ニケの宿

水無月

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第五十六話・ぶちゅっ

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「ここはヒトの目が多い。続きはどこか、路地裏などでしましょうか」

 頭に赤犬族が噛みついているが、平然と歩き出す。
 あっさり細い路地に連れてかれる。鬼が怖いのか、誰も野次馬根性を発動させなかった。
 たむろしていた浮浪児たちが、鬼を見るなり我先にと散っていく。ニケは地面に下りると、温羅の足を蹴りつける。それでも止まらない。何で出来ているんだこの鬼。
 息を荒くし、ぼうっとしているフリーに怒鳴る。

「フリー! 魔九来来を使っても構わん! 逃げろ」

 どれだけ酸欠だろうとニケの声は拾う耳が、脳に命令を伝える。

「――お」

 すぐさま唇が覆いかぶさってくる。

「んううっ」
「あの物騒な刀を呼ぶなど、野暮ですぜ」

 涙で滲んだ金緑の瞳を間近で見つめる。


 
 ――ドスッッッ!

「「……」」

 なにか、すごい音がした。

 フリーとニケが呆然とする。温羅も、なにが起こったのか分からない表情で、恐る恐る眼球を上に動かす。
 鬼の脳天に、黒い刀が深々と突き刺さっていた。

「は……はあ……?」

 震えながら動揺する鬼が見つめる中、呼雷針は霧のように消えた。鬼の頭から冗談のように血が吹き出す。

「ああ、あ、ああああああ、あああああっ⁉」

 鬼の腕からぽとっと零れたフリーをニケが受け止める。と、そのまま走って距離を開ける。

「フリー! 大丈夫かっ?」
「う、うん」
「お前さんの刀は? 呼ばなくとも降ってくるのか?」
「……さ、さあ? でもナイス」

 ニケの頭に腕を回し、存分に抱きつく。
 詠唱が完全ではなかったためか、普段ほどの迫力や勢いはなかったがそれでも降ってきてくれた。

(名前に「呼ぶ」が入ってるくらいだし、呼ばれたと感じたら降ってくるのか?)

 そもそもあの刀はなんなのか。何故空から刀が降ってくる?
 鬼の防御力をやすやすと貫通したのもそうだが、空から見れば点としか見えない鬼の脳天に、狙い違わずよく落ちてきたものだ。
 脳みそごと串刺しになったというのに、温羅はもう回復したようだった。

「いてて……。勘弁してくださいよ、我が君」

 こっちの台詞である。

「いきなり何するの! 口づけしていいよ、なんて言ってないでしょうが」

 許可なくするなんて。キミカゲの授業を受けて来いと言いたい。

「へえ? 口寂しくなったからしたんですが? 我が君も気持ち良かったでしょう? それに、そこの赤犬族を傷つけてはいけないとは言われましたが、主を襲うなとは言われてませんからねぇ」
「そんなことまでいちいち言わなきゃいけないの? 口づけはお互いの合意の元でしなきゃいけないのが、常識なんでしょ?」
「どこの良い子ちゃんの常識です? 我には当てはまらねえですねえ」
「むがーっ」

 こんなに真っ赤になってムキになっているフリーをはじめて見た。



 水筒の水で口内を漱(すす)がせる。

「可哀そうに。口に変なもの突っ込まれて……。しっかりうがいしておけ」
「がらがらがら」

 ぺっと水を吐いて、濡らした手ぬぐいで丁寧に唇を拭う。
 遠慮なく口内口周洗浄を始める主に、鬼は苦い顔で笑うしかない。

「目の前でそこまで洗われると、流石に傷つくんですがね」
「もっと傷つけ。僕の物に勝手に触りやがって。強いからって調子乗んな」

 塩の代わりに浮浪児たちが作った砂のお城をぎゅっとかき集め、鬼に撒いてやる。時速百六十九点一キロで飛行する砂玉。ボバッと鬼の顔面で爆発した。

「ふう。ばっちり洗ったよ」

 にこっと笑うフリー。ニケはぱんぱんと砂のついた手を払うと、ぶちゅっと彼の唇に唇を押し当てた。

「……」

 すぐに理解できず、数秒固まる。数秒後、フリーの顔は気持ち悪いほどにやけだす。

「んふふふふふっ。ふふふふふふっ」

 怖くなったので、ニケは顔を離す。
 だがすぐにしゃがんでいるフリーの背中や腕や顔に、顔や手のひらやお尻をこすりつけ、においを上書きしていく。

(ランランはいいけど、この鬼のにおいがついているのは許せん!)

 ほっぺすーりすーり。すーりすーり。

「……」

 手のひらでぺたぺたぺたぺた。

「……んふっ」

 お尻しゅーりしゅーり。すーりすーり。

「あはははははははっ!」

 目は笑ってないのに大口開けて笑い出したフリーに、ニケは十歩くらい離れる。温羅も一歩下がった。

「……なに笑ってんだ?」
「ニケが遠い! いや、あまりに可愛いものを見ると、にんげ、幽鬼族って笑うじゃん?」

 幽鬼族に凄まじい風評被害が。
 フリーはニケを捕まえようと手を伸ばし、じりじりと近寄る。

「ねえ。もう一回やって。もう一回。お尻すりすりして! お尻振ってるニケが可愛いからやって。お尻可愛いね! もっと見たいよふりふりしてほらああああっ」
「……」

 険しい顔で後退りするニケ。
 フリーが蜘蛛男に変化しそうになった瞬間、温羅がひょいと首根っこを掴んで主を持ち上げる。

「ふえ?」
「洋服店はこっちですぜ」

 回れ右すると、そのまま歩いていく。ニケはちょっと離れてついていく。

「急に切り替えてどうしたの?」
(我が君を見ていると、本当に毒気が抜かれるぜ……)
「おーい?」

 あと、もうちょっと高く持ってくれないと、つま先が引きずられるんだけど。
 温羅はちょっと引いたような顔色だった。

「我が君が通報されそうな気がしたんで」
「君に言われたくないオブザイヤー」
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