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いつの間に二月終わったんだ?
番外編 ニケの宿
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・『ニケの宿』メンツです。
・ちょっとだけグロ描写があります。
・嘔吐描写も。
・ニケの宿を知らない人用の簡単説明。
ニケ 赤犬族。八歳児。しっかり者。黒髪赤目。可愛い。ほっぺ。幽霊苦手。可愛い。
フリー 人族。十八歳。監禁生活を送っていたので知らないことだらけ。白髪金緑目。でかい。ニケが好き。
キミカゲ 外見詐欺おじいちゃん。薬師。子ども好き。
温羅(うら) すごく強い。グロ描写が入ったのはこいつのせいです。鬼。戦闘狂。空気読める。
【夏の日の怖い話】
用事を全て済ませ、あとは眠るだけとなる。
布団はフリーが敷いてくれているはずなので、ニケは寝っ転がるだけで良し。この時間が一番好きだと言っても過言ではない。邪魔ものもおらず、まどろみの中フリーに好きなだけくっつける。
(だいたいフリーのやつが日中いないからだ)
むっと片頬を膨らませる。
仕事に行っているのだから仕方ないとはいえ、寂しいものは寂しい。翁の手伝いをしていなければ、時間が過ぎるはめちゃめちゃ遅く感じていただろう。その分、彼が帰ってきたときは飛び上がるほど嬉しいが顔には出さない。
(あやつが調子に乗るからな)
ふふんと「自制できてる自分かっこいい」と言った顔つきで戸を開ける。
「おい。布団は敷けたか――?」
中を除くと、布団の上で巨人が転がっていた。
就寝用の浴衣姿の青年で布団から足がはみ出ている。
ニケの目が据わる。
別に自分の布団の上で寝ているから怒っているのではない。掛け布団を抱き枕のように抱きしめていることがいけないのだ。
むすーっ。
「こら! 僕を抱きしめんかい。僕を」
掛け布団の分際で! そこは僕の特等席だぞ。許せん。
布団を引っ手繰る。八歳と十八歳。大人と子どもの綱引きだが、人族と獣人の間には埋められない能力差がある。それこそ不思議な力でも使わない限り、肉体能力で人族が獣人に勝てる要素はない。
白い睫毛が震え、金緑の瞳が開かれる。
「ん……? ニケ?」
「ニケ? じゃない! なにもう寝てるんだ」
布団は三組敷き終わっているのでいつ寝ても構わないのだが、ニケからすれば一緒に寝たい。それなのに先に寝ているなんて。
限界まで頬を膨らませ、地団太を踏む。半分寝ているような瞳が瞬きもしなくなったのでやめる。怖くなったとかではない。お、おお、翁の家で騒いだらいけないと思っただけだ!
「えへへ。ニケってばいつ見ても可愛いね」
翁の仕草を真似ているのだろうか、くすっと上品に微笑む。外見的には合ってるが性格的には似合わないぞその笑い方。
先に寝たこともあり、ニケの評価は厳しかった。
フリーはむくりと起き上がる。
「ごめんごめん。ニケの布団だー! ってついテンション上がっちゃって。寝ちゃったわ」
「お前さんが意味わからんのはいつものことだが……」
自分の布団に移ろうとする浴衣の帯をぐいっと引っ張る。それほど力を込めたつもりはなかったが、人間はあっさりニケの方へと転がってきた。
「……なんでしょう? ニケさん」
こんなことをやっているからフリーは受け身だけ上達してきた。以前はごんごん頭をぶつけていたのに。
上向きで倒れた白い顔を見下ろす。
「具合でも悪いのか?」
ぴとっと額に紅葉のような手を当てる。
獣人からすれば人族は障子紙のようなものだ。転んだだけで血が出るのだ。木から落ちたら死ぬかもしれない。
だから、気にかけてやるのは当然のことだ。僕は心配性じゃない。飼い主としての責務をだな……。
うだうだ考えながら手を離す。熱はなかった。それどころか、ちょっと冷たい気もする……気のせいか。
フリーは一度、瞬きする。
「いやいや。疲れただけだよ。今日は洗濯物の量が多かったからさあ……」
ふああと大きな欠伸をしている。口からは牙が覗くことはない。
洗濯屋は主人のディドールにリーン、フリーと三人だけだったが、温羅にアギュエルも加わった。アギュエルは洗濯屋の仕事が楽しいのかなんなのか。理由は分からないが、旅人気質の彼が旅に出る気配がない。
……人手が増えたのに仕事が楽にならないのは、こやつが戦力になっていないからだろうか。不安になってきた。一度仕事ぶりを見学しに行った方が良いか?
自分の布団に(今度こそ)戻ろうとするも、また帯を掴まれる。
「どうしましたか?」
「なんで一人で寝ようとするんだ?」
ニケの布団で横になると掛け布団を手繰り寄せる。身体を横にずらし布団を持ち上げ子ども一人分のスペースを空けると、尻尾を揺らしながらニケが入ってきた。
遠慮なくフリーの腕を枕にする。
「ふん。初めからそうすればいいんだ」
頬が上気して小さな手が浴衣を握りしめる。
初めからそうすればいいんだと言ってくれた。毎日やってると嫌がられるかなと思ったが、いらん心配だったようだ。
すっかり安心し、小さくてあたたかな身体をぎゅっと抱きしめる。
「えっへっへっ。可愛いなぁ。ニケ、だーいすき」
「……」
むにむにと頬ずりされる。
嬉しい。
家族を亡くしたニケに無償の愛情を注いでくれる者は、もういない。心の土台となるセメント、愛情を貰えずに、空の器を握っている状態だった。愛情を貰えずに育った子どもがどうなるか。
いずれしっかり者の仮面が壊れ、ニケは世界に憎しみを向けるようになっていた。それか、空の心を抱え、心の隙間をごみや他者を傷つけることで埋めようとしていただろう。
嬉しい。
構ってくれる。笑いかけてくれる。名前を呼んでくれる。一緒に寝てくれる。抱きしめてくれる。
フリーと血の繋がりはない。家族ではない。肉親ではない。心の隙間は埋まらない。はずなのに、どばどばとセメントという愛を流し込まれる。こんなのいらないと突っぱねても、孤独を受け入れられるほどニケは大人ではない。
つまり何が言いたいのかと言うと、
(もっと僕を見て。僕が言う前に構いに来て。話しかけて、僕に触れて。一人にしないで)
さらに愛情を貰おうと、フリーの浴衣の隙間。素肌が見えている部分に頬を押しつける。むむ。フリーのやつ、なんか今日はそんなにあったかくないな。フリーのにおいも、なんだか錆が混じったような、変なにおいがする。まあここ、色んなにおいがするしな。でもこんなにおいの薬草あったっけ?
