界なのか、この部屋なのか、どっちなんだろうねぇ)
頭の中で言葉遊びに興じていると、砂時計の砂がいつの間にか全て下に落ちていた。ティーポットを回して、出来上がったばかりの紅茶をカップに注ぐ。香りを楽しめど、手は出さない。猫舌の私には、まだ少しばかり熱すぎる。
適温になった紅茶を片手に、ふと窓の下を見ると、暗闇の中にぼんやりと明かりがひとつ。どうやらここ以外にも世界は存在したようだ。あれは、大規くんの部屋の位置。
「仕事熱心だねぇ」
呟く。本当に、彼は仕事熱心だ。器用で、頭の回転も速くて、嘘も上手い。ここじゃなくてもどこでもやっていけそうなのに。私と違って。
だけど、ここの仕事に仕事熱心である、という時点で、やっぱりどこか間違えているのだろう。人として。
ここでの「仕事」は、普通の人の言うところの、まともな倫理道徳の下ではやっていけない。
起きているなら丁度いい。資料を渡してしまおうと、私は残った紅茶を飲み干す。ふあぁ、と欠伸を一つして、もう一つの世界を目指す。
*
「大規くーん。入るよー」
コンコンコン、と三回ノックして、大規くんの部屋に入る。少し照明を落とした薄暗い部屋の中で、パソコンのモニターが三つ、煌々と光っている。その前に、こちらに背を向けて部屋の主が座っていた。整頓された机の上に、濃い藍色のマグカップがひとつ。コーヒーの香りの中に、うっすらと煙草の匂いが混じっている。
大規くんは椅子に座ったまま、首だけでちらりとこちらを見た後に、咥えていた煙草を灰皿に押し込んだ。それから、立ち上がってこちらに向き直る。
「お疲れ様です」
「お疲れ様。起きてるようだったから、資料届けに来た」
「……こんな時間まで作っていたんですか?」
「お互い様でしょ」
言いながら、資料を渡す。どうも、と言って、大規くんが早速資料に目を通し始める。
煙草を吸っていたそのままのせいで、普段は口元を覆っているマスクが顎下にかかったままだ。整った顔立ちに、あまり光のない冷めた目。ややしわのよった白衣。照明と時間帯も相まって、昼間の彼にはない気だるげな色気を感じる。
(……モテそう)
何となく、そんな気がする。思えば彼を採用してこの方、異性として意識したことは無かったが、同年代の恋愛対象としては、多分、とても、好ましい。少なくとも、外見は。
もしくはちょっと頭のおかしな殺人鬼、ってところだろうか。サイコホラーに適役。
「成程。承りました」
「よろしく。私は何か持ってくものあるかな?」
「ではこれを。お探しの研究論文を入手できたので。それと、実験体の研究データを纏めたので、ご確認下さい」
渡された封筒を開ける。分厚い紙の束は、確かに探していたものだった。
「……驚いた。よくまあ、うちなんかに回して貰えたねぇ」
「そこは蛇の道は蛇。色々とルートを駆使して」
「優秀な研究員がいて助かるよ」
「お褒めに預かり光栄です」
大規くんは一礼して、モニターにいくつかの資料を表示させる。実験体のデータが整理され、非常にわかりやすく纏まっていた。いつも通り、文句の付けようがない。
「問題がなければ、出力してお渡しします」
「うん。明日……もう今日か。午後、これを元に打ち合わせしよう」
「分かりました」
カチカチ、とマウスのクリック音が響いた後、印刷機が重い音を立てて起動する。
「……吸うんだね、煙草」
机の上の灰皿を触る。黒い円形の灰皿の中に、吸殻がふたつ。三分の一くらいの長さのものと、半分くらいの長さのもの。さっき咥えていたのは、後者の方だろうか。
「君から煙草の匂いなんてしたことなかったから、知らなかった」
大規くんの匂い。糊のきいた、清潔な白衣の匂い。薬品の匂い。それから。
(血の匂い)
「日常的に吸う訳では無いですからね。それに、……煙草の匂いは子供に毒だ」
「そりゃそうだ」
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