ニケの宿

水無月

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第五十話・渦巻く不安

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 どこかの空き家。
 荷物(仲間)を下ろした頭(かしら)は追手がないことを確認し、扉を閉める。

(しっかし……。なんだこりゃ)

 彼が蛇でなかったら、冷や汗を拭っていただろう。さっきから警鐘が鳴りっぱなしで、背筋が冷たくてたまらない。
 星影は惜しかったが、さっさとあの場を離れて正解だった。
 空を見上げて、彼は忌々しげに舌打ちする。



 羽梨(はねなし)神社。辺りがいっそう暗くなり、境内がざわつく。祭りを楽しむ声はなく、人々は不安に駆られていた。親はさっと我が子を抱きしめる。
 先ほどから、何かがおかしい。生ぬるい風は亡者の叫び声のような音を出し、上空は稲光を伴った雲が渦を巻く。
 この世の終わりのような光景。

 ――ぽつ。ぽつ。

 化け物の誕生に怯えているのか、空が泣き始める。
 その全てが目に入っていないかのように、ニケはキミカゲを探し回っていた。

(翁! ……くっそ。こういう時厄介だなあのヒトっ)

 自慢の嗅覚聴覚が、意味をなさない。神社に着いて真っ先に休憩所に飛び込んだのだが、彼の姿はあいにくなかった。
 近くにいた人に尋ねると、キミカゲは数分前境内の見回りに行ってしまったとか。

(ああもうっ、なんでこんな苛々するんだ)

 キミカゲに腹を立てているのではない。なんだか先ほどから――あり得ないことだが――フリーが助けを求めている気がしてならないのだ。

(あやつが? もしや苦戦しているのか? そんな馬鹿な)

 相手は鬼だ。単純な殴り合いなら、敵う者はいないであろう種族。殿堂入りしている竜は除くが。それなのに強者を求め、勝負を吹っかけてくる迷惑な生き物。
 それでもフリーなら大丈夫だという思いが抜けない。相反する二つの思いが混ざり合うから、イラつくのだ。

 このときのニケは、フリーは大丈夫だと思い込まなければ、立っていられなかったのだろう。

 焦りが気を逸らさせる。不安と焦燥が理性を麻酔させ、ニケの五感をさらに鈍らせる。すぐそばをキミカゲが通りかかったことに、気づかないほど。
 翁を探して走り出す。神社の奥へと。



 異変を感じつつなんとか神楽を舞いきった双子巫女は、ざわつく観客に本殿へ避難するように告げると、即座にアキチカの元へダッシュした。
 彼を盾にするように背後に隠れる。

「先生ぇ~。なんでしょうかあの雲」

 怯えた声を出し、マチルダは足元にきた末っ子を抱きあげる。
 姉はそんな妹を抱きしめ、優しく髪を撫でた。

「神の怒り、ですかね~? 先生、何をやらかしたんです? 早く土下座決めて鎮めてきてください。怖いですー」
「待って。なんで僕がやらかした前提なの? これは……」

 この日のために厳選した榊の枝を持ったアキチカが、黒い雲を見上げる。
 アキチカの着替えをいつものように手伝おうと、双子巫女の姉、スイーニーが着物を畳もうとしたが、妹の腕が離れなかった。

「およ~?」

 下を見るとマチルダが「怖い。離れん」と言わんばかりにしがみつき、胸に顔を埋めている。末っ子にいたっては親指を銜えて熟睡中。
 長女は仕方なく、妹ズをよしよしと撫でまくる。

「だってー。先生ってヒトを怒らせる天才じゃないですかぁ。キミカゲ様しかり、どこかの竜さんしかり。常に誰かの血管切れさせて~。仕える神様、間違っていません? 煽りの神にでも仕えてどうぞ~」
「なんてこと言うのこの子!」

 教え子に言い返すも迫力もなにもなく、紫の目には涙をいっぱい貯めている。
 ぐすんと鼻をすすり、アキチカは人差し指を立てる。

「あれはキミカゲさんとオキンさんが怒りっぽいだけであって……、僕のせいじゃありません。断じて」

 双子は顔を見合わせると、はぁ~とため息をついた。

「はいはい。そういうことにしておきます」
「ていうか先生。また一人称が「僕」になっていますよー」
「おっと」

 榊の枝で口元を隠す。
 一人称矯正中だというのに、またやってしまった。でもつい忘れちゃうんだよねえ。
 それを微笑まし気に眺めていた水色袴の中年の背後で、声かけもなく扉が開かれた。
 ばんっ。