よく分からずぐいぐいと押しつけるたびに、耳の先が顎をくすぐる。
それがなんかスイッチを押したらしかった。
「えへへへへへへ。ふにふにふわふわしてる……。かわいいなぁ~、がんわいいなああぁ~。赤ちゃんみたいで舐めちゃいたいよ~えへっへっへっへっへっ。ほっぺ、食べていい? お餅みたいな味がするのかな?」
翁の布団へ逃げた。
「なんで逃げるの⁉ ちょっと舐めるだけじゃん! ちょっとほっぺ舐めさせろおあああああ!」
「おぎにゃあああああっ(翁)」
隣の部屋から、明日の準備をしていたキミカゲの元にちっちゃい子が走ってくる。それを追うように蜘蛛男がどごんと戸にぶつかりながら踊り出る。蜘蛛男と化したフリーが妖怪にしか見えず、初見の翁は思わずお茶を吹いた。器用に四つん這いでこちらに迫ってくる。フリーだと分かっていても(本当にフリー君かな? とは思った)図体がでかいため、結構な迫力だった。
腰を抜かしそうだったがニケを抱いて外へ飛び出す。
「何事? 何事ッ⁉」
裸足で夜の街を走る。獲物を狙うように蜘蛛男が追いかけてくる。こういう怪談話あったよね。怖いちょっと怖いよ?
「どうしたの? 私何かしたかい?」
「……、すみません。僕が可愛いばかりに」
「……あ、ああ」
そういうことね。
私の体力では逃げ切れない。
進路を変えるととある場所を目指して懸命に駆ける。あんなん(蜘蛛男)を街人に見せるとトラウマになりかねない。早く鎮めなければ。
途中からニケも一緒になって走ると大きな影が見えた。月光浴をしながら素振りしている男。
「――温羅君。手を貸してえぇ」
「え? ……うわ」
血を煮込んだような眼がニケたちを見て嫌そうに細められる。鬼の本能が「絶対厄介ごとだ。逃げろ!」と囁くが、ちらっと見えた白い物体にエフエックスで有り金全て溶かした顔になった。
「どうせニケ殿が可愛いことしたんでしょう?」
「なんでわかったんだ?」
眼が冷める。
分かるわ。馬鹿にしとんのか。
温羅の横幅のある身体を盾にする老人と孫。山ほど言いたいことがあったが、今は飲み込んだ。
化け物が吠える。
「ニゲエエエェェえええええっ」
「……魔物は見たことありますが、妖怪と遭遇するのは初ですねぇ」
「鬼って妖怪じゃないのかい?」
うるせえぞ妖怪ジジイ。
立ち上がった妖怪……じゃなくて主と掴み合いになる。
「ううううう! 温羅さん。そこをどいてね? ニケをぺーろぺーろするもん」
「我が君。ちょっと落ち着きませんかね? ほら、ちびっ子が怖……」
なだめようとしたの……だが、戦闘したい欲がむくむくと湧き上がってきた。
鬼は歯茎までむき出しにしてごつい笑顔を作る。
「ハッハァ! 我が君がそこまで言うのなら仕方なし。相手をいたしましょう!」
フリーは特に何も言っていないが、テンションが上がった温羅はフリーを投げ飛ばす。
「あ、馬鹿」
ニケが声を上げ、温羅もハッとなった。身体強化をかけていないのだ。鬼の力で投げてばされただけで大怪我を追ってしまう。
だが、地面に叩きつけられる寸前でフリーの身体はふわりと抱きとめられた。
「……。……?」
おそるおそる目を開けると、小悪魔な笑みがあった。
誰よりも早く温羅が逃げ出す。鬼が好きなのはこういう修羅場(三角関係)ではない。迷いのない鬼の転身にキミカゲがあっけに取られている。
ニケの瞳が不機嫌一色に彩られる。
「またお前さんか。どっから湧いて出た」
「やあ――。黒饅頭わんこ。久しぶりじゃないか」
落ち着いた黒の着物ながら軽やかな熱帯魚を思わせるフリル。リボンとレースで飾られた甘ったるいヘッドドレスに、腰から生える蝙蝠の翼。
悪夢を食べてくれる夜の住人。
「イヤレス!」
フリーの驚愕が月夜に響く。
フリーを下ろし、にこっと片手を挙げる。
「久しぶりだね。僕のフ」
「ああああああんっ。あいちゃかっちゃあああああ(会いたかった)!」
押し倒す勢いで飛びついた。
「ちょ、痛い痛いって」
目を見開く少年をもぎゅうっと抱きしめるとそのままニケにも腕を伸ばす。
「む?」
引き寄せたニケごとぎゅうぎゅうに抱きしめる。
「ああああ~。あうううううん。へっへっへっ。よだれ出てきた。甘いにおいがする~。ぎゅへへっぎゅへへへっ」
少し離れたところでキミカゲが維持隊に「大丈夫です。いい子なんです。不審者じゃないです」と弁明してくれていた。
「ニケぺーろぺーろ。えへっへっへへ。がんわいいね~。すべすべ~」
「……うーん」
あったかくない舌が頬を舐める。別にいいのだが横にいる存在が気になって素直に幸せに浸れない。
横にいる存在、イヤレスが拗ねたようにぽかぽかと白い胸元を叩く。
「ちょっと! 僕を無視しないで」
ぎらっと金緑の目がこっちを向いた。胸を叩く手が止まる。
「無視してないよ~? 覚えてるよイヤレスううううう! 俺に会いに来てくれたんでしょおおおおお?」
きゅっと心臓が縮んだ。幽霊絵巻を凌駕する気色悪……迫力たっぷりの笑みに、つい不倶戴天の敵同士で手を握り合う。
「会いたかったよ。もう逃がさないよ? 持ち帰って居間にでも飾っておくううううう。絶対に離さないいいいィィイイイ!」
「「……」」
なんだかフリーが別のものに変化しそうだ。何かないか! フリーのテンションを下げられるもの。苦手なもの嫌いなもの!
(そうだ! 毛虫……今いないっ)
万策尽きた(早)。そもそもこやつは誰かを嫌いになったりしない性分だ。逆にこやつに嫌われるのは難しい。ごみを投げつけられても怒りゃしないのだ。毛虫とヒスイくらいしか思いつかな……もう一個あった。甘い物!
