うらにわのこどもたち

深川夜

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うらにわのこどもたち

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 美しいものが好きだ。
 例えば、ドビュッシーの「二つのアラベスク」。バッハの「チェンバロ協奏曲」や、「無伴奏チェロ組曲」。
 鼓膜を震わせて脳で処理された音の集合体を、いささかの興奮と快感を持って、僕は美しいと判断し評価する。
 例えば、レンブラントやフェルメールの絵画。幾重にも塗り重ねられた絵具によって表現される光と闇。
 視神経を通じて脳で処理された集合体を、僕は息を呑んで見詰め、なんて美しいと賞賛する。
 外的刺激の処理結果は重要だ。正確には、処理結果によってもたらされる〝感情〟や〝感覚〟と表現すべき「それ」。
 美しいもの。心地よいもの。可能性を、感じるもの。可能性を、願ってやまないもの。
 人間の、まれに見せる利他的行動。自己犠牲。
 
 あれは数年前の冬だった。

 *
 
 珍しく、雪が降り積もった日だった。
 昨晩からしんしんと降り積もった雪は、朝には二十センチほどになっていただろうか。この辺りで二十センチの積雪といえば、一年に一度あるかないかのことだ。それでもなお降り続ける雪と鈍色の空を見て、所長が忌々しそうに暖房の温度を上げていたのを思い出す。
 そんな彼女の研究室の中に、僕は一人の少女を連れて立っていた。

「……何、
「研究所の前に立っていたので」

 季節に似つかわしくない程の薄着の少女は、雪に濡れてがたがたと震えている。繋いだ手が冷たい。あちこちが絡まったぼさぼさの髪で顔はよく見えないが、痩せた身体のあちこちに新旧の痣や傷痕が見え隠れしていた。

「いつから居たのかは分かりませんが、雪の上に大人の靴跡がうっすらと」
「誰かに置き去りにされたかも知れない、ってこと?」
「恐らくは」

 所長は口元に指を当て、一瞬考える素振りを見せたあと、少女の前にひざまずき、顔の辺りに目線を合わせた。

「君。名前言える?」
「……」
「名前。君はなんて呼ばれてた?」
「…………、あ、ぇ」
「他は? 、だけ?」
「………………こぇ」
「他は?」
「………………………………」

 少女は黙り込んでしまう。

 所長は無言で頷くと、ソファーから大きめのブランケットを持ってきて、少女の頭から被せた。それから、彼女の髪をかき分けて、顔を覗き込む。

大規おおきくん」
「はい」
実験体こどもたち用の乾いた服と、毛布何枚か持ってきて。バスタオルも。出来るだけ早く」

 淡々と指示する声は、少し低い。所長を見る。能面のような無表情。余裕ぶった普段の彼女とはまるで違う。その中で、彼女のリチア雲母のような瞳に複雑な光が宿る。怒っている、のだろうか。それとも、苛立っているのか。両方だろうか。

 少女に危害を加えたと推測される者に。
 少女を置き去りにした者に。それが許される社会に。

 もしくは。

(………………)

 それはともかく。

「承りました」

 うやうやしく一礼してきびすを返す。
 経験上、こういう時の彼女には逆らわない方がいい。

 *
 
 所長に言われた通り、乾いた服と何枚かの毛布、バスタオルを手に部屋に戻ると、彼女は少女をソファーに座らせ、飲み物を与えているようだった。室内にふわりと漂う甘い香りは、多分、ココアだろう。ブランケットを被ったままの少女がマグカップを落とさないよう、所長が少女の両手ごと、マグカップを包んでいる。どうぞ、と、持ってきたそれらを彼女に渡す。ん、とだけ答えて、彼女がそれを受け取る。

「じゃ大規くん、向こうむいてて」
「何故?」
白雪しらゆきを着替えさせるから」
「……白雪?」
「いいから向こうむいてな変態」

 辛辣しんらつな言葉を浴びせられて後ろを向く。背後で、かすかな衣擦きぬずれの音がした。

「それで、どうするんですか?」

 振り向かずに、所長に問う。

「そうだねぇ。とりあえず応急手当して温めて休ませて栄養摂らせて、それからきっちり外傷その他の治療をするかなぁ。あ、白雪の部屋を整えないと」
「此処に置くつもりですか? 警察に通報するべきでは」
「〝はこにわのこども〟にするつもりだけど。どうしたの? 警察なんか持ち出して。君にしては随分と〝普通の人〟みたいなこと言うじゃない」
「所長と一緒にしないで下さいよ。……研究対象にするのですか?」
「うーん、どうかなぁ……。でも、外の世界で生きていくより、うちに置いた方が、まだマシに生きていけると思うよ?」
「そうでしょうか……」

 呟いてから、もう一言、付け加える。


「彼女の保護者も、今頃後悔しているかも知れませんよ?」


「……は? 本気で言ってるの大規くん? 本気で? ばっかじゃないの?」


 僕の発言を所長はばっさりと切って捨てた。嘲笑と侮蔑ぶべつを隠そうともしない、苛立った声だった。

「後悔するような頭を持った奴が? わざわざ雪の日に! こんな薄着の痣だらけの子供を! こんな悪評だらけの建物の前に置き去りにするかね! それで後悔してるなら余っ程頭がお花畑なんでしょうよ! 置き去りにするにも他にあるでしょ養護施設とか児相とか!」

 部屋中の空気を、爆発した彼女の怒りが震わせる。軽い耳鳴りと目眩めまいをを覚える。それは、決して不快なものではない。むしろ感動すら覚えた。あまりに人間らしい感覚を、彼女が持ち合わせていたとは。そしてそれとは別に、頭の片隅で、ここの悪評については自覚あったんだな、と思う。
 彼女の言うことは正しい。非常に納得できる。理にかなった内容であると、僕の知識と経験は判断を下す。

「その怒りは、所長の倫理観や正義感から来るものですか? それとも、憐憫れんびんの情といったものでしょうか」

 純粋に、不思議に思った。彼女の反応は、理屈も理論も飛び越えて、〝感情〟が先にある。他人の、しかもたった今出会ったばかりの少女の為に、爆発させる感情など、僕は持ち合わせていない。普段は倫理や道徳とは遠い場所にいる癖に、彼女は時折、彼女の忌み嫌う〝普通の人〟よりもよっぽど正しい。
 人類という種の保存を支える一つの重要なツールとして、コミュニケーション能力が存在するのは理解出来る。共感性も同じだ。
 そして同時に、このどうしようもない社会で、脆弱な理論と理屈の上に存在する感情ほど、厄介なものはない。感情に帰結する理論など論外だ。しかし、それを振りかざす人間はあまりにも多い。そして、遅かれ早かれ、自滅の道を辿る。皮肉にも、人類は繁栄の結果による矛盾で自らの首を絞めている。
 ふと、想起される。自己を主張する事しか知らぬ、何と愚かな、醜い猿の群れ。意味を成さない鳴き声。あんなものは、言語ではない。あんなものは、人間ではない。あれらを人間と認めるのは、人間に対する冒涜だ。あれは。あれは。
 

 ――調和も何もない、只の雑音ノイズ
 

「貴女の怒りは、何処から発せられ、何に向けられたものですか?」


 返事は無い。僕も口を噤む。
 暖かい室内に、布の音だけが、響く。
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