ニケの宿

水無月

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第三十七話・海を知らない人

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 数時間の間に三回は水面にダイブしただろうか。
 あまりに転ぶので美衣(みころも)屋さんが一度、心配そうに声をかけてきた。ディドールにもこまめに小休止をとるように言われたので申し訳なくなった。
 すっかり暑さに弱いと認識されてしまった。
 リーンもちょくちょく声をかけてくれたのだが、下敷きにしてからは心配してくれなくなった。そんなぁ。
 鼻をすすりながら体育座りで川を見つめていると、金青の瞳がフリーを映す。

「今日は体調大丈夫か? 倒れる前に言えよ」
「あ、はい。ずぶ濡れのおかげか、暑さはマシです」

 心配してくれた。嬉しい。
 だらしなく笑いながら首の後ろを掻くが、先輩の目は据わったままだ。

「へー、俺様も白い巨人が倒れてきて背中から水被ったからマシだわ。奇遇だな」
「ほんますんません」

 膝を抱えて落ち込む。
 降り注ぐ陽光は相変わらず容赦がない。これでもまだ来月の炎天の月より気温が低いという。……一か月後が恐ろしすぎる。ちなみに今は朝顔の月の上旬である。
 肌に張り付く裾や袖を絞っていき、後ろから持ってきた髪もぎゅうっと雑巾絞りする。
 髪を縛っている薄手の手ぬぐいだけは、揉む程度の力で水気を払っておく。借りものだし、キミカゲにとっては大事なものだろう。雑には扱えない。
 そのまま広げて、頭に被せる。この方が早く乾くだろうという思いと、日よけのために。
 先輩には悪いことをしたが、水にぬれていると暑さが少し和らぐ。しかし猛スピードで乾いていくのでもう一度川に入ろうかなと、腰を上げて尻についた草を払う。

「おい、フリー」
「はい。なんでしょう?」

 振り返ると、先輩も起き上がっていた。

「お前って、泳げるか?」
「え?」

 意味が分からず、首を傾げる。
 そんなフリーを見て、先輩は何かに気づいたようにごくりと息を呑む。

「お、お前まさか! 泳ぐってことも知らない……?」
「し、知ってますよ!」

 流石に知っている。が、これまで「知らない分からない」だらけだったので、リーンのこの反応も無理はない。
 彼はほっと息をつく。

「ビビらせんなよ。来月からやっと海開きだろ? 一緒に海に行こうぜ」
「う、うみびら……?」
「海水浴場を一般に公開すること。やで?」

 先輩が棒読み早口で解説してくれる。いつもお世話になっております。

「うみって、なんですか? 果物?」

 先輩が街中で竜と遭遇したような顔色になった。
 ばっと立ち上がって距離を取られる。

「おお、おまっ、お前! お前……うせ(嘘)やろ?」

 動揺のあまり噛んでしまっている。
 風で飛んで行かないように手ぬぐいの端を握り、いつものように解説を待っているフリーに、先輩は震えた。
 どうでもいいが、いつもより先輩の顔が近くに感じる。目を落とすと常時裸足の彼が、高めの下駄を履いておられる。おや、珍しい。

「う、ううっ。ドールさん。ドールさん!」

 だが、リーンはそんなことはお構いなしに川に入り、だべっているディドールの元へと駆ける。その勢いで、ディドールの背後からそろりそろりと迫っていた変態にタックルをかました。

「どうしたのよ? 走ると転ぶわよ」
「ど、ドールさん! フリーのやつ、海を知らないって……っ。海に行ったことがない、ではなく、知らないんですよ? 海開きの日に海に行こうって言ったら「なんですか?」って言われて……」

 これには周囲のヒトも目を白黒させる。
 ディドールはリーンよりも速く駆け寄ってきた。
 フリーの両腕を掴む。

「ふ、フリーちゃん? あたしのこと、わかる? 暑さでふらつく? それか頭打ったとか、落ちているもの食べた記憶とかない? 熱ある?」
「え? えっ?」

 額に手を当てられていると、リーンも戻ってくる。

「お前。地下で監禁されていたとかじゃないよな? ニケさんがそんなことしないよな? 砂の国から来たと言ってくれ。ついでに砂の国の言葉を教えてくれ。今度旅行しようと思ってるんだ。単語だけでいいから。あとはジェスチャーで乗り切るから!」

 ひとまずおふたりをなだめて落ち着かせる。特にリーンを。あと、旅行なら一緒に行きたい。ニケも誘って。
 フリーは額に張り付く前髪をかき上げる。

「それって知らないとおかしいことなんですか?」
「おかしいに決まってんだろ。海知らないとか、生まれたばかりの赤ん坊しかいないと思ってたわ……。お前に会ってから俺の常識がどんどん崩れていく」
「海っていうのはね? あ、こっちにきて」

 日陰になっている物干し竿橋の下に連行され、海というのもを教えられる。それはいいのだが二人同時に話すから、ほぼ聞き取れない。
 手ぬぐいを肩にかける。

「つまり、大きなお風呂のようなものだと?」
「そう……だな?」
「最初は、ね? その認識で構わないわ」

 説明に疲れたように、こっそりと息を吐くふたり。子どもにも分かるように噛み砕いて説明するというのは、案外難しいものだ。フリーは幼子ではないがあまりに物を知らないために、どうしても子どもに教えたときのように疲労する。

「でも、聞いた限りでは海は誰のものでもないんですよね? なら、海開きを待たなくとも入っていいのでは? 今度の休みにでも行きましょうよ」

 きっと楽しいに違いない。だがリーンは、それは駄目だと腕を組む。

「いや。海開きを待たずに海に入るのはよした方がいい」
「なぜ?」
「危険だからだ」

 ディドールもうんうんと頷いている。

「危険? 溺れるからですか?」
「それもある。海の民と違って、水中で呼吸はできないしな」
「あたしは多少ならできるけどね」

 悪戯っぽく笑う主に、リーンは良いものを見たと言いたげに、口角を上げて頷く。

「ま、絶対に遊泳禁止というわけではないけどな。海開きしていないということは、安全対策がされていないということだ。名称を記した看板の設置もされていない。水質検査もしていない。ゴミや流木、ガラスの除去もされていない。魔物、魔獣避け網の設置もない。便所や海の家も開設されておらず、監視員もいない。な? そんな海に行くのは危険だろう? というか、行きたくないわ」
「ほお」

 分かりやすいと感心するフリーに、お前のせいで無駄に鍛えられたんだよという目線を返す。

「海開きはいつも、炎天(来月)からなんですか?」
「ん? いや。いつもは早くて天雫の月(梅雨)下旬か、遅くとも今月には発表されている。今年が異様に遅いだけだ」

 おかげで涼を求めて川へやってくるヒトの多いこと。ヒトが増えてきた気がする。賑わいが耳を叩く。

「今年はなにが?」

 彼は言いづらそうに顔をしかめた。

「魔物が暴れているって話だ」

 ドールも不安げに頬に手を添える。

「渦大蛇(うずしお)っていう、大きな蛇の魔獣でね? 本来はもっとあったかくて深い海にいるのだけれど。それがどういうわけか浅瀬で暴れていて、その討伐に時間がかかっているのよ」
「そう、なんですか」
「ああ。今年はなんか魔物による被害が多いぜ。どこかの村も、龍虎(りゅうこ)っつう魔獣に襲われて、滅んだらしいしな」

 フリーから表情が抜け落ちた。
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