ひそひそとイヤレスに話しかける。話しかけたくもないが我慢だ。
「おい。何か甘いものを持ってないか?」
「ふえ? な、何言ってるの?」
耐性がないのか蝙蝠少年は歯をカチカチ鳴らし、腰を抜かしている。僕も最初の頃はそうだったな。
「いいから!」
「……う? え、ええと。薔薇ゼリーなら、あっ」
宝石のようにころんとした甘味を握りしめる。紫陽花ゼリーの親戚の甘味をフリーの口に押し込んだ。
「むぐっ? ……? もぐもぐ。う、なにこれ……あまい……」
うへえと舌を出す。二人を抱きしめている腕の力が緩む。
「甘いものより、ニケのお手々を食べたいよおおおおお。さっきの勢いで手を口に突っ込んできてよおおおおお」
大口を開けた妖怪の腕から、ニケとイヤレスは同時に駆け出した。翁を連れて帰り、急いで戸を閉める。
耐久度は不安しかないがくすりばこに籠城する。
すぐにどんどんどんっと、戸を叩く音が真っ暗な室内に響いた。
『あああああけえええええてえええええ』
机にぶつかりながらキミカゲは思わずニケを抱きしめる。
「……はわわ。そ、外にいるの、フリー君、だよね?」
「多分」
イヤレスは暗闇でも関係ないのか、そそくさと白衣にしがみつく。
「ううっ。なんてことだ。僕のフロリアが妖怪化してるなんて……」
十歳ほどの少年に、キミカゲは笑顔で振り返る。
「そういえば、君は?」
「あ、お邪魔してます。夢蝙蝠族のイヤレスと申します。フロリアの彼氏です」
カーン! どこかでゴングの音が鳴った。
「翁! そやつは敵です。心を許してはいけませんよ」
「え?」
「はあー? なーに言っちゃってんの、短足わんこ。フロリアと最初に出会ったのは僕なんだから。ぽっと出がでかい顔しないでよ」
いらっとニケの瞳が燃える。
「そんなん関係ないわ! フリーと誰よりも長く過ごしているのは僕だ。帰れ。しっしっ」
「それこそ関係ないね。どうせ君、フロリアの中ではペット枠でしょ? 勝負にもならないよ」
「ああん? ペットはあやつだ。飼い主は僕だ」
「はあー? そんな風にフロリアのこと思ってたの? 非常識でしょ」
「黙れ。ハーレム野郎」
「私を挟んで喧嘩しないでえぇ……」
もちもちに挟まれ、嬉しいのか何なのか。ただ、羨ましい気配を感じ取った表の妖怪が活性化する。
『あけて? 俺だよ? 怖くないよ? キミカゲさん……? いるんでしょ?』
「……」
カリカリカリカリと誰かが戸を引っ掻いているような音がする。
あれ? 私は何と居候していたんだっけ?
ひとまず落ち着かせて……
「誰かいるの?」
寝室の戸が開く。顔を出したのはフリーだった。
「「「……」」」
「……? 暗くて見えないんですけど、誰かいます? 十歳くらいの子が」
人族の視力では闇一色なはずなのに、正確に十歳くらいの子がいることに勘づいた。って、そんなことより。
「……フリー、君?」
声が聞こえてホッとしたのか、フリーはほっとした優しい笑みを見せる。
「急患ですか? 俺に出来ることあります?」
手伝ってくれる気のようだ。この優しい心はまさしくフリーだ。……フリーならさっき一緒に……
「……」
三人はそろって出入り口の方へ顔を向ける。あれだけ喧しかった戸を叩く音が、今は静かだ。赤犬族の嗅覚聴覚を以てしても気配は捕らえられない。煙のように消えたかの如く。
ニケはそろそろとフリーを見上げる。
「フリー? い、今までどこに居たんだ?」
「あ、ニケ」
嬉しそうな声がする。
「どこって、厠へ行くって言ったじゃん? 戻ってきても誰もいないから寝ようかなと思ったけど、やっぱニケを待とうと思って」
そうだよな。お前さんが僕を置いて先に寝るはずがないものな……
ゾッとした。
完全に恐怖で固まってしまった子どもたち。唯一まだ腰を抜かしていなかったキミカゲは素早く行灯を探し出し、火打石で明かりをともす。おじいちゃんだって怖いものはある。
ぼんやりオレンジの灯りに照らされる。
「! イヤレス」
呆然としていた少年だが、駆け寄ってきたフリーに我に返る。
「や、やあ。僕を覚えているかな?」
「え? え! イヤレス……? イヤレスだよね? 嘘。な、なんで……? 夢……?」
目線を合わせてしゃがむフリーの瞳に涙が滲む。笑顔が歪み、声が震えてしまう。
「あ、会いたかった。夢でも、夢だとしても、っ、嬉しいよ……」
「……」
泣きそうなフリーに、ニケはしょうがないなと見守ってやることにする。本当は怒りたいんだぞ。
イヤレスは子どもをあやすようにフリーの背中に手を回す。
「……なんか怪奇現象が起こってた気がするけど。僕も会いたかったよ。フロリア」
「イヤレス。元気だった?」
フリーも抱きしめ返してくれる。
でもすぐに肩を掴んで華奢な身体を引き剥がす。名残惜しそうに眉を八の字に下げる。
「フロリア……もっと抱きしめてよ」
「良かったらさ。俺のことフリーって呼んでよ。愛したヒトには、そう呼んでほしい」
金緑の瞳から透明な滴が流れる。それは美しかった。美しいものを見慣れているはずのイヤレスが一瞬、見惚れてしまう。
照れたように顔を伏せる。
「ど、どうしよっかな?」
「無理にとは言わないよ。それでどうして紅葉街に?」
「フリー君。ごめんね待って。聞きたいことたくさんあるんだろうけど、ちょっと確認しておかなきゃいけないことが」
申し訳なさそうに、でも力強く割って入ってくるキミカゲに、フリーは腕まくりをする。
「あ、そうですね。急患でしたっけ? 俺も頑張りますよ」
まだ急患と勘違いしているフリーが出入り口へ向かう。
「お、おい! 待っ」
「え?」
がらっ
ニケが止めるより先に戸を開けてしまう。
そこにヒトが立っていた。
それはもはやフリーではなかった。髪色や着物の色はそのままだが顔つきがまるで別人。
眼球は左右別の方角を向き、口は不気味に吊り上がっているのにまったく笑っている感じはしない。首は不自然な方へ曲がり、全身を小刻みに揺らしてケタケタ声を発している。
「「―――ッ」」
声にならない絶叫を上げ、涙を浮かべた子どもたちがキミカゲにしがみつく。
蝙蝠野郎。あああ、悪夢処理班のくくく、くせにお化け怖いのか! わわわ、わんこだって。済ました顔してるくせに、お化け怖いなんてわら、笑っちゃうね!
