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肆意
09 薔薇風呂
しおりを挟む器用に傘を差したまま男の子をおぶると、来た道を引き返した。
「キャットは散歩してきて構わぬぞ」
「ありがとうございます。ごっちん様がおられない空間に興味ないので、俺も宿で一休みします」
「そうか」
そう言うと分かっていた。目線が高くなり、すれ違う人の顔が良く見える。
「キャットは平気か? 暑くないか?」
「火の中でも平気です」
「そうかすごいな」
人を背負っているとは思えないしっかりした足取りで歩く。
人の姿のキャットに乗っているのも楽しい。横を見るとキャットの耳があるので、ちゅっとキスしておく。
がくんと膝から力が抜け、キャットは前のめりに倒れた。やけにスローで倒れたのでごっちんが前方に転がっていくことはなかった。
「おい。大丈夫か?」
「……。なぜそのような罪深いことを……?」
「お礼にと思ってな」
通行人が恐る恐る近寄ってくるが、キャットは自力で立ち上がった。
「も、もう。危のうございます。ごっちん様に何かあったらどうするのです?」
「ほう? どうするんだ?」
「……え? そ、それは……」
もごもご何か言いながらキャットは宿に早足で戻った。
帰ってくるのが分かっていたかのように従業員が玄関で正座していた。
「おかえりなさいませ。暑かったでしょう。冷たいものなど部屋に届けますね」
「……ええ」
暗い廊下に消えていく後ろ姿を見送り、部屋に戻る。また侵入者と鉢会ったらどうしてくれようかと心配したが、和室は無人だった。
座椅子にやさしくごっちんを座らせる。
「ご気分はいかがですか?」
ごっちんは苦笑気味に前髪をいじる。
「平気だ。暑さと言うか……ひと……」
はたっと気づき、途中で言葉を切る。
「人の多さに疲れたようだ」→「全滅させてきます」という流れになる未来しか視えない。
「……」
言葉を待っている真剣な満月の瞳。ごっちんは迷うように一度うつむくと、キャットの胸にもたれた。
「ごは!」
「……なんでもない。お前と二人きりになりたかったのだ」
そう言うと大の字で倒れたので、持ってきた本を読もう。
「ううむ」
座椅子が思ったより落ち着かない、というより、座椅子はどう座るのが正解なのだ?
もぞもぞと尻を動かすが結局落ち着かなかったので、薔薇のしおりを挟んで本を閉じるとごっちんも横になった。
キャットの腕に頭を乗せ、胸の上に手を置く。上下しているので生きてはいる。
「ジュリス……」
退屈そうに呟き、ぷいぷいと寝ている人の頬をつつく。
夕方になると気温も落ち着きを見せる、と思っていた。
「「……」」
蒸し暑い空気がどっかりと双肩にのしかかる。
「晩飯の時間にまでは戻ってきてくださいね~」
手を振る従業員に見送られ、ごっちんとキャットは温泉巡りに向かう。
「少し眠ったおかげか、元気が出てきたな」
「それはようございました」
寝てしまったことを悔いているのか、引きつった笑みだった。
考えることは皆同じか、道行く人も多くなる。
向かったのは『花の湯』。季節の花びらが浮いている温泉。効能や温度を無視して薔薇風呂目掛けてのれんをくぐる後ろ姿は尊い。
女湯の方は満杯の文字があったのに、男湯は比較的空いている。洋館の脱衣所よりは狭いが、白のフローライト(照明用の光石)のおかげで明るい。そもそも洋館の脱衣所が広すぎるだけだ。何を思ってあんなに広くしたのか。
「ごっちん様。他の客を追い出してきますのでしばしお待ちを……!」
「何を言うのだお前は」
「ごっちん様の裸を有象無象に晒すなど耐えられません。二秒ほどお待ちいただければ」
「そんなこと気にせずとも良い」
「……はい」
脱いだ服をカゴに入れていく。
「せっかくだ。湯上りは浴衣で歩きたいな」
「ではこの後は、レンタル店に行きましょうか」
「うむ」
タオルだけ持って浴室へ続く戸を開く。
先に身体を洗い、薔薇風呂に突進していく。驚きの早さだった。
「ふう……」
ちゃぷっと口の下ぎりぎりまで湯につかる。スパイシーな甘い香り。とろけた顔でフンスフンスと香りを堪能する。
(むむ……。薔薇本来の香りは薄いな)
お湯に浸かっているので仕方ないが、今漂っているのは香油による人工的なもの。
(だが悪くない……)
赤い花びらを摘んだり頭に乗せたりしていると、水面が揺れた。誰かが入ってきたようだ。キャットではない。魔力の桁が違う。一般人だ。
「わっ。ここすごいよ! 真っ赤だ」
「これは薔薇、だな」
元気いっぱいの声に目を向けて見れば、子連れ……弟か? とにかく小さな子を連れたお兄ちゃんだった。
「気持ちいいね」
「溺れるなよ?」
「だ、大丈夫だって」
仲がよろしいのかぴったりとくっついている。ほほ笑ましい光景だが、こんなものを見せられるとごっちんもうずうずとしてくる。キャットはまだか?
