ニケの宿

水無月

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第十四話・甘えたい

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 迂闊に「大丈夫」と言おうものならキミカゲに笑顔で「睨まれる」。ハッとなったフリーは慌てて首を振った。ちなみに一分前に、ニケと同じ質問をキミカゲにされたばかりである。

「頭痛いのもおさまったし、吐き気もないよ。左腕の包帯も取れたし」

 ホラ、と左腕を見せてくる。
 動かないはずの手で翁の首を絞めた時は、驚いたと同時に治ったのかと……不謹慎だがニケは喜んだ。だが痛みが一時的に腕を動かしただけだった。
 ようやく両手が自由に使えるようになり、フリーの左手がさっそくニケの頬を摘まむ。
 ぷにぷに。

「ああ~。久しぶりのぽよぽよ……。ああああ生きてて良かった……はあはあ。はあはあ」

 夢の世界に浸っているような顔に、ミナミが「え? この兄ちゃんやばい人なの?」と顔を強張らせキミカゲの背後に隠れる。これでニケが嫌がっていたら素直に助けられるのだが、なんかめっちゃ嬉しそうに尻尾が揺れている。
 鈴蘭柄のうちわを握っているミナミを呆れたように睨みつつ、ホクトも輪に入る。
 で、フリーの右手は何をしているのかと言うと――しきりに汗を拭っていた。

「でも暑さが堪えるよ。空気重いし暑すぎるし食欲帰ってこないし」

 キミカゲから借りている鈴蘭の手ぬぐいが、大活躍している。本当はこれでいつものように髪を纏めたいのだが、汗も拭いたい。そうしないと汗が畳にぱたぱたと落ちていくのだ。

「むう。まだ食欲は出ないか」
「多分秋になったら戻ってくると思う」

 何ヵ月かかるねん。
 それはそうと、せっかく元気になったフリーが目の前にいるのだ。抱きついて顔をぺろぺろ舐めてついでに頬ずりもしたいのに、護衛の視線があるため出来ない。キミカゲには色々目撃されているし、フリーのことが好……気に入ってやっていることもバレているからもういいのだが。護衛たちの前では大人の仮面を被り、ここ数日ずっとカッコつけて働き者の姿を見せてきたのだ。

 ――今更フリーに甘えているところを見せられないいいぃ!

 フリーが起き上がってきた日に間髪入れずに抱きついたが、あれは感動の抱擁だったと言い訳が出来る範囲内である……とニケは深く考えないことにしている。
 心の中でぐっと拳を握る。
 ぱたぱたと尻尾は揺れているがその辺は無意識だった。
 なので! フリーからやってくれれば問題ない。フリーの方から抱きしめて頬ずりして、僕が「やれやれしょうがないな」といった雰囲気を出す。そうすれば僕が甘えているようには見えないはずだ! そうだ、そのはずだ! 完璧な計画だ! そういうわけなのだ!
 オラやれぇ! とばかりにフリーの両頬を掴むニケの可愛すぎる後ろ姿に、キミカゲは「なんであの真正外道はカメラを造って逝かなかったのか」と激しく恨んだ。

「キミカゲ様?」

 ミナミが後ろから顔を覗き込む。なにやらすこぶる動揺している様子で、笑顔のままなのだが、手にした湯呑のお茶が激しく波打っている。
 しかし相手はあのフリーである。ニケのそんな思いなど届くはずもなく、ただニケに構ってもらえて――頬を伸ばされたまま――にこにこ微笑んでいるだけであった。

「はあ。もういいわクソが」
「ニケっ?」

 急にテンションが暴落した幼子に目を剥くも、ニケはすたすたと自分の席に戻ってしまう。
 ふたりがほほ笑ましいやり取りをしている間、護衛ズもやかましかった。
 ミナミの握っているうちわを取り上げる。

「フリーさんにうちわを貸してやらんかい! あの汗が見えんのか」
「ああああ返して! うちわ一個しかないんだって」
「だったらなおさら独り占めすんなや。だからお前友達いないんだろ」
「ぐっは! ちゃんと五分使ったら交代って、フリーさんと話し合って決めたんだよ」

 ぎゃいぎゃい。

「……」

 大声を出すなと何度言っただろうか。まあ、いまは診察時間ではないので大目に見よう。怒りを通りこして悲しくなってくるキミカゲである。

「君たちが元気いっぱいで私は嬉しいよ。でもいまは水分補給をしようね?」

 人数分の湯呑にぬるい水――一人分だけ水――を注いでいく。
 取っ組み合いをしていた青年たちは物分かりよくすすっと席に戻ってくる。
 水の入った湯呑を見て、ミナミはうぷっと口元を押さえる。

「朝起きて水飲んで、朝食食べて水飲んで、用事終わったら水飲んでって……。まだ昼前なのに何回水分補給したことか。もうお腹タプタプなんすけど……」

 口には出さないがホクトも同じ気持ちである。敵を見るような険しい顔で湯呑を見つめている。
 キミカゲは優しくミナミの黒髪を撫でた。

「何か言った?」
「いやー、すげえ水がうまいわああ! 飲むしかねぇなああ!」

 壊れたように水を呷るミナミに、ホクトも焦ってぬるい水に口をつける。こうなることが分かっていた二名は黙ってぬるい水をすすっている。

「暑さを甘く見ないの! 忠告を聞かず脱水症状になったら重しをつけて池に沈めるからね。まったく……どこかの街の治安維持隊では、鍛錬時水を飲んではいけないとか信じられない教訓があるらしいじゃないか。それで死人が出ているんだよ」

 その話を聞いた時は憤死しそうになった。
 「許せない。池に沈めてやりたい」と親指の爪を齧りながらぼやいたものだ。だがぼやいた場所が悪かった。すぐ横に竜がいたのである。
 「あ」と思ったが一度発した言葉を戻すすべはなく、散歩のついでに池に沈めに行きかけたオキンを止めるのに膨大な体力を使うはめになった。
 閑話休題。

「わかったかな?」
「「「「はーい」」」」

 子どもたち四人の声が重なる。ひとつだけやけに不服そうな声音が混じっていたが、キミカゲは笑顔で頷く。

「ところでキミカゲさん。俺ってもう、仕事に行けますかね?」

 湯呑を置いたフリーが問いかけてくる。

「ふうむ。そうだね。まだ――」
「まだ休んでいた方がいいんじゃないか? お前さん、すぐ倒れるし無茶するし巻き込まれるし首突っ込むし。暑さにも弱いときた。日中なんてひっくり返っているじゃないか。無理に出勤してもディドールさんに心配かけるだけだ。もし休みすぎでクビになっても、お前さんなら仕事すぐに見つかるだろうから心配するな。だからもうしばらくはきちんと休んで英気を養い夏に負けない身体を作ってからだな――……」
「……」

 キミカゲは愚痴のような説教のようなニケの声を聞きながら、ずずっとぬるい水をすする。言いたいこと全部言ってくれたので、特に言うことはない。同調するようにうんうんと頷くに留め置く。
 フリーはぱちぱちと瞬きする。

「そ、そう、だね?」
「そういや借金されているんでしたよねー」
「……」

 そよそよと、ぬるい風が前髪を撫でていく。
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