怖がりながらもテレパシーで喧嘩する二人。
唖然としているフリーに、それは襲い掛かった。獣の鳴き声のようなものを出し、フリーの首を両手で掴むと押し倒す。
「ぐっ」
『ああああああぁぁぁああああ』
ぎしぎしと喉を締め上げる。フリーの顔色がどんどん悪くなっていく。
「なにするんだ!」
赤熱する怒りが恐怖を押しのける。ニケはお化けに飛び掛かるが、
「ニケ君! 駄目」
『ぁぁぁああああああぁぁ』
「それ」の首がろくろ首のように伸びたかと思うと鞭のようにしなり、ニケを弾き飛ばす。
「きゅっ」
だが小さな身体が壁に激突する寸前、滑り込んだイヤレスがさっきのように抱きとめる。が、威力が大きかったのか背をどかんとぶつけてしまう。
「……うっ」
「蝙蝠野郎!」
「危ない!」
キミカゲが少年たちに覆いかぶさる。剣山のような針牙をびっしり生やした口がキミカゲの背を食い破ろうと迫った。
「――いや、貴様。我が君じゃなかったんですかい?」
うぷぷと笑うのを堪えるような声。
間一髪で、それは間に合った。
ろくろ首が振り向くより速く、鬼の拳が振るわれる。
『あ?』
顔を思いっきり殴られ流星のように飛んだお化けはキミカゲの背中上を通り過ぎ炊事場の壁を突き破り、裏庭の木にぶつかった。
『…………あ? あぁ……』
雨のように木の葉が舞い散り、熟睡していた毛虫たちも目を丸くしてぼとぼとと落ちる。
舌をだらりと出し、毛虫と木の葉まみれになったそれは動かなくなる。
「……」
呆然とそれを見ていたが激しい咳が聞こえ、すぐに全員がフリーに駆け寄る。
「おい! フリー」
「フロリア。大丈夫?」
「フリー君」
喉を押さえ咳き込む白い背中を摩る。喉仏を力一杯押し込まれたせいか、びちゃびちゃと戻していた。
「フリー!」
「……っか、あぁ……」
顎を撫でつつ、鬼はのんきにフリーの背中を見つめる。
「うーん。えずいている我が君は色っぽいですねぇ。ちょっと味見を……」
ニケは炎樹の机で、キミカゲは三段薬箱でどかどか温羅を殴る。
イヤレスはちょっと状況が呑み込めない顔で、それでもフリーの顔を覗き込む。
「えっと。大丈夫、かい? 声、出せる……?」
あまり他人を心配したことがないのか、慣れてなさそうな声色だったがフリーは無理矢理笑みを作る。
「ん……げほげほっ」
「あ、無理に喋らなくていいよ。ちょっと! 鬼殴ってる暇があるなら医者呼んでよ」
おじいちゃんはすぐに戻ってきた。
「私です」
「あ、そうなの?」
「ニケ君。フリー君を布団に運んで」
「はい!」
診察を終えるとキミカゲは肺の空気を全部吐いた。
「はあー……。喉がやられてるね。フリー君だから治るのに時間かかるけど、治るからね?」
ニケが泣きそうな顔になったので胸を張って治ると断言してやる。不安を取り除くのも役目であるし、もし治らなくても意地でも治す。
涙を堪え、幼子はうんっと頷く。
泣いてもいいのに。我慢しないでほしい。
手元が見えないので家にある行灯すべてに火を点した。ううん。これでもまだ暗いね。誰かアキチカ呼んでほしいよ。
苦しそうに目を閉じているフリー。その顔を覗き込んでいる夢蝙蝠族に目線を移す。
「それと、イヤレス君……だったかな? 背中、大丈夫かい? 見せてごらん」
「大丈夫さ。このくらい。もう痛くないからね」
「羽を痛めていたら大変だ。見せてごらん」
「え? ……あ、う、うん」
「見せる」を選択しない限りずっとこのやり取りが続くと本能で察したのだろう、素直に帯を緩め背中を晒す。
「羽に触るよ?」
「どうぞー」
ニケは気まずそうにとことことイヤレスの前に回る。
ぺこっと、気持ち頭を下げた。
「……さっきは、助かった。ありがとう」
「君に礼を言われると寒気がするよ。……でも礼はいらないよ。君はフロリアの大事なヒト、だからね」
色の濃さが違う瞳がフリーを一瞥する。
「フロリアを悲しませたくないしさ」
「……」
赤い瞳を見開き、だが何も言わなかった。もごもごと口ごもるとフリーの横に歩いていく。
イヤレスはからかうようにくすっとほほ笑む。
「ちゃんとお礼が言えるなんて、偉いじゃないか」
「ふん!」
「ニケ君は? 怪我はない?」
「大丈夫で――」
待て。うかつに大丈夫と言うな。身体のあちこちをぺたぺたと触る。あれの牙は針のようだったがニケに傷一つない。運よく牙が帯の護り刀に当たったようだ。帯の一部が裂けている。
「帯が……。でも僕に怪我はないです」
「うんうん。何よりだよ。帯はあとで、アップリケでも塗ってあげようね」
「かっこいいやつにしてくださいね」
先手を打っておかないと、可愛いのにされたら照れる。
キミカゲはにこっと微笑んで頷く。
「そうだね。そういえば、温羅君は?」
「帰ったんじゃないですか? 気まぐれな奴ですし……」
すんすんと鼻を動かす。裏庭の方からあの鬼のにおいがする。驚きだ。まだ居たのか。お化けを見張っているのだろうか? あやつはそんな勤勉ではないぞ。
「ちょっと見てきます」
「危ないよ! ここにいなさい」
「ちょっとだけですから」
もし万が一。温羅がお化けにやられている可能性もある。なるべく足音を消し、壁からそろっと顔を出す。
ぐちゃっ、ぐちゃっ。ばきっ、がりごり。
「……何の音だ?」
口の中で呟き小さい文字を見るかのように目を細める。暗いが、月明りもあるしなんとか見通せる。
――見るんじゃなかったと、後悔した。
ばらばらになったお化けを、温羅が食べていたのだ。
「!」
うぷっと口を押さえる。曲がりなりにもフリーに似た肢体が。捕食されている。
たまらず翁の元へ走った。
「うえええええん!」
「ニケ君? ど、どうしたの?」
白衣を掴み顔を押しつける。
「うびゃああああああっ!」
フリーと間違い抱きついただけじゃなく、あんなグロイ場面まで。フリーは幻影族を見破り、鈴音族にまで気づけるのに。僕ときたら。
色んな感情が混ざり、涙が止まらない。顔を真っ赤にし大声を出す。
「びゃああああああん」
「ニケ君。おお、よしよし」
尋常ではないニケの様子に一旦治療の手を止めて、彼を抱きしめる。
「……どうしたの? わんこ」
胡乱な目をするイヤレスも見に行こうとしたが、嫌な予感がしたキミカゲとニケが全力で止めた。
せっかく止めたのに、向こうから来た。
「何事ですかい?」
口の周りを血で汚し、片手に生首と喰いかけの腕をぶら下げた赤毛の鬼。
「「あ、ああああああああびゃああああ!」」
跳び上がり抱き合うニケとイヤレス。視界を妨げるように彼らの前に移動する。