「え? き、君! ここは立ち入り禁止だぞ」
「すいません。邪魔します!」

 揃って声のした方に目を向けると、夜空柄の着物の少年が飛び込んできたところだった。
 見覚えしかない少年だ。
 アキチカは教え子たちを庇うように前に出る。
 ……そんなアキチカ守るように、双子巫女が侵入者に立ちはだかる。

「あれぇ? 君たち?」

 後ろで情けない声を出す神使を無視して、最小狐姉妹は少年を睨む。

「なんですか、貴方」
「迷子ですかー?」
「ぐああああっ。眩しい!」

 少年は眼前に太陽でも出現したかのように、目を庇って腕を眼前で交差させる。

「ぐっ……。目がやられるかと思った」

 侵入者の少年――リーンはごしごしと目を擦ると、ポカーンとする双子巫女に尋ねる。

「あのっ、アキチカ様おられますか? 緊急事態で――あっ、居た」

 訊ねるまでもなかった。双子巫女が壁になろうと、小柄な彼女たちでは長身の男性は隠せない。
 リーンは巫女の横をダッシュですり抜けると、一瞬躊躇したのち、アキチカの手を取って反対側の出口へ駆け出した。

「え? うそっ、速い」
「ちょっとぉ。そのヒト誘拐してもいいことなにも、ありませんよー? 神使である以外に、取り柄とかないお方なんですからー」
「スイーニー? ちょっと後で話がある!」

 引きずられながらも指差しながら教え子に怒鳴る。

「おのれっ」

 水色袴が護身用の薙刀を手にするが、アキチカに目で制された。薙刀を構えた腕がビクッと止まる。

「アキチカ様っ?」
「すぐ戻るから。君はマチルダたちの側にいておくれ」

 それだけ告げると、むしろリーンを抱えて走り出した。

「え?」

 逞しい腕で荷物のように小脇に抱えられる。

「君、足怪我しているだろう? それで? 緊急ってなんだい?」
「あ? え? ああ、えっと……。ちょっと友人がピンチで――キミカゲ様も探していまして」
「そうか、そうか。治安維持隊じゃなくて私の方にくるってことは、まあそういうことなんだろうね」

 予想外の事態に、リーンの方が困惑した。説得するのに時間がかかるだろうと踏んでいたのに、アキチカの状況判断の早さに驚愕する。

「でもごめんね? ちょっと寄り道するよ」
「え?」

 人混みを縫うように駆け、手水舎の屋根に飛び上がる。そしてまた屋根から屋根へ移っていく。雨でぬれた瓦の上を、危なげなく走る。少年一人を抱え、頭に重そうな角を生やしているとは思えない、軽快な動き。

(すっげ)

 目を白黒させるリーンは、舌を噛まないよう唇を真横に結ぶ。
 やがてアキチカは団子の香りのする傘の上に降り立った。ズッと、重みで傘が二センチほど沈む。団子を売っているおやじは驚いて上を見た。
 この広場は一番人でごった返している。だが声も上げていないのにちらほらと、アキチカに気づく者が現れる。まるで長い洞窟をさ迷った末に、差し込む太陽の光を見つけたかのように。

「おおっ。アキチカ様じゃ」
「神使様」
「こ、この雲はいったい……?」

 神使はそれらを見回し、すうっと息を吸い込む。

「みな、大丈夫だ。でも一応、本殿へ避難し、家が近いものは帰りたまえ。それと――誰かキミカゲさんを見なかったかな?」

 不安げに顔を見合わせる人々。やがて我先にと押し合いへし合い――をすることはない。ゆるやかに本殿へと移動し始めるヒトの流れが出来上がる。
 アキチカの目は神の瞳。彼の視界を通して、神が地上を見ておられるということだ。彼の前で不義をするということは、神様の前でやらかすのと同義である。
 その中の数人が、傘の下へ駆けてくる。

「あ、あの。キミカゲ様なら、鳥居の近くで見かけましたけど……」
「お、俺も」
「わしもですじゃ」

 ありがたい情報だったが、彼らの目は「キミカゲ様が彼を探しているならともかく、アキチカ様が彼を探すなんて……」と言いたげだった。がくっと膝がよろける。

 ――私だって用がないなら、あってもキミカゲさんに会いたくないよ。

「あ、ありがとう。君たちも本殿へ行きなさい。宮司さんもうちの双子巫女もいるから、その指示に従うように」
「「「は、はいっ」」」

 にこっと微笑むと、アキチカはその場から跳び去った。
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