ちらっと目を向けると髪を流しているところだった。長いからなあいつ、髪が。
むすっと膨れていると子連れのお兄ちゃんが近づいてきた。
「こんにちはー」
まったく人見知りしないようなほんわかした声。
「一人? 誰かと一緒じゃないの?」
「うむ。気にしなくていい。あそこにおる者と来ている」
指さした方を見て、白髪の男は納得したようだった。
「そっか。急に話しかけちゃってごめんね」
「いや」
幼子を抱いた男はすんなり離れていく。
そわそわ身体を揺らしていると、やっとキャットが入ってきた。
「遅いぞ」
ゆっくり洗えばいいと思うが、つい文句が口から出た。
「も、申し訳ございませぬ! 首吊って参ります」
予想通りの反応を見せるキャットに、ごっちんはぴたっとくっつく。
「―――ッ!」
ムンクになるキャットを見もせず、満足そうに肩に頬を擦りつける。ふう。あんな仲良さそうな光景を見せられてはマネしたくなってしまう。
逞しい腕にしがみつき、心行くまですりすり。
「―――!」
「ふう。いい香りだな。そう思わぬか?」
「―――!!」
「私は赤い薔薇が一番好きだ。ここの風呂屋は分かっている」
「―――!!!」
「少々熱いが、これもまた良き」
だんだん聞こえないほどの高音になってくる悲鳴に、ちらっと目を上にやる。イケメンがしてはいけない顔をしていたのですっと離れた。
「しっかりしろ」
「……ぐっ、はあはあ……。全細胞が若返るところだった」
こいつは心配いらんな。
「くっついただけで大げさな奴だ。少しはあの辺を見習って髪でも撫でたらどうだ?」
目を向けるとキャットも目線を動かす。二人の視線の先にはいちゃこらするお兄ちゃんと幼子が。
「ご、ごっちん様の御髪をさわ、ささ触る……⁉ いったい私がどんな手柄を立てたと言うのですか?」
手柄を立てた褒美が髪に触れるだったら暴動が起きそうだ。四天王あたりでも顔をしかめていると思う。
ごっちんはわざと悲しげな表情を作る。
「……駄目か?」
「喜んで撫でさせていただきます!」
声が大きい。女湯まで聞こえそうな声を出すな。ほら、子連れの兄ちゃんもびっくりして……こっちを見てすらいなかった。完全に二人きりの空間を作り出している。モノクルをつけたまま入浴している青年に気づいてすらいない。ただ者ではないな。
キャットの手が震えながらそーっと近づいてくる。少しでも動くと手を引っ込めそうなので、じっと黙って待つ。
「本当に? 本当にさわっさささ触ってもよろろろしいので?」
「許可する」
なんか息が荒いキャットの手が二十秒ほどかけて頭上までやって来る。
あまりに手が震えるので手首を掴んで「鎮まれ我が右腕!」とやっている。年中楽しそうだなこいつは。ベリル(右腕)はお前だろうが。
根気強く待っていると、ようやく指先がちょんちょんと髪に触れた。
「我が人生に悔いなし!」
「……」
すぐ手を引っ込めて顔を両手で覆ってしまう。
いや髪に触れただけだぞ。指先が。
「これ。しっかりしろ。頑張れ。お前は出来る子だ」
「……ごっちん様」
子ども扱いされて頬を染めるな。
「まったく。私が撫でろと言ったらすぐに撫でてほしいものだ」
エイオットの真似をしてぷっと頬を膨らませるも……ちょっと恥ずかしい。ぶくぶくと顔半分まで沈む。
「可愛い……」
「見るな」
自分でやっといて照れくさくなったので後ろを向く。
ごっちんは薔薇風呂以外興味ないのか、他の湯には移動せず二十分ほど堪能していた。夏場なのに熱い湯にかなり長い時間入っていたと思う。
「お前は他の湯に入ってきてもよいぞ? バフの花びらの湯もあるぞ」
「そうですね」
「……」
にこにこ笑って私のそばから動こうとしない。
まあ、好きにさせよう。
十分満足したので風呂から出て脱衣所へ。タオルで身体をくるみ、もう一枚タオルを持つとキャットに近寄る。
「お前は髪が長いから。どれ。私が拭いてやろう」
「そそそんんそのようなことは! させられません!」
「座れ」
「はっ」
脱衣所の長椅子に腰掛けたキャットの後ろに回り、うるつや髪にタオルを押し当てる。
「浴衣の店に行く前に、もう一つくらい温泉に行っても構わぬか?」
「それはもちろん」
なんだ。そんなことさせられないとか言っていた割には、嬉しそうな声音じゃないか。
そっと顔を覗くとお風呂に入ったくせに青ざめて表情筋まで固まっていたので見なかったことにした。
キャットの両肩に手を置き、髪に鼻先をくっつける。
「……うむ。薔薇の香りが移って良い感じだ。お前本来のにおいも好きだが。お前に合う薔薇の香水でも贈ろう」
「……」
喜んでくれるかと思ったが返事がない。あれだけ薔薇風呂に入れるのだから嫌いと言うことはないと思うが……
「キャット?」
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