「こら! そんなもの持ってくるんじゃないの。めっ」
「……ははあ。我が君の気の抜ける叱り方は、アンタを真似たものでしたか」
ずんずんと温羅が距離を詰めてくる。骨付き肉を持ったまま。
人族の次に弱いキミカゲではどうしようもできない。ただ後ろを庇うように両腕を広げる。
泣く子どもたちに怯えた表情の薬師。
鬼は気分よくニヤリと笑ってみせる、が――
・ちょっとだけグロ描写があります。
・嘔吐描写も。
・ニケの宿を知らない人用の簡単説明。
ニケ 赤犬族。八歳児。しっかり者。黒髪赤目。可愛い。ほっぺ。幽霊苦手。可愛い。
フリー 人族。十八歳。監禁生活を送っていたので知らないことだらけ。白髪金緑目。でかい。ニケが好き。
キミカゲ 外見詐欺おじいちゃん。薬師。子ども好き。
温羅(うら) すごく強い。グロ描写が入ったのはこいつのせいです。鬼。戦闘狂。空気読める。
【夏の日の怖い話】
用事を全て済ませ、あとは眠るだけとなる。
布団はフリーが敷いてくれているはずなので、ニケは寝っ転がるだけで良し。この時間が一番好きだと言っても過言ではない。邪魔ものもおらず、まどろみの中フリーに好きなだけくっつける。
(だいたいフリーのやつが日中いないからだ)
むっと片頬を膨らませる。
仕事に行っているのだから仕方ないとはいえ、寂しいものは寂しい。翁の手伝いをしていなければ、時間が過ぎるはめちゃめちゃ遅く感じていただろう。その分、彼が帰ってきたときは飛び上がるほど嬉しいが顔には出さない。
(あやつが調子に乗るからな)
ふふんと「自制できてる自分かっこいい」と言った顔つきで戸を開ける。
「おい。布団は敷けたか――?」
中を除くと、布団の上で巨人が転がっていた。
就寝用の浴衣姿の青年で布団から足がはみ出ている。
ニケの目が据わる。
別に自分の布団の上で寝ているから怒っているのではない。掛け布団を抱き枕のように抱きしめていることがいけないのだ。
むすーっ。
「こら! 僕を抱きしめんかい。僕を」
掛け布団の分際で! そこは僕の特等席だぞ。許せん。
布団を引っ手繰る。八歳と十八歳。大人と子どもの綱引きだが、人族と獣人の間には埋められない能力差がある。それこそ不思議な力でも使わない限り、肉体能力で人族が獣人に勝てる要素はない。
白い睫毛が震え、金緑の瞳が開かれる。
「ん……? ニケ?」
「ニケ? じゃない! なにもう寝てるんだ」
布団は三組敷き終わっているのでいつ寝ても構わないのだが、ニケからすれば一緒に寝たい。それなのに先に寝ているなんて。
限界まで頬を膨らませ、地団太を踏む。半分寝ているような瞳が瞬きもしなくなったのでやめる。怖くなったとかではない。お、おお、翁の家で騒いだらいけないと思っただけだ!
「えへへ。ニケってばいつ見ても可愛いね」
翁の仕草を真似ているのだろうか、くすっと上品に微笑む。外見的には合ってるが性格的には似合わないぞその笑い方。
先に寝たこともあり、ニケの評価は厳しかった。
フリーはむくりと起き上がる。
「ごめんごめん。ニケの布団だー! ってついテンション上がっちゃって。寝ちゃったわ」
「お前さんが意味わからんのはいつものことだが……」
自分の布団に移ろうとする浴衣の帯をぐいっと引っ張る。それほど力を込めたつもりはなかったが、人間はあっさりニケの方へと転がってきた。
「……なんでしょう? ニケさん」
こんなことをやっているからフリーは受け身だけ上達してきた。以前はごんごん頭をぶつけていたのに。
上向きで倒れた白い顔を見下ろす。
「具合でも悪いのか?」
ぴとっと額に紅葉のような手を当てる。
獣人からすれば人族は障子紙のようなものだ。転んだだけで血が出るのだ。木から落ちたら死ぬかもしれない。
だから、気にかけてやるのは当然のことだ。僕は心配性じゃない。飼い主としての責務をだな……。
うだうだ考えながら手を離す。熱はなかった。それどころか、ちょっと冷たい気もする……気のせいか。
フリーは一度、瞬きする。
「いやいや。疲れただけだよ。今日は洗濯物の量が多かったからさあ……」
ふああと大きな欠伸をしている。口からは牙が覗くことはない。
洗濯屋は主人のディドールにリーン、フリーと三人だけだったが、温羅にアギュエルも加わった。アギュエルは洗濯屋の仕事が楽しいのかなんなのか。理由は分からないが、旅人気質の彼が旅に出る気配がない。
……人手が増えたのに仕事が楽にならないのは、こやつが戦力になっていないからだろうか。不安になってきた。一度仕事ぶりを見学しに行った方が良いか?
自分の布団に(今度こそ)戻ろうとするも、また帯を掴まれる。
「どうしましたか?」
「なんで一人で寝ようとするんだ?」
ニケの布団で横になると掛け布団を手繰り寄せる。身体を横にずらし布団を持ち上げ子ども一人分のスペースを空けると、尻尾を揺らしながらニケが入ってきた。
遠慮なくフリーの腕を枕にする。
「ふん。初めからそうすればいいんだ」
頬が上気して小さな手が浴衣を握りしめる。
初めからそうすればいいんだと言ってくれた。毎日やってると嫌がられるかなと思ったが、いらん心配だったようだ。
すっかり安心し、小さくてあたたかな身体をぎゅっと抱きしめる。
「えっへっへっ。可愛いなぁ。ニケ、だーいすき」
「……」
むにむにと頬ずりされる。
嬉しい。
家族を亡くしたニケに無償の愛情を注いでくれる者は、もういない。心の土台となるセメント、愛情を貰えずに、空の器を握っている状態だった。愛情を貰えずに育った子どもがどうなるか。
いずれしっかり者の仮面が壊れ、ニケは世界に憎しみを向けるようになっていた。それか、空の心を抱え、心の隙間をごみや他者を傷つけることで埋めようとしていただろう。
嬉しい。
構ってくれる。笑いかけてくれる。名前を呼んでくれる。一緒に寝てくれる。抱きしめてくれる。
フリーと血の繋がりはない。家族ではない。肉親ではない。心の隙間は埋まらない。はずなのに、どばどばとセメントという愛を流し込まれる。こんなのいらないと突っぱねても、孤独を受け入れられるほどニケは大人ではない。
つまり何が言いたいのかと言うと、
(もっと僕を見て。僕が言う前に構いに来て。話しかけて、僕に触れて。一人にしないで)
さらに愛情を貰おうと、フリーの浴衣の隙間。素肌が見えている部分に頬を押しつける。むむ。フリーのやつ、なんか今日はそんなにあったかくないな。フリーのにおいも、なんだか錆が混じったような、変なにおいがする。まあここ、色んなにおいがするしな。でもこんなにおいの薬草あったっけ?
よく分からずぐいぐいと押しつけるたびに、耳の先が顎をくすぐる。
それがなんかスイッチを押したらしかった。
「えへへへへへへ。ふにふにふわふわしてる……。かわいいなぁ~、がんわいいなああぁ~。赤ちゃんみたいで舐めちゃいたいよ~えへっへっへっへっへっ。ほっぺ、食べていい? お餅みたいな味がするのかな?」
翁の布団へ逃げた。
「なんで逃げるの⁉ ちょっと舐めるだけじゃん! ちょっとほっぺ舐めさせろおあああああ!」
「おぎにゃあああああっ(翁)」
隣の部屋から、明日の準備をしていたキミカゲの元にちっちゃい子が走ってくる。それを追うように蜘蛛男がどごんと戸にぶつかりながら踊り出る。蜘蛛男と化したフリーが妖怪にしか見えず、初見の翁は思わずお茶を吹いた。器用に四つん這いでこちらに迫ってくる。フリーだと分かっていても(本当にフリー君かな? とは思った)図体がでかいため、結構な迫力だった。
腰を抜かしそうだったがニケを抱いて外へ飛び出す。
「何事? 何事ッ⁉」
裸足で夜の街を走る。獲物を狙うように蜘蛛男が追いかけてくる。こういう怪談話あったよね。怖いちょっと怖いよ?
「どうしたの? 私何かしたかい?」
「……、すみません。僕が可愛いばかりに」
「……あ、ああ」
そういうことね。
私の体力では逃げ切れない。
進路を変えるととある場所を目指して懸命に駆ける。あんなん(蜘蛛男)を街人に見せるとトラウマになりかねない。早く鎮めなければ。
途中からニケも一緒になって走ると大きな影が見えた。月光浴をしながら素振りしている男。
「――温羅君。手を貸してえぇ」
「え? ……うわ」
血を煮込んだような眼がニケたちを見て嫌そうに細められる。鬼の本能が「絶対厄介ごとだ。逃げろ!」と囁くが、ちらっと見えた白い物体にエフエックスで有り金全て溶かした顔になった。
「どうせニケ殿が可愛いことしたんでしょう?」
「なんでわかったんだ?」
眼が冷める。
分かるわ。馬鹿にしとんのか。
温羅の横幅のある身体を盾にする老人と孫。山ほど言いたいことがあったが、今は飲み込んだ。
化け物が吠える。
「ニゲエエエェェえええええっ」
「……魔物は見たことありますが、妖怪と遭遇するのは初ですねぇ」
「鬼って妖怪じゃないのかい?」
うるせえぞ妖怪ジジイ。
立ち上がった妖怪……じゃなくて主と掴み合いになる。
「ううううう! 温羅さん。そこをどいてね? ニケをぺーろぺーろするもん」
「我が君。ちょっと落ち着きませんかね? ほら、ちびっ子が怖……」
なだめようとしたの……だが、戦闘したい欲がむくむくと湧き上がってきた。
鬼は歯茎までむき出しにしてごつい笑顔を作る。
「ハッハァ! 我が君がそこまで言うのなら仕方なし。相手をいたしましょう!」
フリーは特に何も言っていないが、テンションが上がった温羅はフリーを投げ飛ばす。
「あ、馬鹿」
ニケが声を上げ、温羅もハッとなった。身体強化をかけていないのだ。鬼の力で投げてばされただけで大怪我を追ってしまう。
だが、地面に叩きつけられる寸前でフリーの身体はふわりと抱きとめられた。
「……。……?」
おそるおそる目を開けると、小悪魔な笑みがあった。
誰よりも早く温羅が逃げ出す。鬼が好きなのはこういう修羅場(三角関係)ではない。迷いのない鬼の転身にキミカゲがあっけに取られている。
ニケの瞳が不機嫌一色に彩られる。
「またお前さんか。どっから湧いて出た」
「やあ――。黒饅頭わんこ。久しぶりじゃないか」
落ち着いた黒の着物ながら軽やかな熱帯魚を思わせるフリル。リボンとレースで飾られた甘ったるいヘッドドレスに、腰から生える蝙蝠の翼。
悪夢を食べてくれる夜の住人。
「イヤレス!」
フリーの驚愕が月夜に響く。
フリーを下ろし、にこっと片手を挙げる。
「久しぶりだね。僕のフ」
「ああああああんっ。あいちゃかっちゃあああああ(会いたかった)!」
押し倒す勢いで飛びついた。
「ちょ、痛い痛いって」
目を見開く少年をもぎゅうっと抱きしめるとそのままニケにも腕を伸ばす。
「む?」
引き寄せたニケごとぎゅうぎゅうに抱きしめる。
「ああああ~。あうううううん。へっへっへっ。よだれ出てきた。甘いにおいがする~。ぎゅへへっぎゅへへへっ」
少し離れたところでキミカゲが維持隊に「大丈夫です。いい子なんです。不審者じゃないです」と弁明してくれていた。
「ニケぺーろぺーろ。えへっへっへへ。がんわいいね~。すべすべ~」
「……うーん」
あったかくない舌が頬を舐める。別にいいのだが横にいる存在が気になって素直に幸せに浸れない。
横にいる存在、イヤレスが拗ねたようにぽかぽかと白い胸元を叩く。
「ちょっと! 僕を無視しないで」
ぎらっと金緑の目がこっちを向いた。胸を叩く手が止まる。
「無視してないよ~? 覚えてるよイヤレスううううう! 俺に会いに来てくれたんでしょおおおおお?」
きゅっと心臓が縮んだ。幽霊絵巻を凌駕する気色悪……迫力たっぷりの笑みに、つい不倶戴天の敵同士で手を握り合う。
「会いたかったよ。もう逃がさないよ? 持ち帰って居間にでも飾っておくううううう。絶対に離さないいいいィィイイイ!」
「「……」」
なんだかフリーが別のものに変化しそうだ。何かないか! フリーのテンションを下げられるもの。苦手なもの嫌いなもの!
(そうだ! 毛虫……今いないっ)
万策尽きた(早)。そもそもこやつは誰かを嫌いになったりしない性分だ。逆にこやつに嫌われるのは難しい。ごみを投げつけられても怒りゃしないのだ。毛虫とヒスイくらいしか思いつかな……もう一個あった。甘い物!
ひそひそとイヤレスに話しかける。話しかけたくもないが我慢だ。
「おい。何か甘いものを持ってないか?」
「ふえ? な、何言ってるの?」
耐性がないのか蝙蝠少年は歯をカチカチ鳴らし、腰を抜かしている。僕も最初の頃はそうだったな。
「いいから!」
「……う? え、ええと。薔薇ゼリーなら、あっ」
宝石のようにころんとした甘味を握りしめる。紫陽花ゼリーの親戚の甘味をフリーの口に押し込んだ。
「むぐっ? ……? もぐもぐ。う、なにこれ……あまい……」
うへえと舌を出す。二人を抱きしめている腕の力が緩む。
「甘いものより、ニケのお手々を食べたいよおおおおお。さっきの勢いで手を口に突っ込んできてよおおおおお」
大口を開けた妖怪の腕から、ニケとイヤレスは同時に駆け出した。翁を連れて帰り、急いで戸を閉める。
耐久度は不安しかないがくすりばこに籠城する。
すぐにどんどんどんっと、戸を叩く音が真っ暗な室内に響いた。
『あああああけえええええてえええええ』
机にぶつかりながらキミカゲは思わずニケを抱きしめる。
「……はわわ。そ、外にいるの、フリー君、だよね?」
「多分」
イヤレスは暗闇でも関係ないのか、そそくさと白衣にしがみつく。
「ううっ。なんてことだ。僕のフロリアが妖怪化してるなんて……」
十歳ほどの少年に、キミカゲは笑顔で振り返る。
「そういえば、君は?」
「あ、お邪魔してます。夢蝙蝠族のイヤレスと申します。フロリアの彼氏です」
カーン! どこかでゴングの音が鳴った。
「翁! そやつは敵です。心を許してはいけませんよ」
「え?」
「はあー? なーに言っちゃってんの、短足わんこ。フロリアと最初に出会ったのは僕なんだから。ぽっと出がでかい顔しないでよ」
いらっとニケの瞳が燃える。
「そんなん関係ないわ! フリーと誰よりも長く過ごしているのは僕だ。帰れ。しっしっ」
「それこそ関係ないね。どうせ君、フロリアの中ではペット枠でしょ? 勝負にもならないよ」
「ああん? ペットはあやつだ。飼い主は僕だ」
「はあー? そんな風にフロリアのこと思ってたの? 非常識でしょ」
「黙れ。ハーレム野郎」
「私を挟んで喧嘩しないでえぇ……」
もちもちに挟まれ、嬉しいのか何なのか。ただ、羨ましい気配を感じ取った表の妖怪が活性化する。
『あけて? 俺だよ? 怖くないよ? キミカゲさん……? いるんでしょ?』
「……」
カリカリカリカリと誰かが戸を引っ掻いているような音がする。
あれ? 私は何と居候していたんだっけ?
ひとまず落ち着かせて……
「誰かいるの?」
寝室の戸が開く。顔を出したのはフリーだった。
「「「……」」」
「……? 暗くて見えないんですけど、誰かいます? 十歳くらいの子が」
人族の視力では闇一色なはずなのに、正確に十歳くらいの子がいることに勘づいた。って、そんなことより。
「……フリー、君?」
声が聞こえてホッとしたのか、フリーはほっとした優しい笑みを見せる。
「急患ですか? 俺に出来ることあります?」
手伝ってくれる気のようだ。この優しい心はまさしくフリーだ。……フリーならさっき一緒に……
「……」
三人はそろって出入り口の方へ顔を向ける。あれだけ喧しかった戸を叩く音が、今は静かだ。赤犬族の嗅覚聴覚を以てしても気配は捕らえられない。煙のように消えたかの如く。
ニケはそろそろとフリーを見上げる。
「フリー? い、今までどこに居たんだ?」
「あ、ニケ」
嬉しそうな声がする。
「どこって、厠へ行くって言ったじゃん? 戻ってきても誰もいないから寝ようかなと思ったけど、やっぱニケを待とうと思って」
そうだよな。お前さんが僕を置いて先に寝るはずがないものな……
ゾッとした。
完全に恐怖で固まってしまった子どもたち。唯一まだ腰を抜かしていなかったキミカゲは素早く行灯を探し出し、火打石で明かりをともす。おじいちゃんだって怖いものはある。
ぼんやりオレンジの灯りに照らされる。
「! イヤレス」
呆然としていた少年だが、駆け寄ってきたフリーに我に返る。
「や、やあ。僕を覚えているかな?」
「え? え! イヤレス……? イヤレスだよね? 嘘。な、なんで……? 夢……?」
目線を合わせてしゃがむフリーの瞳に涙が滲む。笑顔が歪み、声が震えてしまう。
「あ、会いたかった。夢でも、夢だとしても、っ、嬉しいよ……」
「……」
泣きそうなフリーに、ニケはしょうがないなと見守ってやることにする。本当は怒りたいんだぞ。
イヤレスは子どもをあやすようにフリーの背中に手を回す。
「……なんか怪奇現象が起こってた気がするけど。僕も会いたかったよ。フロリア」
「イヤレス。元気だった?」
フリーも抱きしめ返してくれる。
でもすぐに肩を掴んで華奢な身体を引き剥がす。名残惜しそうに眉を八の字に下げる。
「フロリア……もっと抱きしめてよ」
「良かったらさ。俺のことフリーって呼んでよ。愛したヒトには、そう呼んでほしい」
金緑の瞳から透明な滴が流れる。それは美しかった。美しいものを見慣れているはずのイヤレスが一瞬、見惚れてしまう。
照れたように顔を伏せる。
「ど、どうしよっかな?」
「無理にとは言わないよ。それでどうして紅葉街に?」
「フリー君。ごめんね待って。聞きたいことたくさんあるんだろうけど、ちょっと確認しておかなきゃいけないことが」
申し訳なさそうに、でも力強く割って入ってくるキミカゲに、フリーは腕まくりをする。
「あ、そうですね。急患でしたっけ? 俺も頑張りますよ」
まだ急患と勘違いしているフリーが出入り口へ向かう。
「お、おい! 待っ」
「え?」
がらっ
ニケが止めるより先に戸を開けてしまう。
そこにヒトが立っていた。
それはもはやフリーではなかった。髪色や着物の色はそのままだが顔つきがまるで別人。
眼球は左右別の方角を向き、口は不気味に吊り上がっているのにまったく笑っている感じはしない。首は不自然な方へ曲がり、全身を小刻みに揺らしてケタケタ声を発している。
「「―――ッ」」
声にならない絶叫を上げ、涙を浮かべた子どもたちがキミカゲにしがみつく。
蝙蝠野郎。あああ、悪夢処理班のくくく、くせにお化け怖いのか! わわわ、わんこだって。済ました顔してるくせに、お化け怖いなんてわら、笑っちゃうね!
怖がりながらもテレパシーで喧嘩する二人。
唖然としているフリーに、それは襲い掛かった。獣の鳴き声のようなものを出し、フリーの首を両手で掴むと押し倒す。
「ぐっ」
『ああああああぁぁぁああああ』
ぎしぎしと喉を締め上げる。フリーの顔色がどんどん悪くなっていく。
「なにするんだ!」
赤熱する怒りが恐怖を押しのける。ニケはお化けに飛び掛かるが、
「ニケ君! 駄目」
『ぁぁぁああああああぁぁ』
「それ」の首がろくろ首のように伸びたかと思うと鞭のようにしなり、ニケを弾き飛ばす。
「きゅっ」
だが小さな身体が壁に激突する寸前、滑り込んだイヤレスがさっきのように抱きとめる。が、威力が大きかったのか背をどかんとぶつけてしまう。
「……うっ」
「蝙蝠野郎!」
「危ない!」
キミカゲが少年たちに覆いかぶさる。剣山のような針牙をびっしり生やした口がキミカゲの背を食い破ろうと迫った。
「――いや、貴様。我が君じゃなかったんですかい?」
うぷぷと笑うのを堪えるような声。
間一髪で、それは間に合った。
ろくろ首が振り向くより速く、鬼の拳が振るわれる。
『あ?』
顔を思いっきり殴られ流星のように飛んだお化けはキミカゲの背中上を通り過ぎ炊事場の壁を突き破り、裏庭の木にぶつかった。
『…………あ? あぁ……』
雨のように木の葉が舞い散り、熟睡していた毛虫たちも目を丸くしてぼとぼとと落ちる。
舌をだらりと出し、毛虫と木の葉まみれになったそれは動かなくなる。
「……」
呆然とそれを見ていたが激しい咳が聞こえ、すぐに全員がフリーに駆け寄る。
「おい! フリー」
「フロリア。大丈夫?」
「フリー君」
喉を押さえ咳き込む白い背中を摩る。喉仏を力一杯押し込まれたせいか、びちゃびちゃと戻していた。
「フリー!」
「……っか、あぁ……」
顎を撫でつつ、鬼はのんきにフリーの背中を見つめる。
「うーん。えずいている我が君は色っぽいですねぇ。ちょっと味見を……」
ニケは炎樹の机で、キミカゲは三段薬箱でどかどか温羅を殴る。
イヤレスはちょっと状況が呑み込めない顔で、それでもフリーの顔を覗き込む。
「えっと。大丈夫、かい? 声、出せる……?」
あまり他人を心配したことがないのか、慣れてなさそうな声色だったがフリーは無理矢理笑みを作る。
「ん……げほげほっ」
「あ、無理に喋らなくていいよ。ちょっと! 鬼殴ってる暇があるなら医者呼んでよ」
おじいちゃんはすぐに戻ってきた。
「私です」
「あ、そうなの?」
「ニケ君。フリー君を布団に運んで」
「はい!」
診察を終えるとキミカゲは肺の空気を全部吐いた。
「はあー……。喉がやられてるね。フリー君だから治るのに時間かかるけど、治るからね?」
ニケが泣きそうな顔になったので胸を張って治ると断言してやる。不安を取り除くのも役目であるし、もし治らなくても意地でも治す。
涙を堪え、幼子はうんっと頷く。
泣いてもいいのに。我慢しないでほしい。
手元が見えないので家にある行灯すべてに火を点した。ううん。これでもまだ暗いね。誰かアキチカ呼んでほしいよ。
苦しそうに目を閉じているフリー。その顔を覗き込んでいる夢蝙蝠族に目線を移す。
「それと、イヤレス君……だったかな? 背中、大丈夫かい? 見せてごらん」
「大丈夫さ。このくらい。もう痛くないからね」
「羽を痛めていたら大変だ。見せてごらん」
「え? ……あ、う、うん」
「見せる」を選択しない限りずっとこのやり取りが続くと本能で察したのだろう、素直に帯を緩め背中を晒す。
「羽に触るよ?」
「どうぞー」
ニケは気まずそうにとことことイヤレスの前に回る。
ぺこっと、気持ち頭を下げた。
「……さっきは、助かった。ありがとう」
「君に礼を言われると寒気がするよ。……でも礼はいらないよ。君はフロリアの大事なヒト、だからね」
色の濃さが違う瞳がフリーを一瞥する。
「フロリアを悲しませたくないしさ」
「……」
赤い瞳を見開き、だが何も言わなかった。もごもごと口ごもるとフリーの横に歩いていく。
イヤレスはからかうようにくすっとほほ笑む。
「ちゃんとお礼が言えるなんて、偉いじゃないか」
「ふん!」
「ニケ君は? 怪我はない?」
「大丈夫で――」
待て。うかつに大丈夫と言うな。身体のあちこちをぺたぺたと触る。あれの牙は針のようだったがニケに傷一つない。運よく牙が帯の護り刀に当たったようだ。帯の一部が裂けている。
「帯が……。でも僕に怪我はないです」
「うんうん。何よりだよ。帯はあとで、アップリケでも塗ってあげようね」
「かっこいいやつにしてくださいね」
先手を打っておかないと、可愛いのにされたら照れる。
キミカゲはにこっと微笑んで頷く。
「そうだね。そういえば、温羅君は?」
「帰ったんじゃないですか? 気まぐれな奴ですし……」
すんすんと鼻を動かす。裏庭の方からあの鬼のにおいがする。驚きだ。まだ居たのか。お化けを見張っているのだろうか? あやつはそんな勤勉ではないぞ。
「ちょっと見てきます」
「危ないよ! ここにいなさい」
「ちょっとだけですから」
もし万が一。温羅がお化けにやられている可能性もある。なるべく足音を消し、壁からそろっと顔を出す。
ぐちゃっ、ぐちゃっ。ばきっ、がりごり。
「……何の音だ?」
口の中で呟き小さい文字を見るかのように目を細める。暗いが、月明りもあるしなんとか見通せる。
――見るんじゃなかったと、後悔した。
ばらばらになったお化けを、温羅が食べていたのだ。
「!」
うぷっと口を押さえる。曲がりなりにもフリーに似た肢体が。捕食されている。
たまらず翁の元へ走った。
「うえええええん!」
「ニケ君? ど、どうしたの?」
白衣を掴み顔を押しつける。
「うびゃああああああっ!」
フリーと間違い抱きついただけじゃなく、あんなグロイ場面まで。フリーは幻影族を見破り、鈴音族にまで気づけるのに。僕ときたら。
色んな感情が混ざり、涙が止まらない。顔を真っ赤にし大声を出す。
「びゃああああああん」
「ニケ君。おお、よしよし」
尋常ではないニケの様子に一旦治療の手を止めて、彼を抱きしめる。
「……どうしたの? わんこ」
胡乱な目をするイヤレスも見に行こうとしたが、嫌な予感がしたキミカゲとニケが全力で止めた。
せっかく止めたのに、向こうから来た。
「何事ですかい?」
口の周りを血で汚し、片手に生首と喰いかけの腕をぶら下げた赤毛の鬼。
「「あ、ああああああああびゃああああ!」」
跳び上がり抱き合うニケとイヤレス。視界を妨げるように彼らの前に移動する。
「こら! そんなもの持ってくるんじゃないの。めっ」
「……ははあ。我が君の気の抜ける叱り方は、アンタを真似たものでしたか」
ずんずんと温羅が距離を詰めてくる。骨付き肉を持ったまま。
人族の次に弱いキミカゲではどうしようもできない。ただ後ろを庇うように両腕を広げる。
泣く子どもたちに怯えた表情の薬師。
鬼は気分よくニヤリと笑ってみせる、が――
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